幕別町史 文化・生活

文化

俳句

明治四十年頃、詩人・佐藤春夫の父・豊太郎が、

 秋ひとり馬にもの言ふ野末かな
  五位啼くや夕べしぐるる河のほとり

止若村で俳句を詠んでいる。また、明治41年に、止若村で夏休みをすごした佐藤春夫も後年、

木がらしや開墾小屋の豆ランプ

と当時を思い起こして作句した。豊太郎の句は、現存する句では最も古い。

明治38年、榎本鳴海(繁平)によって俳句結社「止若弘風会」が興された。榎本繁平は明治6年4月、兵庫県三原郡八十村で生まれた。明治27年に渡通して利別村に入り、のち止若村に移住、明治44年1月から幕別村役場に奉職した。1級村となった大正8年に収入役に就任している。

大正3年4月、武智和平が幕別村長として着任以来、止若市街の俳句熱は更に高まりをみせた。武智は「暁雨」と号し、俳句の宗匠として知られていた。止若弘風会には細田芦雪、獣医師でのち札幌手稲の村長となった河合新三郎(孤月)、高橋亀三郎(三亀)、真野護(静海)、木川政二郎(北水)などのほか電気・ラジオ商の相原紅夢橋本正一らが加わり、鳴海宅で句会を開催した。大正6年3月、武智は音更村長となり、かわって石原重方が村長に就任した。石原は漢詩をよくし「冬蝉」と号した。冬蝉、星山松濤、鳴海はよく連れだって途別温泉に遊び、詩や俳句をものにした。

遊途別温泉

 霊泉滾々湧 秋気粛々来 浴後吹煙坐 洗除面上挨   石原 冬蝉
  
 嵐気満書案 渓光照小薗 浴後閑夢覺 聴断水淙々   同  人
  
 洗得炎埃輿俗縁 俗樓酔倚翠徴巓 清遊半日忘機客 座看間雲臥聴泉  星山 松涛
  
 無数青山遶途郷 樹間隠見動渓光 軽雷載雨去何處 只有涼蝉噪夕陽  同  人
  
 睦み合ふ温泉宿二軒や梅柳    榎本 鳴海
  
 夜振火や途別河畔を温泉壷から  同  人
  
 汽車待つ客も温泉に来る夜寒哉  同  人
  
 てふてふも呼て止たし帰り花   同  人

鳴海は大正6年9月、函館の蚊雷庵北条澄水から判者の免許と「蚊素庵鳴海宗匠」の称号を受けた。大正後期の弘風会の活動は不明だが、後述する三人遺句某「福寿草」の内容から見る限り活発な活動をしていたようである。昭和に入って若い人が鳴海の門をたたき、弘風会の黄金時代を礎いた。人々は若い世代を「新派」といい、前者を「旧派」と称した。新派の俳人は形式的な俳句からの脱皮を試み、新しい形の俳句づくりを行った。新派の主な俳人は榎本梅谷新田孤峰新田深翠乙武世水滝川登佐藤冬青野村琴海大石潮三富田裸子榎本静雄伴野ショウ洋半野敏行らである。このほか、山崎千濤の「蝦夷野止若支社」が金剛寺に置かれ、新田孤峰が責任者となった。弘風会、蝦夷野支社合同の句会が鳴海宅、善教寺、金剛寺を会場に、しばしば開かれた。

戦争の激化と鳴海の死去などから句会も開くことなく終戦を迎えた。内山筏杖によると昭和21年11月17日に鳴海の法要句会を榎本宅で開催している。このころの同人は高橋甘木子吉川圭雲土井比呂志、金内エイ(貝二つ)人、菅原繁光橋本俊光矢田枯柏徳丸沓坡浅見稲香らであった。のち、それぞれ責任ある職務につき、あるいは勤務の関係から止若の地を離れ、時折り俳誌に投稿するのみであった。

昭和35年、榎本鳴海の句碑建立の声があがり、この年の7月24日、止若公園で除幕式を行った。句碑の正面には鳴海の句。裏面には若くして世を去った榎本静雄の句を刻んだ。

野広しも二月菜汁の実にこまる  鳴 海
 夜明くれば摘みとられいし牡丹の芽  静 雄

榎本鳴海の句碑

榎本鳴海の句碑

静雄は鳴海の長男。幕別尋常高等小学校から札幌師範学校に進み、昭和6年3月卒業して母校の幕別尋常高等小学校の教員となったが早世した。俳句の雅号は「露香」のち「甦炎」と改め、多くの作品を残した。

昭和58年6月12日、石川蒼舟中島丘畝嶋信一らが提唱し、初の句会を札内働く婦人の家で開催した。翌59年、大石潮三、河瀬杏林の呼びかけで幕別、札内合同俳句会を6月26日に働く婦人の家で開催した。この俳句会を期に、古い歴史をもつ「幕別弘風会」が復活した。以後、月2回、幕別と札内で交互に句会を開催し、また河瀬杏林が手作りで合同句集「北辛夷」を昭和61年から年1冊発行している。平成3年2月末現在の同人は次の19人である。

 佐藤吟秋森元秋声白川浪子児島澄子三船京子、大石潮三、金田雄月、河瀬杏林、
  西如風、中島丘畝、  中橋正峰、野々村春水、千賀素風須田としお中田美恵子
  斉藤園澄輔田あい子本間紀子立野のり子

昭和46年5月、幕別町役場を退職した榎本梅谷は、内山筏伎の「樺の芽」に所属し再び作句を始めた。49年に編集委員、55年から編集長となり、樺の芽を隔月誌から月刊誌とし、1日7句を作句することを自ら義務づけ励行した。死亡(58年3月21目)の前日の俳句手帖に8句を書き残していた。梅谷の2男・充彦が祖父・鳴海、伯父・露香、父・梅谷が四季折々に詠んだ句を整理し、3人遺句集「福寿草」を発刊したのは昭和59年3月1日。句集名の福寿草は鳴海の「この上に望む名はなし福寿草」からとった。発行人は梅谷の妻正子。同年4月29日に幕別弘風会主催の発刊祝賀会と出版記念俳句大会が町民会館で開催された。

福寿草の表紙

福寿草の表紙

十勝俳句村

十勝俳句村は、当初、帯広市の公園内に建立する考えで計画されたが、生存者の碑を公園内に建立することが条例で禁じられていたため断念したという経過があった。榎本梅谷、内山筏仗らが幕別町の許可を待て、依田公園内に10基の句碑を建立し、村是を定めて開村したのは昭和55年11月3日。村長に梅谷、議長に佐々木露舟を選び、筏仗が名誉村民となった。58年3月、梅谷にかわり大石潮三が村長となった。

句碑は55年に10基を建立したが、その後、57年4基、58年5基、59年6基、60年1基、61年12基、63年5基、平成元年4基、2年8基、3年12基、4年9基、5年3基、6年2基の計81基、比翼句碑、親子句碑があるため村民は85人、うち幕別町民は次の17人。他は帯広44人、士幌7人、鹿追6人、音更5人、本別2人、札幌、足寄、中札内、池田の各1人。カッコ内は俳号。

石川正海(蒼舟)、建部秀義(蘭蝶)、中島弥吉(丘畝)、榎本梅谷(梅谷)、
 大石忠夫 (潮三)、河瀬杏一(杏林)、榎本繁平(鳴海)、榎本静男(甦炎)、
 千賀孝雄(素風)、佐藤一馬(冬青)、輔田あい子(あい子)、中田美恵子(美恵子)、
 中橋正夫(正峯)、西久満男(如風)、斉藤すみ子(園澄)、野々村春雄(春水)、
 梅津武(樵人)

俳句村の句碑

俳句村の句碑

短歌

開拓時代から折りにふれ歌われ続けた短歌は、こと幕別に関するかぎり俳句に押されて、その影は薄かった。明治から大正にかけて大月富次郎、郡某らによって歌会が開かれたが、これという記録は残ってない。大正15年10月13日の若山牧水日記に「歌会では止若から来た社友桑折如水君がゐた。君の名を見て来たのは随分と久しいものであったが、ついに逢ふことが出来た。」と書かれている。歌会は池田町で開かれたが、桑折の消息は不明。牧水歌碑建立の際にも名前はみえない。

大正15年10月18日、若山牧水が喜志子夫人を伴い、札内郊外の黒田温泉で旅の疲れを癒した。短歌界の大御所・牧水の来村は、幕別、特に札内地区の短歌界に大きな刺激を与えた。その一つとして昭和5年、粒羅融、中寺常次郎、長谷松蔵、戸島定一、大堀秀司、山出龍水、石谷戈吉、金山金一、泉留吉、内海鶴記、池崎友子、奥野姫代子、佐藤軍治、竹林与吉らが「蒼穹十勝支社」を結成、活発な作歌活動を行った。後述するが、牧水が滞在した黒田温泉の前庭に「幾山河」の歌碑建立の呼びかけをしたのは蒼穹十勝支社である。蒼穹十勝支社の活動は、戦争の激化とともに自然消滅の形となった。

大正12年9月、幕別尋常高等小学校の代用教員となった千葉一也は、昭和2年に佐藤一馬らと「槲実社」をおこし、止若歌会を主宰した。千葉一也は昭和4年に太田水穂の「潮音」に、翌5年には小田観蛍の「新墾」に参加し、同8年には止若で前田道治らと「SOS社」を組織し、歌誌を発刊した。歌誌は3号で廃刊となったが、昭和21年には野原水嶺、渡辺洪らと「辛夷」を発刊するなど短歌とのかかわりを深めた。

昭和56年、渡辺洪と辺見徳明が千葉一也の歌碑建立の声をあげた。辺見は千葉一也が下似平尋常小学校長時代の教え子。この動きは友人の大石忠夫幕別町長、榎本梅谷俳句村々長、教え子の森敏雄らに広がった。翌57年3月5日に発起人会を阻織し、代表に野原水嶺、副代表に辺見徳明が就任した。

ここにきて あさやけからす啼くきけば ひびけり神の斧ふるふ声

の歌碑を依田公園に建立し、千葉一也も出席して7月24日に除幕式を開催した。

アララギに所属し作歌に励んだ明野の土井比呂志は、島木赤彦の一番弟子である高田浪吉と作歌を通じて交遊を重ねていた。高田は、

早や来よと 土井此呂志よりの手紙よみ 十勝は遠しまだゆけぬを

と札幌で詠った。高田は昭和23年6月に明野の地を訪れ、土井宅で3日間逗留し、この時に詠んだ34首を歌集「木苺」に収録した。うちの2首は次のとおりである。

 ゆうべ歩む 十勝明野の広原に 天遠くかくる日高山脈
  起状の高畑 野べを越え見ゆるはるか 十勝川光りをるにや

歌碑の前で、左が千葉一也、右は辺見徳明

歌碑の前で、左が千葉一也、
右は辺見徳明

あゆみ短歌会

昭和33年4月、高橋由貴子、塚田トキ、勝山春代らによって短歌愛好者の集いが持たれた。のち、成人学校の1講座として同好者を募り、拓銀勤務の山内白葉を講師に迎えて「あゆみ短歌会」を結成し、会長に勝山春代がなった。翌34年4月14日、会員の歌の結晶である歌集「あゆみ」を発刊した。昭和42年現在の会員は次の12人であった。

 高橋由貴子、塚田トキ、勝山春代、山田仙太郎、森田美恵子、木藤保一、長尾敏子、
  大西玉枝、谷口幸子、黒田照依、塚田常子、二川しげる。

あゆみ短歌会では定期的に吟行会を開催し、山内白葉の転勤以後は「鴉族」の寺師治人に師事し、昭和45年11月1日に合同歌集「あゆみ」、55年10月1日に「まどか」、平成2年6月1日に「ともしび」と、10年ごとに合同歌集を発刊、また、新聞、町民文芸誌に投稿するなど作歌活動を続けている。2代目会長は60年から高橋由貴子。平成3年4月現在の会員は次の22人。会長の高橋由貴子は、十勝文化団休協議会の平成5年度文化賞を11月23日に受賞した。

坂東美世、正田やえ、森田美恵、浜中十郎、溝口フミ、小山利子、棚久子、清水はる代、
 松田忠子、宗広とくえ、高橋由貴子、高木さわ子、塚田常子、妹尾道子、井上松野、
 鎌田あきの、斉藤ヒデ子、貰谷川勲、大沢美枝子、久保田信子、安藤温子、山本光子

十勝アララギ短歌会

正岡子規没後、その門人らが根岸短歌会の操閑誌として刊行した「馬酔木(あしび)」「アカネ」の後をうけて、明治41年(1908年)10月、蕨真(けっしん)が「アララギ」を創刊した。翌年9月から伊藤左千夫を中心に編集、大正3年(1914年)から島木赤彦が、赤彦没後は斉藤茂吉、土屋文明らが編集し、大正・昭和を通じて歌壇の主流となった。アララギとはイチイの別称。

昭和53年1月、上士幌町で十勝アララギ短歌会(代表・黒沼友一)が発足し、幕別からの参加者も増えた。黒沼は昭和60年4月に札内文京町に転居して事務局を置き、管内外60数人の会員が熱心に作歌活動を行っている。

この間、昭和34年から毎年開催している北海道歌会の第26回大会(昭和59年8月)と第31回大会(平成元年8月)を、町営国民宿舎幕別温泉ホテルで開催した。この大会にアララギの選者で、平成5年宮中歌会初めの召人・吉田正俊が出席した。吉田は平成6年の第36回目の北海道歌会も担当した。

札内文京町の事務局からは随時、会報が発行されているが、平成5年9月に発刊した合同歌集「北国」には、本町から次の17人が参加した。

 黒沼友一、黒沼秀子、井上松野、二川幸子、斉藤きえ、須田敏子、佐藤フミエ、
  井上美恵子、黒沼友之助、黒沼カチ、井上カメ、樋田トシ子、佐藤弘美、久保照子、
  加地真知子、佐藤勢津子、野田ヒサ

勉三ら水田成功を詠う

大正9年11月、依田勉三は途別水田の目鼻がついたのを記念して、途別の黒田温泉に宴席を設けた。出席したのは渡辺勝鈴木銃太郎津田禎次郎安田巌城の4人、これに勉三を加えて水田の成功を祝った。この宴席で披露された席詠は次のとおりである。

 松浦の大人の望成りにけり  十勝川辺の公園の秋  津 田 禎次郎

 十勝野に水田を開き稲うえし  はじめの祖は君にしありけり  安 田 巌 城

 家毎に積むや穂通の途別村  勝ても豊かに見揺る里かな  鈴 木 銃太郎

 今ははや昔かたりとなりにけり  オベリベリプの新墾の親  渡 辺 勝

 有難し雨の降る日の蓑とかさ  錦に勝ること名忘れそ  依 田 勉 三

また、勉三は出席者に特別の揮毫を依頼した。勉三作の七言絶句を勉三と縁の深い人々で書き継ぐという趣向。

詩は、

  君去春山誰共遊  鳥鳴花落水空流

  如今送別臨渓水  他日相思来水頭

  君、春山に去る、誰と共にか遊ばん、鳥鳴花落ち水むなしく流る、如今の送別、
   渓水にのぞめば、他日相思うて水頭に来らん。

七言絶句は当日会した4人が、その場で書き、あと各所を持ち回って伊豆大沢で完成した。

 君 去  此二字伏古涓々洞書(津 田 禎次郎)

 春 山  狸 堂(渡 辺   勝)

 誰共遊  巌 城(安 田 巌 城)

 鳥 啼  道 分(鈴 木 銃太郎)

 花 落  蘇 堂(田 口 秀 正、茂岩の草分け)

 水空流  尊 親(二 宮 尊 親、尊徳の孫)

 如 今  百草園主嘗国翁(諏 訪 鹿 三、元河西支庁長)

 送 別  芽 村(大 村 壬 作、芽室村長)

 臨渓水  波 円(波多腰 円一、農場経営者)

 他 日  酪農行脚生(小 林 直二郎)

 相 思  五 羊(依 田 善 吾)

 来水頭  団 獄(依 田 佐二平)

 住民の暮らし

古老の昔ばなしを纏めた幕別風土記 開拓地

古老の昔ばなしを纏めた幕別風土記、開拓地(現在の軍岡地区)

高齢のため1人また1人と欠ける開拓時代の語り部。今のうちに開拓時代を幼い目で見てきたこと、少年・青年時代の体験談などを残しておかなくては・・・と昭和53年4月から、仮称「開拓苦労話」をテープに収める作業を始めた。担当は元助役の榎本梅谷と町職員の武田衛。この作業は武田の異動などからストップし、55年に同じく町職員の芝木勝幸によって再開された。芝木らは録音テープから文章を起こし、町長・大石忠夫命の『幕別風土記』第1集は56年3月、第2集は58年1月に発刊した。以下は、幕別風土記からの抜粋である。

鍬で1日に4坪開墾(五位・西川勇次郎)

父母と兄妹の5人で北海道に来たのは明治40年3月。私は12歳でした。幸震で小作を少しやり、その年の11月に叔父さん(父の弟)の土地(上糠内、現在の中里)に入り開墾しました。そこは記念松付近で大須賀牧場へあがる道のところで5町歩ありました。雪の降るまで鍬でね。1日に耕した土地は2間四方で4坪。木と木の間の笹の根が太く、また、たくさん生えていたから大変でした。明治40年当時、上板内から奥糠内(駒畠)までの間に家はありませんでした。
  駒畠では貰える土地がなくなったので、大正9年の3月に、中糠内の松岡粂太郎さん、駒畠の高畠捨次郎さん、美川の長田兵次郎さん、北浦太三郎さん、高田さん、篠島さんの7人で釧路から根室まで土地探しに行きました。土地はあったが木は伸びていないし笹でもなんでも小さく百姓をするような所はないんです。中標津に良い土地はあったが、土地がかたまっていないので、あきらめて戻ってきたが、戻ってきて良かったと思っています。

晩成社の土地以外は原始林(西和・千賀多金治)

私が幕別に来たのは高等小学校を卒業した15歳の時で明治40年3月27日でした。入った場所は幕別村大字別奴村南4線東31番地(現在の札内桂町)の晩成社の小作人小屋でした。びっくりしたことは晩成社の土地以外は、ほとんど原始林で大きな木がゴロゴロしていました。3年ほど依田勉三さんの晩成社で小作人をやりました。小作人小屋は中村清次さんの付近にありました。その後、山口源治さんの土地を借りて小作をやり、高台で牧場をやっていた坂本養蔵さんから1戸分120円で3戸分(15町歩)の荒れ地を買って独立したのは大正元年でした。
  冬の仕事は雪をはねて木を切る毎日。春になって、これを集め、上に枝をかけてドンドン燒いてね。誰も買い手がないので自分のところで使う分だけ残して燒いてしまいました。
 晩成社の吉田多蔵さんという方から聞いた話ですが、沖積土のところにはドロの大木があちこちに倒れていて、梯子をかけなければ向う側に行けなかったそうです。ドロの木は薪にもできんということで、投げてあったんですよ。

駅の前は崖みたいな斜面だった(西猿別・小川長太郎)

  幕別に来たのは私が12歳の時の明治40年3月。祖父は、はじめ釧路に入るつもりでいたが、船の中で「釧路は海岸ぶちで霧が多く農夫はできない」と聞いたもんだから幕別に変更してね。父親の弟、金安綱次が茂発谷の広都農場で支配人をやっていたことと祖父も綱次のところに1年ぐらい居たことがあったんで幕別にきめたんでしょう。それに内地の人間は北海道に入るのなら、どこでもいいと思っていたようです。
  土地を買って独立したのは大正4年、場所は現在いるところの西の高台で、直径2尺や3尺の楢、赤ダモ、柏などの大木が生えていた。それを切つて燒き、切株は鍬、マサカリ、スコップなどで取ったが、それも1尺くらいが限度。1株掘るのに1日以上もかかったね。
  西猿別で水田を作ったのは大正12年。その当時、この辺は柳がいっぱい生えていたね。私のところでは内地で水田を作っていたので、部落の人たちと相談して低いところを水田にしたんだ。
  明治40年当時の駅前には店が5、6軒あり、市街の真ん中に武山市街から猿別市街に抜ける道路があった。駅のすぐ前は崖みたいに斜面になっていたね。

乾燥地にもトクサが生えていた(千住・磯部長三郎)

私が17歳の時に富山県西礪波郡国吉村大字答野出付から塚本清次郎さんや杉沢佐吉(伯父)を頼って父母と80歳になる祖母の4人で白人村に来ました。明治35年3月でした。内地の農地を売ったお金を持っていたので、現在地の4町歩を600円で買い開墾したんですが、4町歩のうち2町歩は原始林で、ほとんどがドロの木でした。それに湿地に生える木賊(トクサ)が乾燥地にも生えていました。
  当時、道路らしい道路はなく、原始林の中をくぐって目的地に行くのですが、ある時、父親の酒を買いに加藤醸造店(現在と同じ場所)へ行くと、父親がオーイ、オーイと呼んでいるんです。見通しが悪いんで迷うかと心配していたんでしょうね。
  買った土地は原始林のうえ沼みたいな十勝川の支流があって、いまみたいに平坦でなく起伏がありました。それを長い年月をかけて整地するなど、苦労して開墾した土地なんです。ここの土地が肥えているかどうか知らないで開拓したんですが、内地からきた人たちは、いい土地を求めて転居していった方も多かったですよ。私のところでは1000円もたまったら内地へ帰ろうと思っていたのに、入植してから現在まで同じ土地に住んでいられたことは、ほんとうに良かったと思います。

勉三さんと寝食を共にし開墾(文京町・稲葉嘉一)

依田勉三さんと私の出身地が近くであったためと勉三さんの弟の要さんの家で牧夫として雇われていた関係から、大正8年の23歳の時に、酪農をやろうと勉三さんを頼って十勝に来たわけです。来てみると勉三さんは牧場の万より水田開拓に力が入っておったんです。それで私は水田の造成を手伝うことになりました。その当時、晩成社の住宅が帯広町にありましたが、私は現在の水田発祥の地の付近で、勉三さんと寝食を共にして開墾作業をしました。この開墾ですが、2メートルくらいもある葦を刈って木の板や草を取り除き、排水溝を掘ったり畦を作ったり、それこそ夜明け前から日暮れまで働いたもんです。私は3食付きの生活保障で1日1円の日当を貰っていました。雨が降って働けない日は日当は貰えないんですが、食べることには不自由しませんでした。
  当時は一面の原始林であり、勉三さんや小作人の人たちが汗水を況して苦労して開墾した土地が、今は住宅団地となり、小中学校も近くに建っています。これも時勢なんでしょうかね。

小作人が常雇を任って開墾(明倫・亀井正雄)

  父親の名前は亀井弥二郎、北海道へ来たのは神居村字伊野(旭川市)へ屯田兵で入ったと聞いております。明治43年に古舞の小学校付近へ、炭焼きをするため入植したそうです。昭和2年には上茂発谷(明倫)の新田帯革製渋工場の所有地に入って、大木を切った後の小柏で炭焼きをしたり、薪をつくる仕事をしていました。私の父親が明倫の鍬おろしみたいなもんだね。そのような仕事をしているうちに、父親は真面目ではないが親分肌で腕力があり、背は6尺近くもあって新田さんから信用がすごくあった。それで柏の大木を切った後の開墾を一任されるようになり、また、開墾した農地の管理も任されるようになった訳です。
  その当時はね、新田さんでは馬を飼っていたものですから、開墾するのに3歳の荒馬を無料で貸してくれてね。しかも、開墾するのに新田さんの土地でありながら道庁より開墾補助が出るんです。開墾の容易な土地で反当り2円、困難な土地では4円50銭の補助金が出たんです。
  農地が増えていって家族だけで手不足となってね。昭和8、9年の最盛期には常雇いが24人もいました。その当時で常雇いを大勢雇うことは珍しいことだということで朝日新聞に掲載されたことがありました。

10町歩を160円で買う(古舞・久保英太郎)

  明治37年4月に北海道に渡った父が、この年の11月24日に、北海道がいいから行こうと我々を迎えに来たんです。私と両親と弟の4人で船で神戸に着いて、神戸で移住証明をもらって、戦争中(日露戦争)なもんだから、軍の荷物と一緒にご用船に乗って函館へ来るのに1週間かかりました。それから船に乗って室蘭へ、室蘭から汽車に乗って落合へ、落合で1泊し、翌日は歩いて晩にペキリベツ(清水町人舞)に着いた。翌日は芽室の坂のところから馬車に乗って帯広へ、そして父の妹が嫁いだ愛国の楠木辰造のところへ頼って行きました。
  入植して4年目の明治41年に荒地を1戸分買って耕やしたが、まだ小作でしょう。小作は片身が狭いから自分の土地を増やさんならんと働いて、明治43年に10町歩を160円で買いました。土地が全部で20町歩になった明治45年に小作をやめたんです。
  愛国から古舞へ移ったのは明治45年2月3日で今でも良く覚えています。
  その当時は道路らしい道路もないし、愛国の畑へ通うため難儀して道路を拓いたところで徴兵検査に合格したんです。私が兵隊に行っている間、父親は頑張って8町歩を買いましてね。父親は頑張ったんだから、おれも頑張れと思って兵隊から戻って2戸分買ったんだが、そして、いつの間にか農地が45町歩になっていました。

6歳の時に富山県から移住(五位・山崎外次郎)

私は明治31年4月に富山県西礪波郡西五位村大字土屋で生まれました。幕別へ来たのは私が6歳の時の明治36年4月です。私らが来た時は、すでに吉田平一郎さんを団体長とする五位団体の人たちが20戸ほど入植していました。その団体移住のなかに母親の弟・橋本弥市郎がいて、その弟を頼って来たんです。そして岩永右八さんの土地5町歩を借りて小作人になりました。自分の土地を購入して独立したのは明治38年です。現在のところに入って開墾に従事したのは大正6年。その時、私が19歳で父親は53歳、1番下の弟が6歳でした。
  西五位付から来ていた人達が共同で持っていた800町歩くらいの牧場がありましてね、そこを1戸分130円で4戸分を購入したんです。うち1町歩は開墾してあったが、あとは未墾地でしたので、開墾するのに随分と苦労しました。共同牧場の土地は、新田製渋工場へ柏の大木を売った跡地でしたが、1メートルくらいの小柏や大きな切り株が沢山残っていたので、兄弟して朝早くから夜遅くまでかかり、大きな木は2尺5寸ある幅の広い鋸で切って薪にしたり、燃やしたりして、開墾が完全に終わるのに10年ぐらいかかりました。

原生林で太陽さんも見えないぐらいだった(途別・乾 勇)

私は明治32年4月10日に現在の途別小学校付近で生まれました。父の名前は萬四郎で、明治28年に福井県大野郡5ケ付から現在の上磯郡知内に入ったんです。知内では土地がなかったので、河西支庁へ土地の申請したのが明治29年、そして家族とともに明治30年の4月、現在の途別小学校付近に入ったんです。払下げの土地は10町歩で葦原です。暗くて草がボウボウの所だったね。私の記憶では4、5歳の時でも、まだ途別は草ボウボウで、畑がどこにあるのかわからなかった。
  本当に昔は原生林ばかりで、太陽さんが見えないぐらいだった。昼間でも薄暗く、父なんか札内や帯広へ行った時は、暗くならないうちに帰ってきたものです。
  途別小学校付近にいた時は、3間に5間の家だったわ。今思えば本当にボロ家だったね。土間にはイナキビ殻を敷いて、そのうえにムシロをのせて、歩くとイナキビ殻がガサッガサッと家中に音がする。そして炉を切って煮炊きもしたが、よく火事にならなかったもんだ。昔は、みんなが一緒に苦労するもんだから、そう苦労したとは思わなかったね。

入植農家の内部

入植農家の内部(今福数平家)