幕別町史 概要

役場所在地北海道中川郡幕別町本町130番地
郵便番号089−0692
電話番号(0155)54−2111
FAX(0155)54−3727
ホームページhttp://www.makubetsu.jp/
Eメールyakuba@makubetsu.jp
市町村コード番号01643 8

位置

幕別町の位置

幕別町の位置



幕別町は中川郡に属し、十勝の中央部よりやや南部にあり、正確には東経143度25分から143度3分、北緯42度34分から42度57分に位置している。北及び北東は十勝川の流れを境にして音更町、池田町に、東は豊頃町、西は帯広市、南は忠類村、更別村に、それぞれ接した東西18km、南北36kmと南北に長く、340.46平方mの面積を有している。

幕別町を含めた十勝平野は、石狩平野に次ぐ北海道第二の平野である。この十勝平野の中央を北西より南東に十勝川が流れ、太平洋に注いでいる。十勝の地勢は中央を流れる十勝川に向かって船底形に低下し、全体として新第3紀層からなる台地性丘陵地と沖積層からなる広漠たる平野の連続が主体となっている。また、十勝平野は西と北の二面は山脈に囲まれ、南と東は太平洋に望んでいる。

地名の由来

幕別はアイヌ語の「マクウンベツ」が転訛したもので「山際を流れる川」または「後ろの川」とも訳される。

先住民族

蝦夷

古代の奥羽から北海道にかけて住み、言語や風俗を異にして朝廷に服従しなかった人々を蝦夷といった。蝦夷をアイヌとする説もあるが、アイヌのように別の人種ではなく、狩猟・漁撈の段階であった日本人とする説もある。また、わが国及び中国の歴史が伝えるところによると、北海道の先住民族はエミシ、エビス、カイ又はエゾと呼ばれ、「蝦夷」「毛人」の字が当てはめられていた。

蝦夷ケ島の蝦夷のことを具体的に記した最も古い記述は、長野県の諏訪大社に伝わる「諏訪大明神絵詞」(すわだいみょうじんえことば)だといわれている。足利尊氏の祐筆であり、同社の神官であった小坂円忠が、紛失した絵詞を延文元年(1356年)に再製して同社に納めた。

これには、「蝦夷ケ島には日の本・唐子・渡党の三派があり、日の本・唐子の二派は外国に連なり、形夜叉の如く変化無窮なり。人倫、禽獣魚肉等を食とし、五穀の農科を知らず、九訳を重ぬるとも語話を通じ難し。渡党は和国の人に相類せり。但、髪多くして遍身に毛生ぜり。言語俚野なりと雖も大半は相通ず。」と述べている。この中に

 公超霧ヲナス術ヲ伝へ、公遠隠形ノ道ヲ得タル類モアリ、戦場二望ム時ハ丈夫ハ甲胃弓矢ヲ帯シテ前陣二進ミ、婦人ハ後塵に随ヒテ、木ヲ削リテ幣帛ノ如クニシテ、天二向テ誦呪ノ体アリ、男女共二山壁ヲ経過スト云ドモ乗馬ヲ用ズ、其身ノ軽キ事飛鳥走獣に同ジ。彼等ガ用ル所ノ箭ハ遺骨ヲ鏃トシテ毒薬ヲヌリ、纔二皮膚二触レバ其人斃セズト云事ナシ。

とあり、毒矢のことなどから、これはアイヌ民族のことである。

アイヌとは北海道を中心に本州北部、樺太島南部及び千島列島を本拠としていた民族。アイヌとは彼等自身の言葉で「人間」という意味。和人からは「蝦夷」、北方民族からは「クギ」、「クーイ」、「クル」などと呼ばれていた。明治以後、蝦夷という称呼は廃止され、和人と区別が必要な時は「旧土人」と呼ぶことになった。また、毛髪が濃く限に特徴があるため一人種と考えられるが、何系の人種に属するか人類学者間にも相違があって、単一人種であるか否かは決定されていない。彼等はアジア東北森林地帯を放浪した後、北海道に落ち着き、独特の文化を育てて民族となったものと思われ、その時期は北海道考古学年代の擦文士器時代と推定されている。

アイヌの人々

アイヌはごく原始的な農業は知っていたが、ほとんどは魚猟などの自然物採取に依存し、魚猟法も道具よりも熟練に依存し、貯蔵法も乾燥以外には知らなかったから、その生活は全く自然に左右されていた。したがって、獲物が豊富なところには多くの人家が集まった。

アイヌは、どちらかというと血縁で結ばれる小さな部落をつくり、それぞれ酋長に率いられていた。普通は数戸の家の群であるが、一戸でも人家のある所を「コタン」と称した。このコタン以外に郡や県に相当する言葉はない。人口が増えると分裂して小部落をつくった。

村の基本的な形は、丘陵を濠や土塁で補強し、周囲に砦や棚を立て、見張櫓などで防備した「チャシ」に守られたポロチセ(またはオンネチセともいう特に大きく造られた家)を中心に集っているのが普通であったが、和人の支配が強くなるにつれ、チャシを捨てて魚猟の豊富な、若しくは交易に便利な地に移動し、明治以後は普通の農村と変わらない風景となった。

「チャシ」とはアイヌ語で「吾が作れるもの」の意味。総てのチャシがアイヌの砦であったとはいえないが、事変があると人々を集めるために、声が届く範囲に小チャシ又は見張所が設けられていた。チャシは酋長の屋敷、平時の際の集会場的な役割ももっていた。

十勝を代表するチャシは大津の十勝川口に近い「タプコライ」と芽室の「シプサラ」の二か所。口碑によると、タプコライのチャシとシプサラのチャシ、それに幕別のサルベツのチャシは同一族で占拠していたという。このサルべツのチャシは、昭和10年11月10日、金比羅山の名称で、幕別村の「史蹟名勝」として登録されている。

アイヌの衣服は、初め獣皮を主とし、その他鳥毛衣(ラブリ)、魚皮衣(アクミ、カブリ)、草衣(ケラ)を、交易によって他人種の衣服を着用した。山旦交易によってもたらされた蝦夷錦は有名。蝦夷錦は紺や黄の地布に金糸、銀糸を用いて竜、青海波、七宝などが刺繍され、アイヌは重要な宗教儀礼の際これを着た。

オヒョウやアカタモの木皮から繊維をとってアツシを織り、イラクサの繊維から敷物(イタラッペ)を織ったのは、かなり後のことになるが、これは和人に学んだものとみられている。衣服の着方は左衽。靴(ケリ)は鮭や鹿の皮によって作られた。

アイヌの住宅(チセ)

アイヌの住宅(チセ)

食物は魚獣の肉を主とし、山野に自生する草類、果実などを食した。肉類は生で食べる場合もあるが、多くの場合は焼いて食べた。アイヌ民族は自然の幸を求めて移動し、大雪その他の自然的災害で餓死する者もいたという。

文字を持たない民族のため、アイヌの人口は和人の記録に頼る以外にない。文明3年(1471年)の飢饉、寛永元年(1624年)、万治元年(1658年)、元禄11年(169人年)の疱瘡、同15年(1702年)の暴風などが原因で、十勝のアイヌは100分の6に大激減したという。また、早くから和人が入地していた道南では結核が大流行し、多くのアイヌが死亡したという。

文化3年(1806年)に書かれた『東蝦夷地紀行』に

トカチ川、東方第一の大川なり (中略)昔エゾ5000人余住居しに、1年飢饉することありて餓死多く、夫より年を径て漸に数を増し今は300人許有とぞ、飢饉前は鹿夥しく在てエゾの食料となし、皮は酒煙草杯と交易せしが、多くある故エゾ是を粗末にし鹿の皮を生剥せし者ありしかば明神是を怒り給いて鹿を絶し給いし、依って喰物乏しく餓死するに及べりとぞ。(後略)

文化6年(1809年)十勝に住んでいたアイヌは254戸・1037人、46年後の安政2年(1855年)には31集落、266戸・1321人と僅かに増加した。31集落のうち浜方面(広尾、十勝の2郡)は8集落。山方面(中川、河西、河東、上川の4郡)には23の集落があった。だが、浜方面の1集落平均戸数は山方面の約倍の13.25戸、人口も山方面1集落平均35.30人に対し浜方面は63・62人と多かった。

明治になっての記録では、明治4年(1871年)の十勝国4郡(十勝、中川、河東、上川)は191戸・987人。明治22年の十勝国7郡(広尾、当縁、十勝、中川、河西、河東、上川)は348戸・1528人。大正5年(1916年)は481戸・1655人という数字が残されている。文化6年から大正5年までの107年間に戸数で227、人口で621人増えているが、その伸び率は低い。

入植者の経緯

鹿皮産額十万枚

十勝内陸に和人が住むようになったのは比較的遅く、明治13年ころからである。十勝場所請負人の杉浦嘉七は明治3年正月に十勝場所を国に返上し、明治8年8月には「漁場持」も返上した。この明治8年に杉浦の支配人・若松忠次郎が中心となって「十勝国旧土人組合」を設立した。

十勝国旧土人組合は明治13年に解散したが、この間、十勝国には組合員以外は居住することができなかった。一種の鎖国である。「北海道殖民状況報文」は「同8年十勝組合ノ組織卜共ニ「アイヌ」モ皆其組合員トナリ魚猟共ニ組合ノ規約ニ従フ同13年該組合ヲ解散シ和人ノ自由ニ入リ得ルニ至リ」と述べている。和人の出入りが自由になった明治13年から鹿猟の最盛期となった。数百人の猟夫、商人が十勝に入り、このため「和人ノ足跡ヲ印セサルハナク」の状態となり「鹿皮産額10万枚、生角2万斤、落角8万斤」と記録されている。

明治15年春の大雪に足をとられた鹿が大量に死んだ。融雪期には鹿の腐蝕体で川の水が朱に染まったという。鹿のいなくなった十勝から猟夫、商人が去り、一部の者が残って農業に従事するようになった。止若村に居住した永井三治、幕別に土地を持った三浦等六らは鹿を求めて十勝に入ったといわれている。

細谷十太夫直英

記録のうえで幕別に住んだ最初の和人は、明治15年の細谷十太夫直英である。酒井章太郎の『十勝史』では(止若は旧土人語なり「ヤムワツカ」(清水の湧くと云ふ意義)と云ふ土人の一小部落なりし明治15年宮城県人細谷直英氏(現今居住せず)武山土平氏(現今土平氏死去、相続人武山松三郎氏猿別原野に居住)等移住農業に従事せり)と述べている。細谷は明治20年ころ利別村に住んでいたとも言われている。大正8年5月発行の『幕別村誌』には

(前略)越えて21年、釧路郡役所は函館の人、江政敏なるものに土人の農業指導監督を委托したるを以て、更に細谷直英を派し代りて之に当らしめしが、同24年の頃より其委托を解き、釧路郡役所に於て直接指導監督するに至れり。(後略)
と書かれている。

細谷は天保11年(1840年)生まれの仙台藩士。50石取りの大番士であった。細谷は元来が仙台藩の隠密であり、表面に出ることはなかった。

細谷は明治3年正月、日高国沙流(現日高支庁平取町)に移住し開墾に従事したが成功せず、友人と岩内で製塩場を作ったが失敗し、明治5年、開拓使に入り開拓権少主典に任官した。

出家した晩年の細谷十太夫

出家した晩年の細谷十太夫

細谷十太夫の上着

細谷十太夫の上着
(カラスの図柄に三本の足がある)

永井三治

永井三治

明治22年、宮城県人、永井三治は現在の池田町利別から止若に移り住み開拓に従事した。開拓に従事した記録では最も古い。「北海道殖民状況報文」では「永井三治凋寒村ヨリ転住ス」と述べている。 三治は明治26年に止若郵便局を設け初代局長となった。

永井三治は文政6年(1823年)宮城県黒川郡宮床(現・大和町宮床)で生まれた。父は宮床藩家老・永井潤太夫武利、三治は、その長男。藩主・伊達六郎の名前を半分もらい、永井三良左衛門源武信と名付けられた。宮床藩は、明治新政府に反対して戦いに敗れ領土は没収された。大政官は明治2年巳7月22日付で「今後諸藩士族並庶民ニ至迄志願次第申出侯ハゝ、相応之地処割渡開拓被仰付候事」と蝦夷地開拓について開拓使に通知している。

藩主・伊達六郎は蝦夷地開拓を決意し、開拓地として許可された狩大の地の調査を三良左衛門に命じた。三良左衛門は数人の部下とともに渡道して調査したが、入植できる場所ではないと見切りをつけ、帰りに藩主から預った金で魚を買いつけたが売さばきに失敗、藩主にあわせる顔がないと単身、日高に走った。いつ、三治と改名したか不明。(永井勝次郎談)

永井三治の戸籍上の名前は「幸太郎」。妻「みき」は渡道前に死亡している。三治に子供が3人いた。長男嘉七は露西亜で行方不明となっている。二男弥平の消息も不明。三男が雅治である。三治は日高から十勝に入ったのは明治14、5年ころ。はじめ利別太に住み、止若村に入植したのは22年。高齢(66歳)のため農業経営は雅治によってすすめられた。土地の貸付は明治25年11月と28年11月の2回にわたって許可になっている。箕浦正市が入地した相川の土地は「永井の開墾畑」といわれていたという。現在は栗飯原正が、かつての永井の開墾畑で農業を営んでいる。

三治は明治26年に武山市街に郵便局を開設した。この郵便局は32年に凋寒村に移転した。三治が利別の地で死亡したのは明治40年1月22日。雅治の次男は代議士になった永井勝次郎で、勝次郎の生まれは池田町利別。