上士幌町史 概要

役場所在地 北海道河東郡上士幌町字上士幌東3線238番地
郵便番号 080−1492
電話番号 (01564)2−2111
ホームページ http://www.kamishihoro.jp/
Eメール kikakuka@town.kamishihoro.hokkaido.jp
市町村コード番号 01633−1

位置

十勝平野の北、音更川上流流域を占めて上士幌町は展開している。南北48キロメートルのうち、北部約70%は山岳性の地形をしめし、ニペソツ山をはじめ、1,500〜2,000メートル級の山が立ち並んでいる。一方清水谷以南は丘陵性のゆるい起伏をもつ平担地で農耕が発達している。

南西の鹿追町との境には、然別湖があり、音更川上流には、人造湖、糠平湖がある。河川は、町の北端石狩岳連峰に源を発し、十勝川に注ぐ音更川が最大であり、その他東部丘陵地帯を縫って、士幌川、サックシュオリベツ川、そして利別川に注ぐ居辺川がある。

気象

上士幌町は北海道の中心部に位置しているため、冬は低温の内陸性気候である。また、町内でも清水谷以南の平野部と、以北の山岳地帯とでは気象の特色が大きく異っている。

平野部の農耕地帯では、標高300メートルの山麓気象のため、帯広に比べて気温が低く、殊に5〜9月の農耕期間中の積算温度が、帯広2.446度(1971年〜1980年)に対し、上士幌2.213度(1981年〜1990年)と低く、成育期間も短いため、冷湿害を受ける頻度が高く、被害率もまた高かった。

7月、8月上旬にオホーツク海に高気圧が停滞すると、十勝地方では連日寡照、低温、降雨が続き、作物の減収がもたらされている。このため上士幌の場合、冷害に強いといわれる酪農、根菜類の振興が促されている。

上士幌の日照時間は全国的に見て多く、秋冬の10月から翌4月までが非常に多いのが特徴と認められており、未来エネルギー対策のサンシャイン計画で1988年(昭和63年)新エネルギー総合開発機構により太陽光発電農事プラント電力供給システムの実験施設が本町に設置されたのは意義の深いことであった。

気象の特色
十勝の気象
(帯広開発建設部「とかち」による)
上士幌の気象
十勝の中での特色
糠平の気象
上士幌と比べて
1.気候型式としては、表日本型に属し、沿岸部を除き内陸性で夏期は高温、冬期は低温乾燥である。 1.気温は年間を通して、帯広に比べて毎月平約1度くらい低い。 1.海抜540メートルの糠平は、十勝平野部気象とは異った特色をもつ。
2.年間降水量が少く、北見地方に次ぐ寡雨地域ある。 2.年間降水量は帯広とほぼ同じであるが、やや夏に多く冬少い。 2.平均気温が低く、降水量が著しく多い。
3.春季、日高山脈を越えて、フェーン性の乾燥した強風が吹き風害を起す。 3.積雪量は帯広に比べ少い。 3.積雪量は平野部に比べ多い。
4.初秋の台風期には大雨、また冬期には台湾坊主による大雪がしばしばある。 4.年間日照時間は帯広よりも多く、特に冬に多く、夏〜5.6.7月に少い傾向にある。 4.年間日照時間は上士幌よりもやや少く,月別の偏りは、上士幌の形と大きく異なる。夏の日照が多く冬少い。
5.日照時間は、年間約2,200時間であり、晩秋から春にけての日照が多くなる。
6.農耕期間は短いが緯度が高いので日中の時間が長く、比較的低温でも作物がよく育つ。


地名の由来

変りゆく地名

北海道の開発が進むにつれて地名が変り、いつの間にかアイヌ語の地名が失われ、或いは変形されてきた。上士幌町内にはアイヌ語の地名が多く残され、いくつかの伝説がある。アイヌ達の古来からの考え方や生活が投影した伝説、地名は土地に根ざした文化を伝えるものとして大切なものである。

◇士幌の地名と伝説

シュウウホロベツ〜鍋をうるかした川、又は、シ・ホルカ・ベツ。伝説では、むかし北見アイヌ(又は切り盗り無頼の徒)と十勝アイヌが戦って北見アイヌが、今の士幌町佐倉の付近で川に鍋を投げて逃げ去ったところから士幌川の語源になったといわれ、サックシュウウオロペツ(サックシュオリベツ川)は、その支流。伝説とは別に、シ・ホルカ・ペツ(あと戻りする川の本流)というのが本当だという説がある。支流のオサルシナイ川の枝川の多くが本流と逆の方向に向って流れ入っていることからつけられたということなのである。〈更科源蔵・アイヌ語地名解〉

◇居辺(おりべ)

永田地名解(1891年)では「丘の処、ウルヌはフルという意味」と書かれているが明らかでない。川尻まで道である川(山本多助「オッパイ山」)

◇音更(おとふけ)

川原に髪の毛のように柳が密生していたから名付けたというが明らかでない〈更科〉川尻で笹竹が密生していた処と解する〈山本多助「オッパイ山」〉〜音更川左岸について〜〈おもに山本多助の解説による。〉

〜音更川右岸について〜

〜山岳〜

(以上、川の所在は第1編、第1章、第1節の地図参照)註=ペツは川、ナイは沢、ポンは小型、細いもの、ポロは大型、大きい物、ピラ崖くずれの斜面、ペンケ〜前方の、パンケ〜後方の、〈山本〉

イツシナウシ(くしゃみ岩)伝説

糠平ダム工事によって今は地形が変わってしまった、旧国鉄のめがね橋付近の渓流の中に、ひと休みするのに丁度いいような岩が座っていた。むかし上士幌の川は魚が豊富な漁場であった。

ある秋、この付近の漁場をめぐって十勝アイヌと北見アイヌの激しい戦いがあり、十勝アイヌは傷つき敗れてしだいに川をさかのぼっていった。糠平の温泉で傷をいやそうとしたのであった。ヌフォマナイというこの付近にたどりつき、大きな岩で休んでいるところへ北見アイヌが追いかけてきた。あわてて岩のかげにかくれて、やり過ごそうとしたとき、ひとりが思わず大きなくしゃみをしてしまった。気付いた北見アイヌによって十勝アイヌはみな殺しになってしまい音更川は血で真っ赤に染まったという。それからこのあたりをイツシナウシ(くしゃみ岩のある所)とよぶようになった。

先住民族

オトフケの先祖セタアイヌ十勝の広い大地に和人が入ってくるまでは、アイヌの人の天地であった。人びとは自由に山野をかけめぐり、男は狩猟、漁獲、女や子供は野の植物を採取し、食用・薬用とし、衣類を織る平和なくらしが続けられていた。

1855年(安政2年)の調べでは、音更川沿に13戸74人が住んでいたと記録され、1882年(明治15年)の統計では、河東郡全体で5村、39軒、220人となっている。十勝アイヌの先覚者でアイヌ民族自立のため、大きな足跡を残した音更の中村要吉(イベチカレ、1880年生〜1935年没)の談によれば、中村はナイタイの近くのセタで生まれた。要吉の父ソバウシから6代目の祖シヤガニは、1457年(長録元年)頃、北見から山を越え、十勝に入り、当時オビヒロペロプ(帯広)の酋長(しゅう長)チパイコロと交渉して音更川上流を譲り受け、ナイタイ(勢多付近)に住んで、オトフケウンクル(オトフケ衆)の祖となった。音更アイヌはみな、このシャガニの子孫である。シャガニが十勝北部の防衛を受け持ってからは、北見、石狩から侵略されることがなかった。同じ時代石狩ベベツから十勝に移住したモザルクは、サツナイに入ってサツナイウンクルの祖となった。

これによって十勝内陸には、チパイコロ(帯広)シャガニ(音更)モザルク(札内)の三酋長があり、それぞれ平和的な交渉があったことが判る。以上のように勢多には相当の勢力をもったアイヌが集落をなしていた。アイヌの人々は夏は漁獲、冬は山猟に入るといった生活であったため便利のよいところに住居し、一定の場所に終始生活することはなかった。数戸の血族集団によってコタンをつくり、また、家族のだれかが死んだ場合、その家を焼いて住居をほかに移すという風習があったともいい、住宅は粗末なものが多かった。

上音更のコタン

明治政府の北海道開拓政策でアイヌの人々に土地を給与し、農耕で生計を樹てさせることになり、1885年(明治18年)伏古及び音更の現開進地区に集め、渡辺勝宮崎濁卑を指導員とした。当地方に散在していたアイヌの人も移動していったものもあったと思われるが、音更川沿上音更の下台はバラトといって川が干上って沼が残り、アイヌの聖地とされた。この周辺にいつの頃からかアイヌの人々がコタン(集落)を形成した。

1916年(大正5年)頃、上士幌、上音更に入植が進んだ頃、上音更コタンには10戸前後の人たちが住居していた。これらの人は、1899年(明治32年)制定の旧土人保護法によって各戸に土地が給与され永代保有することとなっており、各戸農耕をしていた。もともと狩猟採集に生きてきた人たちは、農業生活の基盤が稀薄で、農耕になじむものが少なく、猟や和人への賃稼ぎ、牧夫、馬夫などで生計を樹てるものが多く、コタンの土地も和人が買って耕作するものができた。上音更コタンで、むらおさといわれた浅山時太郎(1871年明治4年〜1944年・昭和19年没)は、安村治高丸と交友もあり、音更川の渡船をしていたこともあって、永くアイヌ民族の誇りを伝えていた。

上音更コタンに生まれた川上英幸は、残されていた自然を生かし、東泉園を開設して民族伝統の復興に努めている。

ウタリ協会の活動

上士幌町内区域には、むかし50〜60軒のアイヌの民家があったといわれ、現在では3軒13人が住んでいる。上音更、川上英幸は、1975年(昭和50年)頃から自宅周辺の自然環境を生かし、つり堀、焼肉「東泉園」を経営しながら、'85年ウタリ協会上士幌支部(4戸)を結成、ウタリ文化の復元継承につとめてきた。協会結成3周年を記念し、昔のアイヌの住まい「チセ」を復元しようと、長老の指導を受け、丸太やカヤの材料集め、生活用具の制作にも苦労を重ね一年かかって'83年(昭和58年)6月完成、釧路、胆振の方からも広く協会の人たちがかけつけ古式にのっとり、ヌササン(祭壇)を設けての祈りの儀式カムイノミ(祭り)をおこなった。支部では、先祖の生活をしのぼうと丸木舟の製作に取り組み、先ず足寄ラワンから伐り出したカツラの大木を材料にして、川上の友人、中央大学探検部の学生が協力して丸太を彫って、全長5メートルの舟を完成'83年9月東泉園の池で進水式をおこなった。

協会では、むかし、アイヌが食糧としていた草、木、花を集め、アイヌ名を標示してアイヌ植物園を、'86年5月東泉園の西側にオープンした。88年には同植物園に山菜や野菜など乾燥、粉末にするパウダー加工場を完成させた。落成式には町長、関係者も出席し、フキノトウ、ヤチブキ、アイヌネギなどを粉末にして、ソバ、豆腐、コンニャクに入れたものの試食をおこなった。'89年から開発した独自のトカップ漬が好評を得ている。これより先、'84年(昭和59年)支部らが中心となって、伝説の「熊舞い」を再現し、これらウタリ文化の振興をはかる支援組織として、ウタリ文化継承保存会が町商工会、糠平観光協会などが参加して設立を見た。保存会では熊舞いなど伝統芸能の保存につとめ、観光行事や観光客に対し機会もあるごとに披露している。

入植者の経緯

 蝦夷地のころ

十勝の地名は,和人の入地によって新らしく命名されたもの(例えは池田,高島,川合等)を除けは,アイヌ語,もしくはその意訳がほとんどである。

古来アイヌは,文字をもたす口碑伝承によるため地名のごときも往々人によって転訛し,意義もまた変更したものが少なくないが,このような背景のなかで十勝「トカチ」はどのような語源をもつものか,その2,3を紹介すると,安田巖城翁はその十勝地名解で「十勝は旧名を「シ・アン・ルル」という。永田方正は遠き彼方の海辺の義と為せども,其の実は大なる海との意を正なりとす。而してトカチの称は始め川名より起り終に国郡名となれるものなり。

旧記には,刀勝又は戸勝と記し,松浦命名案には,十勝の外さらにトカチは元名「トウカプ」にして乳房の義なれは利乳尖乳の文字を擬し,永田方正はその地名解てトカチは「トカプチ」にて幽(ゆうれい)の義,昔時十勝アイヌの強暴を悪みし詞なりとし,ジョン・バチエラー氏は「トクアチ・モシリ」訛にして上方に広がる国,又は凸出する国なりとせり。然も予の聞く所を以てすれば,旧称「シ・アン・ルル」とは一望瀰漫(びまん),山沢潮沼の一大海の謂れなりとす,後アイヌ等此国に移来するに及び,先住土人に「コロポ・ウングル」と称する種族ありて,これを歓迎し,心を尽してあらゆる便宜を与えたりしも,アイヌ等は毫もその徳を徳とせずして,■々(しばしば)危害を加えしが小人等之を怨むこと甚だしと雖も到底勢力の彼に対抗する能わざる所より,同種族は挙って他州に退去するに臨み,アイヌ等が生命の親として恃(たの)めること恰(あたか)も稚児が慈母における乳に比すべき,今の十勝川に向い呪咀(じゅそ)して日(いわ)く「トカツプチ」乃ち此乳涸れよ腐敗せよと絶叫せしよりトカチの称起れりとぞ。

さらに千枝与右衛門(十勝宝盟鑑の著者)は,予大津に於て博識なる老アイヌにめぐりあい前教説をただせしにアイヌ笑っていう。この説皆当らず,シ・アン・ルルとは大なる海と云う義,我等が祖先よりのいい伝えに依れば「トカリベツ」より来れるなり,トカリとは海豹の義にして,この大川に海豹が群り来りて川の両岸に憩いたるを常とせしより「トカリベツ」と呼びたるが,遂に川の名となれるものなり。と述べている。』

諸々の説があるが,十勝川を中心とした地名の起りであり「トカチ」を1国7郡を総称して「十勝」と呼称するようになったのは,明治2年(1869年)7月のことである。この十勝の名が和人の手によって紹介されたのは,天正18年(1590年)9月,松前(註1)慶広が豊臣秀吉から蝦夷(註2)島主の待遇をうけ,蝦夷地の支配権を確立し,始めて和人の蝦夷進出があってから45年後の寛永12年(1635年)であり,これは第7代松前藩主公広が村上掃部左衛門(むらかみかもんざえもん)に蝦夷の地図を作らせ,これを正保元年(1644年)幕府に献上したが,そこに「とかちえぞあり」と記入されていたものである。

また「松前旧事記」には「寛永12年(1635年)運別,戸賀地(とかち),金山初て堀出す」と記載されている。文化5年(1808年)の十勝会所の記録によると「東蝦夷地の内,戸勝場所は元松前若狭守家来蛎崎蔵人(かきざきくらんど)(註3)の給所地で寛政10年(1798年)御用地に相成,享和2年(1802年)永御用地に相成」という記録が残っている。地名「トカチ」については,これらより以前にさかのぼることはできないが,そのトカチの呼称は,今の十勝川口から釧路境の直別間の海浜一帯の地方を指すものであった。

蛎崎家の十勝進出の根拠地は,ピロウ(広尾)におかれ,はじめは主としてアイヌと交易していたようだが,そのうちに漁場経営をかねるようになり,他地方の例にならって「ピロウ場所」と呼ばれた。

蝦夷との交易は,松前氏時代の初期においてはオムシャ(註4)という儀式から始まり,知行主は介抱(かいほう)(註5)と称して蝦夷人の望む品物を与え,彼等からは土地の産物を受けとり,これを売却して利益を得たものといわれている。

ところが寛文9年(1669年)シャクシャイン(註6)の乱が蝦夷の敗北に帰してから介抱よりも掠奪の色彩が濃くなり,一方商利にうとい武家の商売は欠損を重ねることが多く,次第に商人が代って請負う場所ができた。

この場合,請負人は一定の請負金を運上金(註7)として知行主に納め蝦夷を使用して漁業経営を行ない,利益をあげるようになった。ピロー場所(後に十勝場所)(註8)もその一つであった。

ピロー場所の請負人としては,6世栖原角兵衛(すはらかくべえ),商号「金平」なるもの,近江屋三郎次・越前屋甚五郎・大阪屋宇助・1世杉浦嘉七・2世同・3世同の名が残っている。

トカチアイヌたちは,これら請負人に重労働を強いられたのである。請負人は場所に運上屋を建てて,支配人以下の奉公人を送りこみ,支配人は通詞(つうじ)を奥地に派遣して戸口調査をさせた

これは労働力調査を兼ねており,稼働可能の山アイヌは浜に引きだされ使役された。浜稼ぎは旧暦3月中旬の鱈釣にはじまり,9月中の秋味鮭で終るが,その後は雑業に従事,11月からは鹿猟をはじめ翌年正月なかばまでに帰村するのが,トカチアイヌの年中行事であった。

文化5年(1808年)トカチ会所で調査したアイヌ人口は,戸数254軒,総人数1,034人,内,男484人,女550人とあって当時これだけのアイヌが十勝に住んでいたことがわかる。

註1 松前
=松前の家祖,武田信広から4代目蛎崎慶広が豊臣氏から蝦夷島主の待遇を受け主家安東氏から独立して松前氏を名乗った。(天正18年=1590年)

註2 蝦夷
=「蝦夷地」という名は「和人地」に対応するもので,康正2年(1451年)松前の家祖武田信広の時代,東は汐首崎(亀田郡)西は原沢部川(檜山郡)の間を和人の根拠地とした。後4代目蛎崎慶広が天正の頃,和人地と蝦夷を区別した。両者の混住による事件を防いだのである。シャクシャインの乱後の元禄4年(1691年)には和人の居住地を西は熊石(爾志郡)東は石崎(亀田郡)の間とし,そのほかを蝦夷として和人の土着は禁止されていた。そして蝦夷を東西に分けていた。十勝は東蝦夷に入る。

註3 蠣崎蔵人
=松前の第10代矩広の家老,寛文9年(1669年)シャクシャインの乱に出征,寛文11年(1671年)残党を日高の白老で鎮圧した。藩主矩広は幼なかったので近縁の彼が藩内第一の権勢家としてその実権を握っていた。蔵人は寛文12年39才で歿した。ピロウ場所は寛政10年(1798年)末までの間,彼の後裔の世襲地であった。

註4 オムシャ
=千葉稲城著の「北海道史談」第1輯によるとオムシャの明確な定義づけはないとしながらも,漁業の終了期に必らず行なわれる儀式であるという。和人、における正月遊びまたは,農家の秋祭りと同じようなものであったらしい。

この儀式は1年1回であるけれども,松前家の役人等が出張すれば歓迎の誠意を表するため,臨時に行なうこともあった。この松前家に対するオムシャは蝦夷の数度の叛乱を松前氏が征伐し,その謝罪の意を表するため貢物や酒宴を催す松前藩の慣習であった。

註5 介抱
=請負人の配下である通訳や番人は,藩の示す種々の取りきめを達したり,人別調査をしたり,また老幼病者の面倒をみることもあった。

註6 シャクシャインの乱
=寛文9年(1669年)東部染退(しぶちやり)の夷人シャクシャインは,東西の蝦夷を扇動して松前氏にそむき,和人273人を殺害し,商船多数を略奪した乱で,シャクシャインは同年10月松前泰広の追討により処刑された。

註7 運上金
=蝦夷と交易のため請負人が,その権利を得るため一定の料金を知行主に支払う請負料金。すなわち,武士の商法はさして利益を得ることができないため,商人に蝦夷の交易を委託するようになり,この商人が場所請負人,請負料金を運上金,交易所を運上屋というのである。

註8 十勝場所
=寛政の頃から十勝国全部をトカチ場所と称し,会所を広尾において支配入に納税や宿泊等の取扱をなさしめた。建物は奥行7間半(13.6メートル)間口37間(67.1メートル)の建物で支配人より漁夫にいたるまで皆ここに宿泊した。

幕政時代

明和2年(1765年)頃から露人(ロシア人)が千島,樺太に侵入し,また外国船が近海に出没するようになると,蝦夷地方面の警備が緊要であるとする論が盛んとなり,ことに寛政8〜9年(1796年〜1797年)にかけて露人ラックスマンが根室に来て交易をせまったり,あるいは英国船の内浦湾碇泊事件などの続発で,蝦夷地経営に積極的に着手する必要性をことに痛感した幕府は,寛政11年(1799年)正月に松前氏の領地である東蝦夷を向う7ケ年を限って仮支配地とした。蝦夷地御用掛に石川忠房,羽田正養,大河内政寿,三橋成方の4人を任命するとともに,時を移さず各地に会所を建て,道路を開さくするなどして駅馬を配置し,新航路を通じて沿岸警備の態勢を固めた。ここにいたり長い歳月の間松前藩からほとんど無為無策で放置されていた東北海道はにわかに活発な動きを見せるようになった。

これより先に幕府はいくたびか千島や樺太を含めた蝦夷地の実態調査を行なっていた。天明5年(1785年)の普請役5人による東西蝦夷地調査をはじめ,翌6年の最上徳内,寛政10年(1798年)の近藤重蔵による南千島踏査がそれに当っている。これらは当然のことながら十勝の海岸線を往来したその一人である。近藤重蔵は,寛政10年(1798年)秋,エトロフ島からの帰途十勝と日高の境界に接しているビタタヌンケからルペシュペ(ともに広尾郡)の間に蝦夷地ではじめて道路をひらき十勝開発の先駆となった。ルベシベツ山道と呼ばれているのがそれである。

各地に設置をみた会所のうち十勝会所は,ビロー(広尾・尾郎・美郎・美楼・美老とも書く)に置かれ,この十勝会所には幕臣20名が詰めることになった。支配勘定役 三浦善蔵,御小人目付 田口久次郎,御徒目付 藤本徳三郎,役職不詳 金指又吉等が十勝に駐在した最初の官吏であった。

江戸には蝦夷地に送る物資を取扱い,蝦夷地よりの産物を処理するため会所を設け,専任の役人を置いて蝦夷地との取引の円滑を図った。また,当時の蝦夷の指導方針は次のようなものであった。

  1. ………耕作の奨励
  2. ………真実を旨とする
  3. ………賃金を正しく与える
  4. ………和語を用いさせる
  5. ………風俗を漸次和風とする
  6. ………人の道を教え,文字を教える
  7. ………病者の手当をする
  8. ………蓄妾(ちくしょう)の風を改める

寛政11年(1799年)幕府は陸上交通を重要視して御用掛大河内政寿が水越源兵衛,最上徳内,小林卯十郎,中村意積らに道路の開さく工事を担当させ,杣夫,人夫を南部から募り,様似山道,猿留山道,猿留広尾間6里,広尾当縁間7里8町,当縁大津間6里14町を開さくした。また宿泊のため旅宿所を設け広尾に8頭,大津に7頭の官馬がおかれた。湧洞と昆布刈石(ともに十勝郡)の2ケ所に蜂火台を設けたのもこの時期であった。

幕府の蝦夷地御用掛は享和元年(1801年)に松平忠明,石川忠房,羽太正養の3隊に分れて東西蝦夷,南千島クナシリの巡視を行ない,その後江戸に残っていた三橘成方を加えて3ケ年にわたる松前,蝦夷地の実態調査の結果を享和元年(1801年)9月幕府に報告した。「箱館蝦夷地廉々之儀申上候書付」がそれである。これの第4項に十勝地方の開発見込が書かれているが「十勝の原野は農耕に適しているから,移民を入れたらたちまちひとかどの農村が生まれるに違いない」というのである。

享和2年(1802年)2月蝦夷地御用掛は蝦夷奉行となり,同年5月箱館奉行となった。

このようにして幕府の蝦夷地経営についての意欲は,続発する外交問題を背景としてではあったが,かなり積極的なものがあり,同時に十勝内陸がはじめて世に紹介され有望な殖民候補地としての折紙をつけられたのである。

そこで7年間を限っての仮支配地であった東蝦夷地は,4年目の享和2年(1802年)7月,松前藩の治政では開発はおろか防衛もおぼつかないことを知って,幕府は方針を改め仮支配から永久地上として直接支配を続けることにした。

奉行所は十勝,釧路,根室を1区域として調役1人,下役2人,在住3人,足軽2人を配置した。その後,文化4年(1807年)西蝦夷地も支配下に収め,蝦夷全島を直轄とし,箱館の奉行所を福山に移して松前奉行と改称とした。

ところが,国内政情に変化があり,また国外においてもヨーロッパにおける戦乱(ナポレオンとヨーロッパ解放戦争)の影響から北海に出没する外船の数が一時的に減ったという事情もあり,幕府の北門政策は消極的なものに転じていった。やがて文政4年(1821年)前述の理由と松前藩の政治的な動きによってふたたび松前氏の領地となり,この地方の開発はまたもや足ぶみ状態に戻った。しかしながら,北海の波が静まっていたのはほんの短かい期間であった。西太平洋の獲物をとり尽した捕鯨船は,やがて北太平洋の資源をめざして殺到,蝦夷地の沿岸に漂流することもあり,あるいは薪水を求めて上陸して紛争を起すような事態も発生するようになった。

国内には海防論がおおいにおこり,神奈川条約(註1)による開港問題,カラフト領土権問題などが相ついで発生して安政元年(184年)10月に幕府は再度蝦夷経営に踏みきらざるを得なかった。ちなみに松前氏の沿岸防備体制をみると嘉永3年(1850年)の十勝の防衛軍は総勢101人,兵器については天保15年(1844年)の記録によれば,日高と十勝の2国を受持っている様似の勤番所に200匁鉄砲1,100匁1,10匁2,5匁5の計9挺と手槍15筋があるにすぎなかった。これが近代的な戦闘装備の外敵に備えようとした松前氏の防衛装備の状況であった。

安政2年(1855年)3月幕府は仙台,秋田,南部,津軽,松前の5藩に蝦夷警衛(けいえい)を命じた。

十勝は日高,釧路,根室及び南千島の一部とともに仙台藩の警衛地であった。

安政6年(1859年)11月,こんどは秋田,仙台,南部,会津,庄内,津軽の6藩にそれぞれ領地として与え,併せて警衛地を受持たせた。ここで十勝は仙台藩領となり明治元年に至った仙台藩は広尾に陣屋(註2)を築き,目付,代官,勘定方などを置いたが,防衛体制の整備に追われて,内陸開発までは手がのびずに明治維新を迎えるのである。

註1 神奈川条約
=1854年(安政元年)江戸幕府がアメリカ特派使節マッシュウ=カルプレイス=ペリーと締結した日米和親条約のことで,調印地の名をとって神奈川条約と呼んでいる。日本が近代的な外交関係を結んだ最初の条約で全12条からなり下田・箱館両港を開き,薪・水・食料・石炭などの欠乏品を供給すること。アメリカ漂流民の救済扶助,片務的な最恵国条項などを規定し,次いで付録13条が定められた。イギリス,ロシア,オランダとの和親条約に先だって黒船の圧力によって締結したものであるが,条文の不備も多く日米両国の本格的な外交関係の確立は1858年(安政5年)総領事タウンゼント=ハリスとの間の日米修好通商条約締結をまたねばならなかった。

註2 陣屋
=鎌倉時代以後軍兵の駐留した営舎を陣屋といったが,江戸時代には城をもたない小大名や旗本の屋敷,また代官その他の在住した屋敷を陣屋と呼び,私邸・役宅・長屋などを備え,ほりや門をめぐらしている場合が多かった。陣屋の敷地は検地をうけたのち,村高のうちから陣屋敷引という免除をうけた。

松浦武四郎の探検

蝦夷地に調査のため渡航した回数や留った年数から言えば最上徳内があり,越年数回に及んだ松田伝十郎があり,必ずしも少なしとしないがこれらの中にあって断然異彩を放つのが松浦武四郎(註1)である。それはその足跡が蝦夷の内部に深くおよんだことである。松浦武四郎以前には伊能忠敬,間宮林蔵らの手で作られた北海道図があったが,それらは海岸線あるいはせいぜい大川筋を明らかにしているに過ぎなかった。武四郎は各川の上流をきわめ,高山を踏破し山脈の方向を考えて内部を充実し「大日本沿海実測図」中蝦夷諸島図あるいは蝦夷山川地理取調図をえがいた。また,彼が秀でている点は,単に地図を作成したばかりでなく,この旅行の日誌を整理するとともに絵や歌を加え「東西蝦夷山川地理取調紀行」22冊を見るにいたったことである。この書は「東蝦夷日誌」8巻,「西蝦夷日誌」8巻,「後方羊蹄(しりべし)日誌」「石狩日誌」「十勝日誌」「久摺日誌」「納紗布(のさっぷ)日誌」「知床日誌」からなっているものである。

さらに明治2年(1869年)8月15日蝦夷を北海道と改め,国郡を置くに際し北海道の名付親ともなった。

最も偉大な蝦夷地の研究家である武四郎は,安政5年(1858年)箱館奉行所の命を受けて,彼としては第6回目(註2)の蝦夷地探検を敢行し,内陸部におよぶ詳細な記録を残した。彼は安政5年(1858年)1月24日箱館を出発,飯田豊之助とともに石狩から山脈を越えて十勝にはいり,十勝川をくだってヲペレペレフ(帯広)に泊っている。さらに川筋をくだってオホツナイ(大津)で飯田と別れてこんどは東北方に向い,シラヌカ(白糠)からアカン(阿寒)に向い,また太平洋沿岸のアッケシ(厚岸),根諸(根室)次いでトコロ(常呂),ソウヤ(宗谷)を経て石狩にもどり,ふたたび日高を抜けて十勝に向い,ヘルフネ(歴舟)の川口から奥地にはいり,タイキ(大樹),サツナイ(幸震)を経て8月15日音更川口付近に泊った。ついでヤムワッカヒラ(止若平)から十勝川を丸木舟でくだり18日,ウラホロフト(浦幌太)に出ている。さらに海岸線を伝いトウフイ(当縁)川上流を踏査し二百数十日を要する調査を終えて安政5年(1858年)8月21日箱館に帰着した。

「十勝日誌」と「東蝦夷日誌」第7編は,この旅の所産であり,この中で安政年間の十勝,とりわけ河東郡の地の全貌を知ることができる。それを紹介すると,

15日 快晴 当年春はこのあたりすべて南岸を通り,川筋をみなかったので,舟を雇って出発してみようとすると,またも石鏃10余枚を老人が餞別にくれた。2丁ばかりさおさすと十勝川本流筋に出る。西岸の雑樹はくろぐろと繁茂している。

シペツ(十勝川本流,川巾50余間=90.5メートル余)訳して本流の意である。流木がところどころにつかえで組み立でたようになり水は激して白浪を巻き,その危いこと,さおさばきを過てはどうなるかわからない。また,5,6丁くだればソウカブト(右川)となりついで,ヲンネビバウシ(左川)(註・老いたるピパウシ川の意,美蔓川の古川)ヒハイロブト(巾20間=36.2メートル註・ピパイルプト,美生太,美生川の川口)ホンヒハウシ(左川)(註・ポンピパウシ,小さな美蔓川もしくは美蔓川の支流)ホマンヒット(左川)イコハツケシナイ(左川)ライベツ(右川)チュカリトンナイ(右川)シュフシャリヒハウシ(左川)(註・シプサラピパウシ,渋更美蔓,シプサラピパウシ川)シュウフシャリ(左川)(註・シプチャリ,シブサラ,渋更西士狩)と続く。ここまでメモロブトより陸路凡そ3里,川筋で5里位ある。

すべで北岸は少々の崖になり,南岸は平原で樹林地帯になっている。

1本の棹をあやつって十勝川の激流をくだった跡をみると夢のようだ(註・歌意)シカリベツブト(川巾30余間=54.3メートル余)(註・然別太然別川の川口)この川は十勝川第3の支流である。人家が4軒ある。上陸してしばらく進むと広い野に出る。ここに当安政5年現在99才になるシュツコハ婆とい うのが住んでいるというので,訪ねていろいろ古いことを聞いた。すると文化・慶長の乱(註・いかなる「乱」をさしているのか不詳。文化はロシア人のエトロフ侵入のことか)の話などして,別れぎわに石作りの煙管をくれて言うには「自分たちの若い頃は皆この石煙管か,または木で作った煙管ですったものだが,近頃のアイヌは金属性の煙管で煙草をすい,米でかもした酒をのみ,木綿で縫った衣類を着ている。万事がこのようになり,昔ながらのアイヌ風俗もなくなった」と泣いた。

ここをすぎ,ルウセ(左川)チシレリコマベツ(左川)(註・チンレラヲマップ川)からバンゲチ(右川,人家1軒ラサマンカ,家内1人)(註・パンケチン川)に至り,ここで昼食をとり,ラサマンカから然別上流の様子を聞いてみると,開拓すれば一国を立てる見込みがあるまた地味もよい。

ヘンケチ(人家6軒)(註・ペンケチン川)そのほか小川が多く水源にウエンシリ・ウヘヘサンケ岳(註・ウペペサンケヌプリ)ヲヒラテシケの3山があり,その間から幾筋かの溪流が落ちてきて,このシカリベツ(然別川)になるのだという。魚類は,サケ・マス・アメマスのほか雑魚も多い。これはヘンケチ在住アイヌのイナウタカの話だ。さてまた下っていくと,フウレメム(左川)シャリケシショマ(左川)フムセ平(左川)を通って(シカリベツからおよそ1里)ヲトフケに着く(ヲトフケ川は第2の支流,川巾20余間=36.2メートル)余両岸の密林の中には人家が13軒ある。乙名(註3)のコトンランコの家に舟を着けたが,トンベツに出かけたということで留守だった。そこで西岸に上陸,少々そのあたりを検分することにして,ヨクペツ(左川)モッケナシ(野)コツタメム(左小沼)ニウシベツ(左川人家2軒)など見廻り,ニウシベツで上流のことを聞いてみると,およそ10里(39.2キロメートル)四方の広さがあり,ここも一国分の面積のある土地だ。

オトフケ川の上流には小川が多く,奥地にクマネシリ(雪道で3日行程)という,リクン別岳に続いた高山にはいるが,この川はサケ・アメマス・ウグイ・チライなどの魚が多い。(これは惣乙名=(註4)シラリサの話)その夜,オトフケ川口に住んでいる惣乙名シラリサの家までくだり,そこに泊る。ここには人家が9軒ある。追々は,この地方第1の繁昌の地になりそうなところだ。十勝川は川口からこのオトフケプトまでは川舟の上下はさして困難でないが,ここから上流は何分にも流木がたくさんあるので,川巾は広く水深は深くても,手入れしなければ無理だ。

もしも他日,この十勝川流域の開拓を思いたつようなことがあれば,ヘルフネ川口(註・今の広尾郡の歴舟川口)からサツナイ(註・河西郡幸震)にかけてヲトフケから見で下カチ川南岸のヒハイロ(註・美生)トツタヘツ(註・戸蔦別)あたりに馬道をひらいて,これを手始めとしたならば実際的効果がすこぶるあがると思われる。すべて土地の開拓なども,地の利と出産物とによって計画をたてないことにはその効果は少ないと感じたので,たわむれにシラリサの家の柱に次の和歌の一首を書きつけた。

このあたりに倉庫が建ちならび,馬車をつらねて集まってくる産物を積みあげるようなそんな土地に早くしたいものだ(註・歌意)武四郎は音更地域をして「地味すこぶる肥沃」と観察しており,北海道通の第一人者であるとともに彼の鋭い観察眼は以後110年を経過した今日その面目躍如たるものがある。

註1 松浦武四郎
=文政元年(1818年)2月6日,伊勢の豪農の家に生まれ,津藩の儒者平松楽斉に学んだが16才で江戸に出奔,以来,彼の諸国漫遊が始まった。武四郎の蝦夷地行は前後6回,20才から41才の壮年期に当る。弘化2〜3年(1845年〜1846年)嘉永2年(1849年)の探検によって早くも蝦夷地通の名を高め「三航蝦夷日誌」35冊を水戸烈公に献じて知遇を得,勤皇の志士との交わりも深かった。折からロシアはじめ列国の北方渡来が盛んとなり,幕府の北境経営も真剣味を加えたので,武四郎の存在は注目を浴び,安政3年(1856年)箱館奉行御雇として蝦夷調査に起用された。次いで安政4〜5年(1857年〜1858年)の踏査を指導したが,最後の探検は250日に及ぶものであった。これをもとに「東西蝦夷山川地理取調紀行」20冊を上梓したほか,蝦夷に関する著書が多く,北方開拓の重要性を喚起したのは彼の功績である。明治2年(1869年)新政府が北海道開拓にのりだしたときふたたび開拓御用掛に登用され,長年の知識経験を生かして道名,国名,郡名を選定し,その功により明治政府から年金を受けた。明治21年(1888年)2月10日71才で東京で没した。

武四郎は土俗,産物,動植物などにも鋭い観察眼をもち,見聞にまかせて見取図,写生図を作った。蝦夷日誌にはそれをもとに画家に描かせた絵画が多数収録され,彼の交友範囲の広さがうかがわれる。伊能忠敬,間宮林蔵らの測量で輪郭の正しくなった蝦夷地図はこの松浦図によって初て内部の地勢まで明らかとなった。これは明治中期まで使用されたほど精細なものである。

註2
=武四郎の第1回目蝦夷探検は弘化2年(1845年)商人に身をかえて江差に渡り東海岸を知床まで探検,第2回目は弘化3年(1846年)漁夫圧蔵の名で藩医の従僕となり,西海岸沿いに樺太に渡り,その南部を探検して帰途オホーツク海岸を知床半島まできわめ江差で越年した。第3回目は嘉永2年(1849年)商人手代の名で渡道,クナシリ,エトロフ,シコタン島を廻った。第4回目は安政3年(1856年)過去3回の蝦夷探検により彼の存在は注目を浴び,箱館奉行の北方蝦夷地御用御雇となり,蝦夷地請取渡差図役頭取として幕吏向山源太夫の手付となり,蝦夷地東西海岸及び樺太を巡回した第5回目は安政4年(1857年)蝦夷地一円山川地理取調として,第6回目は安政5年(1858年)である。安政3年から5年までは箱館奉行の御雇として探検したものであり,その結果作成し出版したのが「東西蝦夷山川地理取調図」28枚でこれにはエトロフ島までを含んだ北海道地図を経緯度各1度に割って美濃紙1枚つつとし,それに山脈,河川,道路,宿泊所等を記入し,字名も書き込んだ精図であった。

註3 乙名
=アイヌの部落には,それぞれ酋長がいた。この酋長を通常「乙名」(ヲトナ)と呼んだ。同様に副酋長を「小使」(コツカイ)と呼んだ。しかしこれは元来は松前氏に帰順したアイヌの酋長を呼ぶ通称である。

即ち,「乙名」や「小使」は松前藩のアイヌ統治の1機関であり,名主や庄屋と同じ意味である。

註4「惣乙名」
=松前民はアイヌ統治の便宜上乙名の上に惣乙名を置いて指揮に当らせた。惣乙名には副があり,これを「脇惣乙名」または単に「脇乙名」と呼んだ。小使にも「惣小使」があった。一般の酋長は「並乙名」の名称で区別していた。これらをひとまとめにして「役土人」と名づけて,諸制度の周知徹底,労働力の動員,人別調査,生活扶助などを行なった。

開拓使時代

明治新政府は,元年(1868年)4月12日,箱館裁判所(翌月「箱館府」と改称)を設けたが10月に幕府脱走軍が上陸,翌2年(1869年)5月18日の降伏まで兵乱が続き,政治どころではなかった。明治2年(1869年)5月,脱走軍は五稜郭に降伏,府庁はただちに箱館に復帰したこの箱館府の経営方針は次のようなものであった。

箱館裁判所総督蝦夷地開拓之内御委任有之候事(註・本文訓読)1,追って蝦夷地名目を相改められ,南北二道に御立てなされ,早く測量家をさしつかわし,山,川の形勢にしたがひ,あらたに国を分ち,名目を御立てこれあること。

6月に政府は開拓督務を任命,7月には開拓使を民部省に置いて開拓督務を開拓長官と改め開拓移民募集に着手した。

開拓使は直轄地以外の土地を省・府・藩・士族・寺院などの支配にゆだね開拓の進度を速めようとした。

十勝国に直轄地はなく,8月28日付で十勝・中川・河東・上川の4郡を静岡藩,広尾・当縁・河西の3郡を地つづきの日高国浦河・様似の2郡とともに鹿児島藩に与えた。

しかし,鹿児島藩は明治2年(1869年)10月「南と北とでは風土が違い,かつ南島,琉球などを抱えていて北海道にまで手が廻らない」との理由を挙げて領有を辞退した。

鹿児島藩の辞退後,広尾・当縁・河西の3郡は明治3年(1870年)正月,(註1)一橋従二位茂栄と田安従二位慶頼(註2)とに「仰付」になり,6月からその所領となった。

いったい藩などに領地を与えたのに「出願」と「仰付」との2系統があり十勝の場合はいずれも後者の命令によるものであった。

静岡藩主は,徳川第16代宗家の家達(いえさと)であった。茂栄は15代将軍慶喜の義弟に当り,慶頼は家達の実父であったから,十勝国を領有した三家はきわめて近い間がらにあった。

田安は広尾に,一橋は音調津に,静岡は大津に役宅を置き,職員を現地に派遣して明治3年(1870年)6月からほそぼそながら経営にあたった。しかしながら開拓の成績は皆無に等しく明治3〜4年(1870〜1871年)に開墾した畑は,田安と一橘で8反9畝(0.89ヘクタール)静岡管内で1町5反(1.5ヘクタール)にすぎなかった。

静岡藩は十勝最初の農業移民6戸7人を大津に入地させ,20余人の人夫を使って若干の畑作を試みた程度にすぎなく,ましてや奥地の河東郡,上川郡などは,単に概要を調査したのみであった。

開拓使は明治2年(1869年)に請負制度を廃止したが十勝の全産業は,従来から福島屋3世杉浦嘉七が支配しており,単に「十勝場所」を「漁場持」に変えただけのものでそのまま営業を続けた。明治3年(1870年)6月9日十勝会所から「大津会所」が独立場所もまた「大津場所」として離したにとどまった。明治3年(1870年)静岡領の出産は,815.68石,田安領862.78石,一橘領は2,018.652石であったが領主側は福島屋から報告 を受けるだけのことであった。

三家の現地出張の主脳者は,田安家,服部匡輔,森井藤太郎,一橘家,臼井門吉,静岡藩,白野夏雲,原退蔵らの名が残っている。

白野夏雲は,のちに開拓使,中主典,札幌神社宮司などを勤めた人物で,北見,十勝地方のアイヌ地名に漢字を当てたのはこの人であったと伝えられている。

明治3年(1870年)の三家の出産記録でもわかるように一橋の支配地だけは出産物が豊かであったために一橋家では,収益を増すために自領だけを直接経営にすべく紛議をおこした。そこで福島屋はあわてて経営に窮するとの理由から反対を唱え,田安と静岡もこれに同調した。しかし一橋家のくわだては判官松本十郎の現地調停により失敗に終っているが,この間の事情は「松本十郎遣稿」にくわしい。(原・漢文)

広尾の田安,一橘を訪問す。両藩の管轄地は広尾郡を分割し,東方サルル方面一橋なり。西方広尾方面田安なり。一橘の管轄海岸漁業これ多く,田安は然らざるなり。故に一橘は田安を分離し,その利を壟断(ろうだん)せんと欲す。
漁業請負人杉浦嘉七請うらく,分離の広尾は維持する能わず云々,その争やまざるなり。
故に両藩主宰者を招いてこれを説諭す。曰く,貴藩らは兄弟藩に非ずや。相救け,相輙(あいたやす)く,兄弟の情に非ずや。古人また曰く兄弟牆(かき)にせめけば,外その悔りをうく。もし杉浦嘉七,広尾を維持する能わざれば,田安藩ほとんどこれ窮困せん。しかしてこれを要するに一たん各藩寺院北海道の各郡を支配すと雖も,早晩の間にその地を奉還するは論ずるなきなり。故に一橋藩分割自捌(じはつ)すると雖も1,2年にすぎざるのみ,しかるに即ち自捌(じはつ)の費多くして何の益か有らん。
むしろ両藩は分離せざるに如かず,これに勝るに非ずや,両藩の主宰曰く,尚協議をなしてこれに答えん。その翌朝主宰者2人出で曰く,謹んで高諭を奉じ分離をなさず云々(「東京府根室受持之事」から)

このような変則的な分領支配は明治4年(1871年)8月20日をもって一斉罷免となった。その前月,廃藩置県により静岡藩は静岡県になっていた。

弓廃藩置県を機会として開拓使は全道を一括しで経営することになった。長官代理黒田清隆は10年計画を立て明治5年(1872年)から1千万円の予算で札幌や,そのまわりの石狩平野および道南地方の開拓に着手した。しかし遠くはなれた十勝地方はほとんど無為無策のまま開拓使は廃止された。

三県時代になってからは,北海道全体の行政が停滞し,かつその制度も短命であったので何ら見るべきものがなかった。

しかも行政機構の変化のみいたずらにめまぐるしく移っていった。その変せんをみると明治2年(1869年)8月15日に上士幌の地が「十勝国河東郡」と定められ,それから13日後には静岡藩領の一部に加えられた。明治4年(1871年)8月に開拓使直属となり,翌明治5年(1872年)9月には十勝,日高の2国をもって浦河支庁とした。

明治7年(1874年)5、月に浦河支庁は廃止され札幌本庁直轄となり,茂寄村に置かれた開拓使広尾出張所の管下となった。その出張所は4ケ月後には浦河出張所広尾派出所に格さげされた。明治9年(1876年)9月,開拓使は全道を36大区,166小区に分ち定めた。十勝国は第23大区,第6小区であった。第23大区は第1小区から,第5小区までが日高管内で占められ,十勝国が7郡ひとまとめで1小区とされたのは,その開発内容がいかに貧弱であったかを物語っている。

明治12年(1879年)6月,大小区画が廃止となり郡区町村が編成され,十勝の各郡村は浦河郡役所に属した。

明治13年(1880年)2月,十勝,中川,河東,河西,上川5郡各村戸長役場が大津村に開庁した。十勝場所の昔から広尾に依存してきた5郡は,しばらくの間大津の支配下に属することになるのである。

開拓使時代にあって,明治13年(1880年)以降のイナゴ害処理程度が唯一の施策であり,これも他の先進地域の営農を守るためのものであった。その他は測量隊の調査,松本十郎の巡視ライマンの地質調査,御用掛田内捨六,内田■(■=瀞の旧漢字)(きよし)の交通路調査などがあった程度である。

註1 一橋家・註2 田安家
幕府は大名を徳川氏との関係の親疎によって親藩,譜代,外様に区別した。親藩は家門とも呼ばれ家康の子孫で大名となったものを云う。尾張の徳川氏(藩祖は家康の子義直)紀伊の徳川氏(藩祖は家康の子頼宣)水戸の徳川氏(藩祖は家康の子結城秀康)会津の松平氏(藩祖は秀忠の子保科正之)をふくんでい る。御三家の支流を連枝と呼んだ。親藩は徳川将軍を守る強力な支柱となり特に要地に配置されて外様大名を牽制した。八代将軍吉宗以後はその子を大名とせず一家をたて,江戸城内におらせその門の名によって,田安家(吉宗の子宗武を祖とする),一橋家(吉宗の子宗尹(むねただ)を祖とする),清水家(家重の子家好を祖とする),といい,これを三卿と称し,大名ではないが御三家に準ぜられた。

安村治高丸の入植

安村治高丸の入植音更川がとうとうたる瀬音をたて、広い大地ははてしなく密林に覆われていた上士幌原野に、新しい斧(おの)の音が響き、たくましく開拓の鍬が振り下ろされた。1907年(明治40年)3月、安村治高丸が移転して来て上士幌開拓の緒がついた。

安村は、1871年(明治4年)生まれ、富山県速星村の資産家の長男でありながら、うつぼつたる大志を抱き、はじめ音更村中音更(現駒場)に38戸分入地を出願し、1903年(明治36年)高木太助をともない入植、開墾をはじめた。

安村は、未開の樹林地に開拓を挑み、小作人を入れて墾成をはかり、牧柵をめぐらして馬を繁殖し、清水谷にも牧場を経営し、深山の中を見廻りした。公共奉仕につとめ、人家がふえると小学校建築用地を提供し、また、故郷速星神社を勧請して祭祀した。研究、向上心旺盛で、農事試験場、新聞、カタログなどを通じ、新知識の導入、新種の試験を繰り返し、また、勤倹を心がけ自給自足の生活に徹した。小作人をいたわり、小作料は、1反歩(10アール)当り、1円20銭〜1円50銭というように破格の安さであった。無欲てん淡で名利をもとめず、他人からの厚意に対しても、贈り物をもらうことを嫌うなど頑固な一面をもっていた。

後年、周辺の開拓が進んで、上士幌付近での牧場経営が次第に困難となると、南の方の士幌区域となった一部を道に提供して民有未墾地として解放して牧場経営の中心を清水谷に移し、開畑をし小作人を入れ牧場で牛を導入した。

'10年(明治43年)穴を掘ってサイロを造ったと日記に記載されているが、清水谷移転後も16角形板張のサイロを造った。当町域で最初のサイロで、近隣でもごく珍しい施設であった。

また、上士幌地区在住の'32年(昭和7年)頃、菜豆類、中長うずら豆の中から優秀株を発見、選抜育種して、固定品種として「安村中長」の名称で十勝中に高収性、品質の上から好評となり、広く普及し、十勝豆作の発展に寄与し歴史に長くその名を留めた。安村は、当地区農業の発展性を見通し、郷里速星村の隣家たちをつぎつぎ招致入植させ、土地を取得せしめ、或いは小作農として自立成功させ、これらは12戸を数えた。農場経営及び新しい技術の実験や施設投資のため安村は、郷里に残してあった多くの土地資産を処分して充て其の金額は莫大なものであった。

長男として郷里の安村家を存続するために早くから妻及び長男を富山県に帰した安村は、肉親の運に恵まれず狐独の生活が続き、多額の投資にもかかわらず、農地改革によってほとんど大半の土地を失ない晩年はひっそりとして世を送り、'60年(昭和35年)89歳で世を去った。

高邁なる見識を抱き、つねに夢を未来にかけ、清廉に人生を送り、然も恵まれることのなかった彼の生涯であったが、上士幌開拓の先駆者として、残した事績は極めて大きいものがあった。それはあたかも十勝開拓の祖として慕われる晩成社依田勉三の生涯とあまりにも酷似していることに驚く。

死後年を経るにしたがって、安村の遺徳をしのぶ声がいよいよ高くなり、'81年(昭和56年)11月町開基50周年を期し、高橋徹雄らが発起人となり、浄財を募り、たか台公園にブロンズ像を建立して、永く顕彰をはかった。違業をしのんで募金に参加したもの町民1,027名、企業団体40口に及び、総額830万円に達した。除幕された農夫姿の安村像の視線は自らが拓いた郷土、上士幌を永く見守っている。

根本タケの手記から

前町史編さんに際し寄せられた1967年(昭和42年)頃の根本タケの手記は、開拓時代の体験をリアルに記してあり、貴重なものなので、その一部を転載する。

「私の一家は、芽登で特定地を5町貰い、3年間の内に開かなければならなかったが、馬も機械もなくて鍬や鎌だけでは半分くらいしか開くことが出来ず、とうとう土地を取り上げられ、'18年(大正7年)上音更のコタンに移転して来た。そこには、4〜5軒のアイヌと母の父母たちがいた。カヤやヨシを刈って小さな小屋を建てたが、ストーブが無いので、たき火であった。夜には明りにカンデラをつけると、壁はヨシなのでどこからでもスースーと風が入って,いまにもカンテラの灯は消えるばかりである。父は山働き、母はアイヌから少し畑を借りて、麦、イナキビ、ソバなどを作った。冬になれば物すごい寒さで、たき火の天井には、ゆさゆさと真白に氷がついている。

いくら寒くても父母たちは一生懸命である。時計がないので朝は鶏の鳴く声で起きる。冬の頃は三番鶏で外が明るくなった。母はいつも一番鶏に起き、朝早くからキネで麦をつく音がする。父は仕事に出かけるときに、「今日はツマゴを作ってくれよ」といった。ツマゴはゴム長靴のように丈夫でないから大変であった。夜にもなると、こども達が寝た後でゴロゴロ大きな音をたて引き臼でソバ粉をひいている。一生懸命時間をつめて働かないと食べるのに間に合わない。

春になれば雪がとけるやいなや、音更川に流送の掛け声が賑やかに聞こえてくる。まんじゅう笠に蓑(みの)を着て、小さなトビに長い柄をつけて何十人かの多くの人で川一面丸太流しをしていた。川は大へん大きく、冬には村の人達が氷橋をかけるが春には流されてしまい、そのあとはアイヌの人たちが渡船場を作った。

'21年(大正10年)私の小学校入学の年である。母は木綿じまの反物を買って着物を作ってくれた。ゴム靴はなくて、どこの子も夏、冬布で作った足袋で、靴下の代りにはくのは、岡足袋、靴の代りがはだし足袋である。入学のため岡足袋、はだし足袋も作ってくれた。

頭には花がらのきれいな模様をしたフランネルのきれをかぶった。本を風呂敷に包んで背中に背負い上音更小学校へ行ったが、雪どけ水がごうごう音を立て流れており、足袋がざぶざぶに濡れて泣き出し、上級生におんぶして渡してもらった。この年5月奥山の雪がとける頃、大雨が降った夜に、川の方でオーイオーイと呼ぶ声が聞えた。阿部さんのおじいさんとおばあさんがどこかの帰り道、渡船の綱が切れてしまったとの事、近所の人達が探したところ、1.5キロメートルほど下流で遺体になっていたとのことであった。

隣りのアイヌの家で熊を取ったお祭りがあった。たくさんの熊の肉は細長く切り、竿(さお)にずらりと掛けて、半分くらい乾いた頃、おやつの代りにアイヌのこどもたちは、フトコロに入れ、あるきながら食べていた。

'22年(大正11年)の夏の2〜3日大雨が続いた夜、にわかにごうごうとけたたましい川の音と共に、家の中に水が流れて来て、手をとり合って高台の家に避難した。ナイタイ川の流送のとめが破れて一度に洪水となったとのことで、コタンは一面、大川となり、私たちは家がなくなり、高台に引越した。その頃どこの家でもあら地を開くのに一生懸命であった。大きな樹の枝だけを伐り下して、その枝を集め燃やし、枝を伐られた大木が畑の中にすくすくと立ち並び、馬3頭を並べてバリバリ新墾地を耕す姿があちこちで見られた。

4年生になったとき、うちで世話になったということで、そのお礼に鈴木泰助さんの家に子守りに行くことになった。3歳の子をおんぶして子どもの弁当も下げて通ったが、教室の中で勉強のできない事もたびたびであった。5年生6年生にもなればどこの家の子も勉強は第二で、おとなと一緒に畑を手伝わなければならない。午後から授業のあるときは、牛前だけで早引きをし、午後に残る子は何人もいない、そのせいか学校は朝7時に始まったこともある。

私の家では畑7ヘクタールを借りて豆作りをしていたが、凶作で豆がちっとも実らない年があった。'27年(昭和2年)尋常6年卆業で、高等科へ進む子も2、3人いたが、うちはそれどころでない。肥料代、店借りが200円余りとなった、'28年(昭和3年)13歳の春、母は元気のない声で「今年、家はつらいから、よそへ行って働いてくれないか」といった。事情の判っている私はいやとはいえない。安村治高丸さんの家へということであった。安村さんといえば村の人を楽しませるため、400円も出してお祭りのしし舞のおかぐらを買って来たとかで、高木さん達の舞いを見たことがあり、名前をよく聞いていた。

母に連れられていった安村さんでは、1年のお給料が60円で仕度も全部して頂き、冬には裁縫も通わせるとのことであった。安村さんの家は、娘さんと、娘さんの息子さんの生活で驚いたのは機械がたくさんあることであった。

商売にするものでもないのに精米機、精粉機などを揃え、まだ普通の農家では、使っていなかった発動機が、あの式だこの式だと3台もあった。どこの家にもなかった豆蒔機もあり、自分で特別な式に造らせた脱穀機まであった。馬は4頭の内豪州産が一頭いた。小作人が6世帯ほどあり、旦那さまと呼ばれていた。市街に使いに行くと、時計を見ていて少しでも遅くなると、遅いなァと言われる。馬草切りをさせられた。

外国製の手廻しカッターで、押し切りの3倍くらいできるのだが、一生懸命手で廻すと汗びっしょりになった。当時安村さんは58歳で大変お元気であった。

畑耕しが始まり、新墾でもないのに馬3頭でナタをつけて耕すのであった。安村さんがプラオを持ち、私は手綱(たづな)を持たせられた。まだ馬追いをした事もない私には、チョットやソット手綱を引っぱっても馬が思う所には行かない。“へただっ”といって物凄い声でしかられる。毎日毎日の仕事で泣きたい気持でいっぱいであった。

安村さんは機械と作物の研究に熱心で、いつもカタログなどに気をつけており、これはと思うものは直ちに買った。作物で少しでも変った品種があれば、その種子を封筒に入れて大事にとっておいた。研究の結果つるの無い中長うずら豆が出来た。大変作物の取れない凶作の年が続いたとき、そのつるなし中長だけは普通以上に収穫があった。安村中長と名づけられ、広く種子として用いられた。

小作人の方は安村さんを大変と尊敬し、正月にはどこに行かなくても安村さんのとこへだけは、旦那様おめでとうといって、何か持っていっても受け取らない人なので、手ぶらでごあいさつに行き、たんまりとお酒やごちそうを頂き、帰りにはおみやげを貰って帰るのであった。安村さんは「オレは小作の人によって食べているのではない、自分が食べるだけは自分で取っているのだ」といっており、当時6ヘクタールほど作っていた。

私は父親が亡くなり、その後も安村さんに世話になり本別に嫁ぐことになった。安村さんは「良く辛棒してくれた。お前はうちに勤まったほどだから、どこに行ってもつとまると思う、でも何か困ることがあったらいつでも来なさい」といわれた。

私の少女時代から娘まで面倒を見て頂いた安村さんの恩を思い胸がつまった」

散在する開拓者と成功者

十勝の殖民地が正式に解放され、移民の受入れを開始したのは、1896年(明治29年)で道内では遅い方であった。国の移民奨励政策をうけ、満を持していた内地府県の資本家、移住民たちは、競って適地を選び、少しでも交通の利便に近く、しかも、飲料水の便がよく、地味肥よくと思われる大河川に沿って入植が集中した。奥地で交通が不便な上、気候、地力が劣ると見られた上士幌地区は、初期の段階ではほとんど着目されなかったのである。

内地から北海道へ志した移民たちの多くは自立し、広い土地を持ちたいとの意向が強かったので、一旦は便利な農場小作人や、集団入植地へ入った人たちの中には、やがて十勝の開拓営農への自信と力を備えるようになると、奥地の広い土地に移転、挑戦するものができてくる。こうした移転開拓者たちが1907年(明治40年)安村の上士幌入植と時を同じくして上士幌地区の原野の各地に散発的に開始された。

開村記念のヤチダモの樹

児童会館前庭、北寄りに一本のヤチダモの樹が勢いよく伸びている。幹周り122センチメートル、樹高22メートルくらい。上士幌市内では、目につく存在である。

この樹のいわれについては、往時上士幌分村の中核となった元村長鈴木泰助(昭和44年死去)が、死の一年くらい前、当時親しくしていた青年、樋口隆信をわざわざ自宅へ呼んで言い残したいことがあった。このヤチダモは、上士幌の分村を成し遂げた'31年(昭和6年)を記念して、分村委員の内、とくに士幌村村会議員として分村に活躍した遠山音次郎、小椋兼松、鈴木泰助、三島半次郎、佐々木佐武郎、青山久吾、吉田千代吉、鈴木幸造、(以上8名の内1名が病気欠席)が新築した役場庁舎の北側に一人一本ずつ合計7本を手植えしたものであった。鈴木泰助は、樋口青年にヤチダモの樹は、どんなに大きくなっても枝ぶりがよく姿がすっきりしてグングン伸びる。村の将来を表わすようにと思って植えたのだといった。

7本の樹はそろって美しく伸びていたが、'52年(昭和27年)2代目の庁舎が建つとき2本伐られ、次いで'67年(昭和42年)児童会館建築の時に2本、そして'82年(昭和57年)町営温泉泉源堀さくの時2本伐られて、ついに1本だけとなってしまった。

開村以来60年、さまざまな移り変りを見定めて来たヤチダモは、これからも町の発展とともに伸び続けることであろう。

分村へ

音更村の頃

河東郡を一円とした「音更ほか2か村戸長役場」が独立した役場を下音更に開庁したのは、1901年(明治34年)10月であった。

'11年(明治44年)音更村村勢一覧では、戸数1,183戸、人口6,477人に達し学校、教授場合せて17校が掲載されている。

川上村士幌村の頃

河東郡が一つの音更村という区域は、奥地に開拓が進むにつれて集落が各地に散在し、役場所在地との連絡は容易なものでなく、不便が多かった。

1920年(大正9年)10月国勢調査で、音更村は戸数2,423戸、人口18,630人となっていて、分村問題が'18年(大正7年)頃から真剣に論議されるようになっていた。当時既に入植していた勢多や清水沢付近からは、未開の道路をたどって音更役場へ用たしに出掛けることはきわめて困難なことであった。

'16〜'17年(大正5〜6年)頃は、第一次世界大戦雑穀相場が暴騰して開拓途上の農家の気勢が大いに上り、開畑が各地で広がっていたときなので、分村への意気込みがたかまったものといえよう。

クテクウシ、瓜幕、美蔓、上幌内に上然別の一部を含めた地域を「鹿追村」とし、字上音更、上士幌、士幌、中士幌、中音更などの一部を含めた区域を川上村として分村する案が決まり、川上村は川東は10号を境とし、基線から東は18号を境とした。音更川の西は24号を境とし、鹿追村とはパンケチン川を境として、'21年(大正10年)4月1日、川上村、鹿追村が誕生し、同時に音更村は一級村に昇格した。

川上村の役場位置は、最も開拓が早く進んだ中士幌下台に置きたいという勢いもあったが、上士幌方面の奥地開拓が進んでいる状況から、現士幌市街に落ちついた。第一期の村会議員10名の内、当町区域からは鈴木泰助が当選している。

分村当時、面積708平方キロメートル、戸数773戸、人口4,304人であった。新村では士幌市街が発展し、'25年(大正14年)には、中士幌から下士幌に至る水田造成のための士幌かんがい溝の大工事が完成し、同年10月には、かねて工事中の士幌線鉄道が帯広〜士幌間を開通し、村は新興の気運がたかまり、人口の移入が続いた。

上士幌分村の機運高まる

上士幌村全図

士幌線鉄道の開通に加えて広大な民有未墾地解放による入植者の増加は、士幌村の村勢を飛躍的に発展させた。中でも上士幌は豊富な木材資源の集散地として上士幌市街の発展が、役場所在地の士幌市街をしのぐほどの勢いとなった。

活気に満ち、なお、開発可能地を豊富に持つ上士幌で分村の気運が高まったのは、1929年(昭和4年)3月で、分村期成同盟会が結成されて表立った行動が開始された。

こうした奥地開発にともなう新開地の分村要求は十数年前、士幌村が音更から分村したのと全く軌を一にしたもので、時代の必然性といえるものであったが、このほかにも分村を促した、つぎのような幾つかの事情が村内にあったといわれている。

(1)士幌村はその頃、人口、財政力からいって一級村の要件を備えており、昇格の請願をすることとしていたが、昇格してから上士幌を分村すると問題を生ずるので、分村を先にした方が有利だとの意見があった。(結局一級村昇格は実現しなかった)(2)士幌では、'25年(大正14年)に完成した土功組合のかんがい溝による稲作が冷害続きで大失敗に終った。上士幌の畑作農家では水田農家の税減収分が、畑作農家の税負担の増加になるとの懸念が強かった。

以上の理由も加わって、上士幌分村の動きは、当初順調に進み、'29年(昭和4年)4月村議会に於いて、分村を請願する旨の議決が可決され、分村問題は緒についたのであった。

新村の誕生

幾多の波乱を乗り越え、ついに上士幌村分村の協定が成立し、手続きを経て、北海道庁の告示がおこなわれ、1931年(昭和6年)4月1日上士幌村が誕生した。

新村は、面積43・5方里(662平方キロメートル)で、母村士幌の4倍近く、戸数1,011戸、人口5,499人であった。農耕地、畑3,551ヘクタール、宅地37ヘクタール、山林437ヘクタール、原野6,416ヘクタールと報ぜられていた。新村の村長には、西足寄村長市田清之が発令赴任してきた。役場職員に8名が任命になり、4月1日の開村式は、村内の有志と職員が集って仮庁舎で行われたが、職員同志がお互いの顔も知らず開庁式ではじめて村長を知ったということであった。


上士幌町の誕生

詳細にわたる申請に対し、現地調査がおこなわれた結果、'54年(昭和29年)4月1日付けをもって上士幌村は上士幌町になった。十勝で13番目の町で、母村士幌村を追い越しての町制であった。町制を祝う式典が同年4月おこなわれ、町民は祝賀行事に沸きたち興奮に酔った。上士幌町民にとって最良の日であったといえよう。

上士幌町町民憲章
わたしたちは、豊かな資源と大雪山の山なみがつらなる雄大な自然にはぐくまれ、たくましく尊い開拓精神をうけつぐ上士幌の町民です。
わたしたちは、この町の町民であることに誇りと自信をもち、たがいのしあわせをねがい明るい希望と高い理想をかかげて社会に奉仕するよい町民となるために、ここに町民憲章をさだめます。