幕別町史 交通・観光

交通

囚徒を道路開鑿に使役

アイヌが道案内

安政5年(1858年)、松浦武四郎はアイヌを道案内人に雇い十勝内陸に入った。この時、幕別の地にも足を踏み入れている。当時は1本の道路もなく、また巨木が密生していて、アイヌの道案内なしには目的の地に着くことは困難であった。アイヌ民族は、道路がないということを、さほど苦にもせず、遠く上川、日高方面に野宿を重ねて旅をすることも珍しくなかったという。

幕別の地は、この地方のアイヌ民族にとって交通の要所に当たっていた。十勝川を利用して大津、釧路方面に出かける川舟の中継所として、また、広尾、日高方面に向うには、現在の道道幕別大樹線が最も近道であった。国鉄広尾線が開通以前、広尾、日高方面に出かけるには、まず止若停車場に降り立ち、道道幕別大樹線の前身である「糠内道路」を歩いて目的地に向った。

明治14年9月から12月にかけて、内田瀞田内捨六が十勝内陸の踏査を行った。内田、田内は、その報告書に「如何セン、内部ハ僅カニ十勝川ノ水運卜土人ノ足跡ナル小径二過ギザレバ、中央道路ノ全通ハ目下ノ急務ニシテ…」と、北部十勝から釧路国淕別に結ぶ中央道路と三本の支道を設ける案をたてた。三支道のうちの一本は幕別にも関係があった。すなわち、帯広から札内、猿別の両原野を貫通して歴舟にいたり、海岸幹線道路に至る約16里の支道がそれで、この案は実現しなかった。

囚徒ヲ従事セシメントス

北海道で囚人を労働力として使い始めたのは古く、これが本格化したのは明治30年代である。樺戸集治監の創設者である月形潔(つきがた・きよし)は、伊藤参議(博文)の命で明治18年7月から9月にかけて北海道三県巡視中の太政官大書記官金子堅太郎に、囚人を使うことを提案した。金子は 「北海道三県巡視復命書」の中で、道路開鑿について次のように述べている。

集治監ノ囚徒ヲ道路開鑿ノ事業二使役スル事
 道路線既二定マリ、測量完ク成り、開墾費用ノ予算編成ヲ告グルニ至ラバ、速カニ之レニ着手スルヲ要ス。今此開鑿二着手スルニ方リ、線路中、或ハ10数里ノ密林ヲ伐採セザルベカラザルモノアリ。或ハ険岨ノ山嶺ヲ平坦ナラシメザルベカラザルモノアリ。或ハ、谷地ノ排水セザルベカラザルモノアラン。然ルニ、此等困難ノ役二充ルニ通常ノ工夫ヲ用ヰバ、一ハ其労役二堪へザルト、一ハ賃銭ノ割合非常二高キトノ情況アルガ故ニ、札幌及ビ根室二県下二在ル集治監ノ囚徒ヲシテ之レニ従事セシメントス。彼等ハ、固ヨリ暴戻(ぼうれい)の悪徒ナレバ、其苦役二堪へズ斃死スルモ、尋常ノ工夫ガ妻子ヲ遺シテ骨ヲ山野二埋ムルノ惨状卜異ナリ、又今日ノ如ク、重罪犯人多クシテ、徒ラニ国庫支出ノ監獄費ヲ増加スルノ際ナレバ、囚徒ヲシテ、是等必要ノ工事二服従セシメ、若シ之ニ堪へズ斃レ死シテ、其人員ヲ減少スルハ、監獄費支出ノ困難ヲ告グル今日二於テ、萬己ムヲ得ザル政略ナリ。又尋常ノ工夫ヲ使役スルト、囚徒ヲ使役スルト、其賃銭ノ比較ヲ挙レバ、北海道二於テ、尋常ノ工夫ハ、概シテ一日ノ賃銭四拾銭ヨリ下ラズ。囚徒ハ、僅二一日金拾八銭ノ賃銭ヲ得ルモノナリ。然ラバ則チ、囚徒ヲ使役スルトキニハ、此開築費用中、工夫ノ賃銭二於テ、過半数以上ノ減額ヲ見ルナラン。是レ実ニ、一挙両全ノ策卜云フベキナリ。(後略)

金子は、北海道の土地は湿地が多いので、道路を開くと同時に排水路の開鑿も囚徒にやらすべきである、と述べている。囚人が、どのように取り扱われたかは、この復命書から想像できると思う。仮定県道南北線、通称「大津道路」に就労した囚人たちも例外とはならなかった。

大津道路

明治25年に開さくされた大津街道(三の小屋・現在の新川付近)

明治25年に開さくされた大津街道
(三の小屋・現在の新川付近)

かつての大津道路(止若・札内間)

かつての大津道路
(止若・札内間)

明治21年、北海道庁では植民地撰定のため、まず道路の測量を行い、次いで大津、帯広間の仮道を開いた。この仮道は、あくまでも仮りの道路で、極端にいうと、測量の際に邪魔になる木を切り倒し、形ばかりの土盛りをしたに過ぎず、人馬が、かろうじて通ることができる程度で、夏は生い茂る草にかくれ、ひと雨降れば流れ、まともには物資の輸送の用にはならなかった。

北海道庁では、直ちに道路を建設する計画であったが、予算の都合で着手できず、北海道集治監との間で随意契約を結び、工事に着手したのは明治25年のことである。この道路は「仮定県道南北線」といい、またの名を大津道路といった。工事に大量の囚人を投入したところから「囚人道路」とも呼ばれた。

 明治25年、大津から藻岩・猿別・別奴・帯広・芽室を経由して新得に至る道路工事が、総工費2万7000円で始められた。工事には熊牛村標茶の北海道集治監釧路分監外役所の囚人700余名が動員され、看守長2人、看守70人に督励されて進められた。この工事中、多くの囚人が倒れ、十勝発展の人柱となった。工事は翌26年5月、全予算を消費したという理由で、芽室川高台で工事を打ち切った。この道路は、別項で述べたように「左右ノ密林ヲ穿チテ所謂トンネルヲ造レルガ如キ道路」であった。

この道路は、のち「仮定県道南北線」となったが、人々は最後まで長年親しんできた「大津道路」で通した。大津道路は、十勝の開発に重要な役割を果したが、その後に開鑿された4線道路(現在の国道38号線)に押され、昭和14年12月23日、止若・札内間が町道に格下げとなった。

大津街道の名をとどめる名札

大津街道の名をとどめる名札

4線道路

大津道路の開通によって、川舟から猿別に陸揚げされた物資は、馬によって帯広方面に運ばれた。陸路及び水路の中継地となった猿別市街は賑わいをみせた。しかし、明治31年に開整された4線道路によって、物資、人馬の流れが大きく変った。すなわち、武山市街・札内間の4線道路の開通によって、武山市街から止若市街予定地を通って猿別市街(大津道路)に入るという区間が短縮された。

明治31年に着手、この年の末に開通した4線道路は、帯広・大津間道路のうち札内から分岐し南4線を通り武山市街に至る道路で、のち北見、網走に通ずる主要な路線となった。武山市街に陸揚げされた物資は、直ちに帯広方面に輸送できることから、陸揚げされる物資は増加し、これを保管する倉庫も建てられた。また、四線20号から猿別市街までの道路が開通したのは明治34年。この道路は咾別方面と戸長役場所在地の猿別市街を結び、住民の不便が解消された。6線20号から止若市街予定地に向け開鑿されたのは明治38年。翌39年に最初の止若橋が架設された。橋から勝山医院の裏を通り旧役場前に出る坂は急であった。

移住者の苦労

明治13年、幕別は大津村の管轄下となり、以後、しだいに移住者が増加した。移住者は大津または広尾、釧路に上陸し、鹿やアイヌが踏み固めた道を通り、当時、無数にあった川を渡って目的地に向った。

千住の脇坂キクエは、夫の佐吉とともに大津に上陸、藻岩(今の豊頃町茂岩)を通り咾別に着くまで、それこそ死ぬような苦しみを味わったという。脇坂が入植したのは明治33年の春である。明治31年に糠内原野に入植した橋本弥市郎は、入植地に着くまでの苦労を次のように語っている。

大津から藻岩を経由して帯広までは、不完全ながら道路もあり、運輸には駄馬、冬季間は橇、十勝川には丸木舟もあり、移住者も大津から帯広までの間はどうにか通行できた。だが、猿別旧市街以南は道路どころか人跡未踏、鬱蒼たる樹海は斧鉞を知らず、イバラの密生した林をかきわけ腰まで水にひたりながら4里を4日間もかかった。荷物は道路が無いため駄馬も利用できず、水利の悪い猿別川に小舟を浮べ、家具や食糧を積み、舳に綱をつけ、吉田平一郎、吉田要蔵とともに川べり伝いに遡行した。1人が綱を引き、他の2人は通行をさまたげる木を倒し、あるいは流木を片づけては進んだ。夕方には河原で炊さんをして、石や木を枕にして横になったが眠ることもできずに、どうやら4日目に目的地に着いた。

このように、脇坂、橋本ら五位団体の苦労は、道路の無い、あっても道路とは名ばかりであった時代の入植者に共通する苦しみであった。

村費負担道路

戸長役場時代の資料は、残念ながら残されていない。僅かに残っている書類から、明治31年の総予算は3663円であったことを知った。うち土木費は20円であった。

明治40年3月、修繕費を計上した道路は4線道路、糠内道路と武山市街・似平間(約8里)など4本の里道で計100円、のち補正したので決算額は267円となった。翌41年350円、42年526円と増えた、43年は175円と減少したが、前年の水害復旧のため臨時部で773円98銭を支出している。

明治44年12月、凋寒村長となった幕別の初代村長・松宮直次郎は、「事務引継書」のなかで「本村々費負担ニ係ル里道ハ通計15里余ノ延長ヨリ毎年相当ノ経費ヲ投ジルモ概シテ悪路ナリ。其内本年度ノ水害ニ依り多大ノ損傷ヲ受ケ急速之レカ復旧ヲナササレバ消雪ノ侯人馬交通ヲ絶ツニ至ル」と述べている。修繕を要する道路とは次の3本であった。

 サルベツ原野道路字コボレ坂下防風林中ノ道路約50間
 止若原野中字3ノ小屋ヨリ凋寒ニ通スル里道中延長150間
 トベツ原野別奴道路中温泉附近150間

糠内道路

村では修繕費の増加から、その対策として、主要道路の昇格運動を行った。村長・松宮直次郎は、明治44年12月の「事務引継書」で「里道ヲ仮定県道ニ編入ヲ希望スルノ件」として次のように述べている。

大字止若村字武山市街ヨリ止若市街ヲ貫キ似平駅ニ至ル8里間ノ里道ハ村費負担ノ道路ニシテ毎年之レカ修繕ニ村費ヲ注入スルコト七八百円ヲ下ルコトナク、永年此負担ハ村費ノ能ク堪ユル処ニアラス。翻テ此里道ノ利用ニヨリ見ルトキハ、本道路ハ広尾郡卜止若停車場トノ連絡線ニシテ、実二其応用ノ頻繁ナル県道以上ニアルヲ以テ、之レヲ県道ニ編入セラレンコトヲ請願スルコト一再二止マラス。北海道会モ亦、之レヲ以テ道庁長官二建議スルコト再三二至ルモ、今日猶依然トシテ編入替へモ実行セラレス、村費経営上ノ不利多大ナリ。今後、以上ノ要請ヲ続行シ、速ニ之レヲ仮定県道ニ編入スルカ、将夕本道15個年計営ニ基ク改修工事ヲ施行セラルゝコトニ尽力アランコトヲ求ム。

糠内道路が開鑿されたのは明治32年。翌33年には糠内零号まで延びた。しかし、この道路も道路とは名のみ、形ばかりの土盛りをし、沢や谷にぶつかると山麓まで迂回した。明治35年には中糠内を経由して下似平零号まで。40年には奥糠内へ1里、41年に糠内から上糠内を経て奥糠内まで開通した。これら道路は、原野から原野へと入地する移住者の便宜をはかり開鑿したため、何れもコマ切れ的な工事であった。

道道幕別大樹線の前身

歴代の村長に引き継がれた糠内道路の昇格運動は困難を極めた。しかし、毎年多額な村費を支出している窮状は認められた。大正11年に測量を行い、12年4月早々から大々的な改修工事が実施された。この工事に投入された地方費は6万円を超えた。工事の内容は不明。大正12年の「事務報告書」では「本村多年懸案ナリシ糠内道路ノ改修ハ莫大ナル地方費ヲ以テ当年ニ至り、漸ク其ノ竣工ヲ見タルハ各位卜共ニ洵ニ慶賀ニ堪へザルナリ」と喜びを表わしている。

拡幅前の幕別大樹線

拡幅前の幕別大樹線

熱心な運動が稔って「準地方費道編入」を道会では採択したのは昭和2年。内務省から認められたのは翌3年4月のことである。昭和3年は開村以来30年になり、建築を進めていた役場庁舎も完成をみたため、11月3日に「開村30年記念式、役場庁舎落成、地方費道編入祝賀会」を開催した。

地方費による昭和2年の工事は止若、糠内間、昭和3年には糠内、奥糠内間の改修を行い、昭和4年には奥糠内、忠類間の工事を実施した。幕別村会で準地方費道のうち、止若、糠内間の拡幅を道に請願することを可決したのは昭和4年4月8日の村会。北海道庁に陳情する委員を吉田太吉小野民平加藤唯蔵笹島喜八郎の4人に決めた。請願の内容は次のとおりである。

止若広尾線準地方費道中、止若・糠内間ハ未ダ村道所属中国費ヲ以テ改良工事施行セラレシ処。其後、止若、大樹間ヲ準地方費道ニ編入セラレ昨年既ニ糠内、奥糠内ニ改良工事ヲ加へラレ更ニ大樹迄ノ完成ヲ見ルコト近々中ニアリト聞ク。而シテ昨年施行ノ糠内以南ハ其幅員5メートルニシテ糠内以北ハ旧様式ニ依ル12尺ナリ。然ルニ道路ノ利用ハ止若ノ市街ニ近キ即チ糠内以北ニ多ク、且ツ此間ハ定期自動車ノ運転アリテ路面ノ狭隘ヲ感シ之ニ原因スル故障相次テ起り、殊ニ秋季雑穀搬出ノ時期ニ至ラバ其故障ノ頻発著シキモノアルニヨリ、之ヲ糠内以南同様5メートル幅、即チ6尺拡張方其筋ニ請願の必要アルモノトス。

止若、糠内聞道路の拡幅は昭和8年、9年の二か年継続事業で実施された。この間の暗渠、橋梁をコンクリート造りとしたのは昭和11年。主要道道幕別・大樹線となったのは昭和29年3月30日である。

止若市街の里道廃止

幕別跨線橋の昇りロから左、下水道処理場に向けて走る千代田通りは、かつて止若市街を斜に横断して猿別市街に至る猿別・武山市街道路線という重要な里道であった。この道路は止若市街が形成される以前に、猿別・利別間を結ぶ里道として開鑿された。明治37年に止若市街予定地を宅地割した際、斜に走る道路に関係なく東西南北に区画した。このため道路に面した宅地は三角形となり、ために市街の体裁は著しく損なわれた。里道廃止を請願する件を村会で可決したのは大正6年10月12日。里道廃止請願から廃道敷地売却許可まで7年の歳月がかかった。

廃道敷地のうち宅地に区画したのは27筆4反9畝22歩。売却予定総価格は1万270円。9月20日に役場で競売した。大正13年中に売却し代金を徴収したのは18筆5785円80銭。「残地9筆2就テハ本年3月中売却進捗ノ見込ナリ」と予定していたが、総ての所有権移転登記が終わったのは昭和5年5月15日であった。

村内に無数の土橋があった

交通甚ダ不便

明治40年現在、幕別の主な橋梁は4線道路と武山市街を結ぶ「4線の橋」、同じく4線20号から6線を通って止若市衝に至る「止若橋」、大津道路の猿別川に架設された「猿別橋」の3橋であった。このほか、小さな流れに架けた土橋は無数にあった。昭和40年現在、町内には102の橋梁があった。うち国で管理するもの5橋、北海道で管理するもの30橋、町で維持管理するものは67橋であったが、その後、小さな流れに架設されていた橋はヒューム管にかわって姿を消し、かわって土地改良などで出来た流れに橋が架設されたため、町で維持管理する橋梁は増えている。明治44年、幕別の初代村長・松宮直次郎は、凋寒村へ転任にあたつて、「事務引継ぎ書」に次のように書いた。

十勝川筋咾別原野南2線東23号ハ元来河岸地低位二在り明治42年以来数度ノ洪水卜対岸蝶多村堤防改修ノ為メ其反動ヲ受ケ河水横溢従来ノ畑地内二巨大ノ支流ヲ生ジ、サルベツ川二連絡ヲナシタルカ為メ村有地其他民有畑地百町歩余ハ全ク中嶋卜変シ耕作者及住民ノ不便卜危険ハ名状スヘカラス、故ヲ以て喋多堤防改修ノ反動救済策ヲ第二トシ先ツ以テ之レカ交通連絡の対策ヲ急務トナスヲ以テ本年度土木費ノ内ヲ節約シ村費ヲ以テ仮橋若クワ渡船設備ノ応急処置ヲナスへキ見込ナリシモ未夕設計着手二至ラサルヲ以テ爾後二於テ相当施設ヲ望ム。
 サルベツ原野サルベツ川西岸道路ハ去る四十年国費ヲ以テ開鑿セラレタルモ該道路中サルべツ原野北六号ニ於テサルベツ川横断スル個所二渡船式或ハ橋梁ノ架設ナク住民ノ交通ヲ便セントシテ新開セラレタル道路ナルニ以上ノ連絡機関ナキノ故ヲ以テ交通甚夕不便ニシテ自然廃道二帰セントスル有様ナルモ、コレ迄毎年之レカ設備方ヲ請願スト雖トモ今二至ルモ採納セラレス交通ノ不便尠小ニアラス今後猶其筋二要請ヲ続行シ其目的ヲ完徹セラレンコトヲ望ム。

現在の下水道処理場の近くに、4線道路と武山市街を結ぶ「4線の橋」があった。架橋年代は不明だが、4線道路が開鑿されたのは明治31年であるので、そのころに架橋したようだ。木製の橋脚の一部が昭和30年ころまであった。武山市街の賑わいは、間もなく止若市街に移り、4線橋の利用価値が少なくなり、大水で流されたあとは、うち捨てられたようだ。この場所に武山市街渡船場があった。

止若橋

架設中の最初の止若橋(明治39年)

架設中の最初の止若橋(明治39年)

明治38年、4線20号と猿別市街間道路の6線から分岐した道路は止若市街に向けて開鑿された。翌39年に猿別川(当時は、まくべつ川)に止若橋を架設した。場所は現橋のやや上流、勝山医院横の急な坂道をおりた所にあった。急な坂道は人、自転車馬車乗合自動車の難所であった。停車場の開業で急速に発展した止若市街、つれて止若橋の交通量も増加した。木橋のため傷みが激しく、修理しても、すぐ穴があいた。また、猿別川が増水すると、橋上を増水した水が流れる風景は、さほど珍しいことではなかった。

この止若橋の架け替えは、昭和12年に施行され、翌13年2月に木橋では最後の渡橋式を実施した。永久橋架け替え工事については昭和30年まで待たねばならなかった。

頻ぱんに壊れた止若橋

頻ぱんに壊れた止若橋

止若橋(木橋)最後の渡橋式(昭和13年2月)

止若橋(木橋)最後の渡橋式(昭和13年2月)

猿別橋

猿別橋渡橋式(大正8年2月)

猿別橋渡橋式(大正8年2月)

猿別橋の架設は幕別で最も古い。しかし、架設された年代は不明である。明治31年、別奴村に入植した早川政治郎は「猿別橋は囚人によって架設された」といい、村役場に勤務したことのある糸瀬一一も、これを認めている。

止若市街の発展、4線道路の整備と交通量の増加から「仮定県道南北線」と言われた大津道路のうち、止若、札内間の交通量は年々減少した。だが、大正8年12月竣工の写真が残っており、止若橋の項で述べたように、昭和6年に猿別橋の架け替えを請願する件を村会で可決している。止若橋の架け替え陳情は昭和11年にも行われたが、この陳情書に猿別橋の字句はない。昭和7、8年ころに架け替えられた模様である。

止若、札内間が村道に格下げとなったのは昭和14年12月23日。猿別橋も村が維持管理する橋梁となった。木橋の猿別橋を永久橋に架け替えたのは昭和36年。この年の9月2日に起工し、翌37年12月10日に完成した。総工費は4408万9000円であった。

昭和43年3月、道道幕別大樹線と町道幕別札内線の交差点から 西猿別、新和を経て明倫に抜ける線が道道に昇格し、道道明倫幕別停車場線となった。同時に猿別格は北海道の管理する橋梁となった。その後、鉄道工事の関係から、道では猿別川に斜に架設されている猿別橋を川と直角に架け替えることになり、通称、古市坂(猿別の坂)の南側に道路を新設し、橋の架け替え工事を行った。新しい猿別橋は昭和45年に下部工事を行い、翌46年に完成した。

木橋時代の厳橋

木橋時代の厳橋

巌橋

明治30年代の終わりから40年代の初めにかけて、糠内地区の開墾を終えた人々は、西糠内の沃野を目の前にしながら、ただ腕をこまねくばかりであった。苦労して架設した土橋も、少し水が出ればたちまち流されてしまった。糠内地区選出の村会議員・角田耕太郎らが、橋梁の架設を村に働きかけ、村では北海道庁に請願した。この猿別川架橋が、道会議員・岩永右八の尽力により拓殖費で着工することが決定をみた。岩永右八はこれの着工を見ることなく明治44年5月に急死した。猿別川架橋が完成したのは大正5年5月のことである。猿別川架橋の完成で西糠内地区の開発は急速に進んだ。猿別川架橋は、のち厳橋と命名された。

厳橋は、その後数度にわたって改修された。昭和27年に架設された木橋が老朽化したため、昭和38年7月15日に、総事業費3060万円で永久橋架け替え工事に着手した。完成したのは翌39年7月7日。渡橋式を8月7日に開催した。

千代田大橋

千代田大橋の渡橋式

千代田大橋の渡橋式

開拓の時代から、幕別から池田方面に抜けるには人も馬も十勝川渡船の世話にならなければならなかった。この十勝川渡船場は俗に「八木沼(やぎぬま)渡し」と言った。十勝川の渡船場は国で運営していたことと、人馬が渡るのに左程問題もなかったためか、幕別と池田を結ぶ架橋計画が持ち上がったのは比較的遅く昭和11年のことである。架橋にかわる船橋の計画がなされたが、その内容は不明である。幕別村では昭和13年、14年にも架橋請願書を北海道庁長官に提出している。

その後、戦局の拡大から橋梁の架設は沙汰止みとなった。架設要望が再燃したのは昭和22年。この年の2月29日の町議会で、十勝川渡船に国費で橋梁を架設する陳情を採択した。翌23年、池田町と橋梁架設促進期成会を結成し、会長に中島国男、副会長に新津秀が就任し「昭和23年度中に自動車運行に支障なき程度の橋梁を架設せられたい」と陳情した。

総工費1億5000万円で架橋工事に着手したのは昭和25年9月。4年後の昭和29年の夏に、橋長206メートル、幅員6メートルの永久橋が完成し「千代田大橋」と命名した。竣工渡橋式には幕別、池田の両町民約1万人が参加して9月18日に実施した。

札内橋

札内橋は、初め「栗山橋」といい、明治31年に栗山常次郎が私設の有料橋を架設した。札内川に架橋の話がでたのは明治29年。栗山常次郎の記録に次のように記されている。

明治29年6月12日付ヲ以テ釧路郡長桐野利秋ヲ経由道庁長官園田安賢殿へ出願シ、明治30年8月25日、許可 
 指令下附、同31年1月14日命令書ニ依り起工、同年4月15日竣工、栗山橋卜命名セリ

この年、大洪水があり栗山橋も流されたが翌年再建し、同年4月に完成した。人は片道1銭、馬は2銭であった。料金の持ち合わせがない者は浅いところを選んで渡ったという。その後も大水の度に改修したが、許可期限の明治39年12月31日に寄付を申請、翌40年4月20日付で寄付採納となり、官設の「栗山橋」となった。

旧札内橋

旧札内橋

大正10年、架け替え工事が行われた。場所は現札内橋の下流約700メートルの地点で「札内2線北通り」は栗山橋や旧札内橋が接続していた町道である。架け替えは、流れの急な部分は、木筋コンクリート・ポニートラス、他は木造。上部の木工部分は別奴村の角田平一郎が請負った。完成したのは翌11年5月25日。この年に「札内橋」と改称した。

交通量の増加などから北海道開発局が永久橋架け替え工事に着手したのは昭和31年3月31目。場所は上流約700メートルの現在地。工事費は2億3700万円。

架け替え工事と同時に、札内及び帯広市側の取付け道路工事を行い、橋長435.6メートル、幅員7メートルの新橋が完成したのは昭和32年10月25日。11月7日に開通式、11月24日に帯広小学校を会場に落成式を開催した。

通過車両の増加、帯広方面への通勤者のマイカーなどが複合して、2車線の札内橋付近は慢性的な渋滞が続いた。これの打開策として、現橋に添って2車線橋を新設することになり、昭和55年に着手、総ての工事が終わったのは昭和61年11月28日。札内橋の橋長は622.4メートルとなった。

十勝中央大橋

十勝中央大橋

十勝中央大橋

道が昭和72年度(平成9年度)完了を目標とした十勝中央地区広域農道整備事業(音更〜幕別〜帯広〜中札内を結ぶ延長46・5キロ)の主要施設、十勝中央大橋(仮称)の起工式を昭和57年10月9日に幕別町千住の現地で開催した。十勝川をまたぐ橋長772メートルのうち、中央径間250メートルは鋼材コンクリート併用の複合斜張橋。昭和63年秋に完成し、正式に「十勝中央大橋」と命名し、11月6日に開通式を行った。


川舟・渡船場・駅逓

村内に64隻の船があった

幕別に道路が1本もなかった頃、人々は川舟を唯一の交通手段として利用、アイヌの操る丸木舟で十勝川、猿別川を、または当時、無数にあった流れを渡った。

明治25年、大津、帯広間の道路、通称「大津道路」が開鑿された。この道路の開通によって、海路大津に上陸した移民は奥地に進んだ。この結果、多くの荷物を運ぶことのできる川舟は、以前にもまして繁昌をみた。当時、旅客、貨物のほとんどは大津で降船または荷降ろされ、十勝川を利用して奥地に運ばれたため、幕別は陸路、水路ともに中継地的役割を果たし、港を持たぬ幕別が、大きく発展する下地を形づくった。陸路の中継地は猿別市街、水路の中継地は、初め猿別市街であったが、のち武山市街に移った。猿別の勝円寺住職・古海公哉は、先代住職から現在の水門付近に舟つき場があったと聞いている。

明治31年当時、十勝川を50石積の船が大津、帯広間を上下していた。櫓、棹、曳綱による和船である。明治35年には30石積の船が猿別川にも入った。運賃は米1俵と味噌12貫、莚叭20枚6貫包が同額で、大津から武山市街まで16銭、猿別までは20銭であった。人間の場合は武山市街まで45銭、下りは運賃の取りきめはなく「適宜」となっていた。武山市街に降ろした物資は馬で帯広まで運んだため、帯広の物価は高かったという。明治39年当時、村内には50石積以下の船が6隻、丸木舟が58隻の計64隻の船があった。

明治31年に4線道路が開鑿されたため、武山市街に陸揚げされた物資のほとんどが、4線道路を通って奥地に運ばれるようになった。武山市街が最も賑わいをみせたのは、このころである。当時、十勝川は、大津から武山市街までの間は比較的流れはゆるかったが、武山市街から上流に難所があり、川舟の転覆は珍しくなかった。明治17年4月24日、晩成社幹部の鈴木銃太郎渡辺勝、それに水夫の4人が乗った川舟が難所で転覆した。この模様を「晩成社日誌」に次のように記されている。

銃太郎、勝大津ヨリノ帰途、野宿ヲ重ネ十勝川ヲ泝上シテヤムワッカビラ、イカンベツ間ニ至ル。コノ時逆流ニ樟ヲ折リ急流ノ為乗船顛覆破折ス。銃太郎、勝水夫2名溺レ、搭載ノ全穀皆流出シ4名ハ辛フジテ九死二一生ヲ得タリ。この時共ニ大津ヨリ輸送セル豚4頭、山羊2頭ヲ載セタル他ノ1舟ハ恙ナカリキ。

4線道路の開通によって武山市街に陸揚げされる物資は増え、これを保管する倉庫も建てられた。人々は「三上(みがみ)倉庫」と呼んでいた。関連は不明だが、明治40年の納税者に「三上貞次」という人物がいる。三上姓は貞次1人。41年の納税者名簿の中にはいない。当時の舟乗りとして定森長兵衛加藤弥一市原宇八小山茂作の名が残っている。小山は郷里の富山県下でも舟で物資を運ぶ仕事をしていた。のち下似平(美川)に入植し、忠類に転居した。定森長兵衛は幕別中学校長から教育長となった定森悦雄の父である。

武山市街の賑わいも、道路網の整備と停車場の開業によって次第に寂れ、かわって賑わいは止若市街に移った。

十勝川渡船場

開拓時代、止若・利別間の往来は、十勝川渡船の世話にならなければならなかった。この渡船場は明治20年ころ、永井三治が始め、のち武山土平が引き継いだという説と、武山土平が設置したという説がある。幕別神社境内に建立されている頒徳碑に「開墾ニ従事シ傍ラ土地探検者ノ為ニ自ラ利別村ニ通ズル十勝川ニ渡船場ヲ設ケテ諸人ノ往来ニ便ヲ与へタ」と武山土平が設置したと刻まれている。

明治31年、猿別・利別間の道路が開通したため、十勝川渡船はより重要性を増し、翌31年7月31日に「官設蝶多村十勝川渡船場」となり、武山松三郎が取扱人となった。大正2年4月1日には「官設千代田十勝川渡船場」と改称した。武山にかわって八木沼利重が取扱人になったのは大正元年2月である。

父の利重(りじゆう)が、渡船に従事する2年位前に、大津から利別まで川舟に乗ってきた。この当時は、ここ(千代田)で成沢源三郎が渡船をやっていたが、子供がいなく、年をとっていたため、権利を買って渡船をはじめた。渡船をはじめたのは明治41年。わしが7歳の時であった。(注・明治34年9月25日生まれ)。わしが渡船に従事するようになったのは17、8歳位の時だったと思う。20歳の時の船賃は1人2銭、馬車8銭、馬と人4銭、雑穀1俵と子供は1銭で、1日に30銭から40銭になった。
 水位を調べるようになったのは17歳の時から。大津より12尺5寸、水位が高かった。
 渡船が道庁の時は月の手当が3円、ワイヤーと船は道庁で支給してくれた。開発になってから待遇も良くなった。千代田大橋が完成したので、昭和29年9月29日に渡船を中止した。(八木沼利助談)

私設の渡船場に補助金交付

乗合自動車も渡船で運ばれた

乗合自動車も渡船で運ばれた

橋を架設しようとしても流れが早く、また地形の関係から架橋出来ない個所には渡船場を設けた。古老の語るところによると、名もない流れが無数にあり、舟で渡らなくてはならない個所も多かったという。このように人々の交通に欠かすことの出来ない渡船場だが、私設のため記録は残されていない。

明治37年6月21日に、別奴と白人間を連絡する「白人村十勝川分流私設渡船場」、同年7月16日には白人・中島間の「中島十勝川私設渡船場」、39年には咾別・止若間を連絡する「咾別村アシリベツ川私設渡船場」、40年7月8日には国費支弁の渡船場が猿別に設けられた。

これら渡船場は、利用者で組合をつくり運営に当たったところもあったが、何れも修理その他で多額の資金を必要とし、運営費の補助を村に願い出ている。村では明治39年にアシリベツ川私設渡船場に18円、翌40年には66円、41年と42年には18円を支給した。他の渡船場には、40年に猿別市街21号渡船場に18円、42年には十勝川分流渡船場には18円を支出している。大正時代の資料は見当らないが、これら渡船場は、橋梁の架設、市街地の栄枯盛衰が経営に大きく影響した。昭和4年5月、村では次の7か所の私設渡船場に補助金216円を交付した。

 ▽十勝川士幌行渡船場48円 ▽猿別川渡船場20円 ▽猿別川糠内渡船場20円 ▽白人中島渡船場20円 ▽猿別川 武山市街渡船場36円 ▽アシリベツ川渡船場36円

これら私設渡船場に補助金を交付する理由は次のとおりである。

理由書

各私設渡船場ハ本村交通機関上枢要ノ個所ナルヲ以テ関係部落民ニ於テ便宜経営ナシ居ルモノニシテ将来村費経営ニ移スヘキ義ナルモ目下他ニ必須ノ施設事業多ク此方面ニ及ホス余裕ナキヲ以テ村費ヨリ補助ヲ与へ以テ一般ノ交通ノ便ナラシムル必要アルモノナリ。

大正時代の千代田渡船場

大正時代の千代田渡船場

このように、本来であれば村が経営しなくてはならないが財政的に苦しくて経営することが出来ず、村が経営出来るようになるまでの間、補助金を交付するというもの。その後、村営となった渡船場は1件もない。

渡船場は、橋梁の架設、利用者の減少などで次々と廃止された。渡船場にたいする村費補助は昭和20年まで武山市街渡船場のみに支出していた。

糠内、上糠内に駅逓所

大正8年5月発行の『幕別村誌』に「糠内及上糠内に各1あり、其糠内にあるもの、明治34年10月15日の創立にして、猿別、似平間の旅客に便し、上糠内にあるものは、大正3年12月11日の開始にして、糠内、広尾間の旅客に便す。」と駅逓について述べている。

駅逓とは交通の発達していなかった当時、旅行者の便宜をはかるため、旅人及び馬を宿泊させる施設。官設と私設があった。広辞苑には「宿駅から宿駅へ次々に荷物などを送ること。しゅくつぎ。うまつぎ」とあり、現代の旅館とみて良いだろう。明治29年、野瀬徳兵衛が軍岡の地(当時は猿別原野の一角)に入地したとき、富永戈太郎が猿別市街で駅逓を経営していた。富永の駅逓は十勝管内でも設立は早いようである。

明治34年、糠内に官設の駅逓所が設けられた。駅逓の取扱人は福家締吉。この年の10月11日付で河西支庁長諏訪鹿三から命令書が公布された。営業用として馬10頭以上及び食品、寝具その他必要品5人分以上を設備することが開設の条件。

大正に入って、同3年12月11日、高畠松次郎によって、官設の駅逓所が設けられた。『幕別村誌』では「上糠内」にあり、と書かれているが、上糠内とは現在の中里地区。当時を知る年輩者も、中里地区に駅逓が開設されたことを記憶していない。開設当時、上糠内と奥糠内の境界がはっきりせず、多分、上糠内であろうと申請し、許可されたものと思われる。高畠松次郎は、糠内の吉田平一郎を頼って富山県から移住し、大正3年に奥糠内地区に入植したと記録されており、この年に駅逓所の取扱人を命ぜられている。高畠の駅逓所は、正確には奥糠内、すなわち駒畠に設けられた。

止若市街にも私設の駅逓があった。経営者は逢坂房吉。逢坂は、初め利別で駅逓を開業したが、明治31年の水害にあい、利別に見切をつけて武山市街に移った。この武山市街で火災にあい、停車場の開業で賑わいを見せつつあった止若市街に移転した。逢坂又市の記憶によると開業したのは明治38、9年ころ。場所は止若市街を斜に走っていた道路の角、現在の本町28番地付近にあった。福家締吉の孫・定雄の「官庁の人がよく泊った」という記憶、逢坂又市の記憶「大きな馬小屋があった」が、当時の駅逓の断片である。

これら駅逓は、奥地の中継所若しくは開拓前線基地としての役割を果たした。交通網の整備等から利用者は減り、糠内駅逓所は昭和4年6月30日に、高畠の駅逓所は昭和20年7月30日に、それぞれ廃止された。

鉄道

鉄道敷設計画

北海道に鉄道を敷設する計画は早くからあった。明治23年、時の北海道庁長官永山武四郎は、警備、拓殖の両面から、小樽、函館など6線を、利子補給の方法で民間会社を設立し、実現しようとした。この計画の中に「忠別、十勝川口を経て釧路に至る間」も含まれていた。

明治25年2月、北海道庁長官渡辺千秋は、北海道の早期開発のためには鉄道の敷設が最も急であると、北海道中央鉄道計画を樹てた。この計画の中に「空知太より空知川を遡り十勝に出て大津を経て釧路、標茶を経て根室に至る線」を敷設して十勝原野開拓に利用しようとした。翌26年8月、北海道を巡視した井上毅内務大臣は、北海道拓殖上、最重要な路線は次の3線であると「北海道意見書」のなかで述べている。

空知太より上川、フラヌ原野、十勝を貫き厚岸に至る線。

 上川より宗谷に達する線。
 北見より北見海岸に達し東方線に連絡する線。

この計画及び意見が発表されるや、その反響は大きく、勇払郡厚真村の63人が連名で、線路は上川郡より分岐し空知郡フラヌ原野を経て十勝平野を横断し釧路に達するものと、勇払郡より分岐し沙流郡を経て十勝原野を貫通し釧路に達するものとの2あり、此の両線路の得失を稽ふるに道樫の遠近、経過地の状況等共に前者は後者に及はざるを以て後者を採択されたい。

と貴族院に請願した。明治28年1月のことである。このように、鉄道敷設要望の高まりから、政府では明治29年5月14日、法律第93号で「北海道鉄道敷設法」を公布した。北海道庁でも庁内に「臨時北海道鉄道敷設部」を設けた。北海道鉄道敷設法の第2条では、敷設すべき六つの路線をあげている。うち十勝関係は、石狩国旭川から十勝国十勝太と釧路国厚岸を経て北見国網走に至る路線と、十勝国利別から北見国相の内に至る路線の2本である。

北海道庁鉄道部では、7月に技師長・田辺朔郎を各地に派遣、豫定路線の調査を行わせた。田辺は8月30日、特に急速敷設を要するものは釧路・帯広・旭川間及び旭川・ピップ(比布)間であると復命した。

鉄路敷設工事に着手

鉄道敷設測量隊

鉄道敷設測量隊

北海道庁では、工事路線を1期線、2期線に分けた。十勝関係の1期線は「旭川より十勝、釧路両国を経て北見国網走に至る線317哩」。2期線は「十勝国利別太より北見国相の内に至る線89哩」であった。

明治30年6月、北海道庁では「旭川より南進して美瑛、富良野原野を貫通し、狩勝峠をこえて帯広まで」の十勝線工事を旭川から着手した。明治33年4月1日には釧路工事区を置き、5月から釧路から帯広までの釧路線の工事を開始した。

釧路線は比較的平坦部が多く、工事は順調に進んだが、十勝線は狩勝峠の難所で足踏みを続けた。トンネル工事は明治34年7月に着手したが堅い岩盤と湧水に悩まされ、1日の進行「3呎乃至6呎」という難工事となった。トンネル工事は日露戦争のためもあって明治37年11月に工事をいったん中止し、明治39年に再開した。

止若停車場開業

開業当時の止若停車場

開業当時の止若停車場

釧路線の工事は順調に進み、豊頃・利別間が明治37年12月5日、利別・帯広間12哩20鎖が38年10月21日に開通し、釧路線の工事は終了した。

一方、十勝線の狩勝トンネルは明治40年に完了、落合・帯広間の44哩46鎖が開通した。十勝線と釧路線が接続したのは明治40年9月8目であった。この日、釧路で全通式を挙行、十勝線、釧路線を合わせて「釧路線」と改称した。釧路線は大正2年11月6日に釧路本線(滝川〜釧路間)と富良野線(下富良野〜旭川間)の2線に分けた。釧路本線を根室本線と改めたのは大正10年8月5日である。

4線沿いに鉄道敷設運動

幕別にも鉄道が通るという報が届くや、村民は期待に胸を躍らせ、土地所有者は、自分の土地付近に鉄路が敷設されることを望んだ。ある者は村相当局と語らい、南4線道路沿いに鉄道を走らせようと運動した。明治34年ころのことである。停車場を東12号と13号の間に設けるという案は、総代人の美藤信太郎あたりが強く推進した。まず、停車場用地として村有地5町歩を確保し、これの宅地割りを行った。この停車場豫定地付近には、幾軒かの商店も建てられたという。

また、明治のころの帯広で賑わいをみせていたのは石狩通り(現在の国道38号線)であった。この石狩通り沿いに鉄道を敷設し、西2条から西6条間を停車場の予定地としていた。幕別の4線沿いに鉄道を走らせるという計画も、あながち夢物語ではなかったようである。当時、帯広川、十勝川が氾濫すると決ったように北の方が被害にあったことと、市街地が次第に南に伸びていったことが、現在地に帯広駅が設けられた理由であった (小泉碧談)。

山沿いに鉄道を敷設した理由

4線沿いに鉄道を敷設することもなく、また猿別市街に停車場を設置しなかった、それなりの理由があった。昭和42年発行の『幕別町史』を編さん中、鉄道建設に従事した平山広治(当時帯広在住)に話を聞く機会があった。平山は、

の4点をあげ、猿別市街に停車場を設けず、止若に設置した理由として「猿別の場合は大雨のたびに洪水の危険にさらされることと、猿別市街の土地が傾斜しているため、発車、停車に支障をきたすため、平坦な止若の地を選んだ」と語ってくれた。

日勝線建設運動

日勝線建設運動

日勝線建設運動

帯広・旭川間の鉄道が開通した2年後の明治42年8月25日に「日勝鉄道期成同盟会」が結成された。だが、日高と十勝を結ぶことは、ほとんど不可能とされ、明治43年の段階では、日高は浦河まで、十勝は帯広又は止若から広尾までというのが上部の考えであった。帯広から広尾を経て日高を結ぶ日勝線建設が国会を通過したのは大正11年3月28日。着工日は決まっていなかったが、起点となった帯広では提灯行列で祝ったという。

日勝線が国の計画路線となる以前、糠内、勢雄地区で測量が行われている。勢雄地区に広大な農場を所有していた北海道製糖株式会社が熱心な運動を行ったためといわれている。また、南勢の福家締吉や新田ベニヤ関係者が、現在の道道幕別大樹線に、日勝線の分岐線を設けるよう運動している。当然、村でも運動したと思われるが記録としては残されていない。

止若駅

改築前の止若駅(昭和30年当時)

改築前の止若駅(昭和30年当時)

止若駅の記録は少ない。昭和5年、駅前から出火した火災で類焼し再建したが、止若市街の発展によって利用客が増え、事務室、待合室も狭くなり早期の改築が望まれていた。

昭和26年7月、乗降客の便宜をはかって、上り線、下り線の ホームをまたぐ跨線橋が架設された。この架設に当たって、町費45万円を支出した。新しい駅舎の新築に着手したのは昭和33年9月11日。まず、旧駅舎を駅前に移動させて新築工事を進め、出札、開札は移動した旧駅舎で行った。新駅舎は12月6日に完成し、同8日から新しい駅舎で営業を始めた。この新築の際、町では550万円の鉄道利用債を引き受けた。止若駅を幕別駅と改称した。

幕別駅

札内駅

札内市街に停車場が開業したのは明治43年1月7日。『幕別村誌』では明治44年11月21日としている。停車場の開業によって、札内市街は西幕別の中心地として発展をみせた。現在の駅舎は昭和49年12月に完成した。この札内駅について角田政平は、

停車場は帯広と止若の中間の稲志別がいいだろうというので、稲志別に内定しかかっていたそうです。しかし稲志別は、今でも、あのとおりの山ぎわで狭いところでしよう、あんなところでは駄目だ、ここ(現在の場所)は勾配が強く、帯広に近すぎるということで、なかなか決らなかったんですわ。それを広部農場が土地を寄付するからということで、やっと現在の場所に決ったんです。
 駅名も札内にするか広部にするかで、ひともめあったんです。札内は「サツナイ」で金が無いは縁起が悪いという者もいたし、逆に札の内でお金が入るから良かろうという者もいたそうです。

と「幕別風土記」で語っている。

なお、平成元年度の乗客数は幕別駅普通8万8286人、定期19万7585人の計28万5871人。札内駅は普通7万4950人、定期15万3384人の計22万8334人である。

旧札内駅(昭和40年当時)

旧札内駅(昭和40年当時)

稲志別に中間駅

鉄道沿線の近くに住みながら、鉄道を利用するためには遠く駅まで足を運ばなければならなかった。これらの人々によって簡易昇降場、すなわち中間駅の設置運動が行われた。昭和25年、地区民の要望がみのり、まず、稲志別に乗降場が設けられた。次いで28年11月15日には広尾線北愛国に、32年には同じく広尾線西和に中間駅が設置された。中間駅の設置に当たって、設置場所をめぐって付近住民間に意見の相違があり混乱した。このほか、昭和30年7月に中山政一、小川長太郎、穴吹浅雄、三好乙吉、服部間一らが、帯広起点11粁950メートルの猿別地区に、簡易昇降所の設置を釧路鉄道管理部に陳情したが「設置は無理である」と却下されている。

西和中間駅

昭和30年6月24日、西和地区の代表・時田助三郎らが西和地区に広尾線の簡易昇降場を設置してはしいと釧路鉄道管理部に陳情した。管理部では、町長名の陳情でなければならないと、これを却下した。時田らは昇降場施設の経費について町に迷惑はかけないと誓約し、町の協力を求めた。町長名で陳情書を提出したのは翌25日のことである。

昭和31年秋、釧路鉄道管理部、町、地元住民の3者で、中間駅の設置場所を8線と決め、中間駅設置に要する負担金を7線側6分、8線側4分とした。これを5分、5分にすべきだという意見が話を振り出しに戻し、7線に設置すべきだという側と、当初の計画通り8線に設けるべきだという側が、互いに譲らず、設置は暗礁に乗り上げた形となった。

この問題を早期に解決するため、中島国男町長の依頼を受けた町議会議長の美濃政市と、土木建設委員会(斉藤毅雄委員長)が調停に乗り出し、翌昭和32年8月、7線側が上り150間、8線側が下り50間を譲歩し、両者間の約150間内に昇降場を設置することに意見の一致をみた。しかし、鉄道管理部では「8線と決め、すでに上層部に設計、契約を通しているので、今更変更することはできない。もし8線が不服なら中間駅設置を中止するよりない」と態度を表明したため、せっかくまとまりかけた話も、再び壊れてしまった。

鉄道管理部が8線に決めたのは、7線は低地のため水溜りができるうえ、道路も新設しなければならず、その点、8線は採算性から最も適している。という理由からであった。

この年の11月5日、美濃議長、斉藤委員長は「中間駅をつくるか、つくらないか」の1点に絞って再調停を行い、負担金45万円のうち38万円を5分、5分とし、町費から7万円を支出することで解決したのは翌6日。駅名を依田駅とし開業したのは12月25日であった。

国鉄広尾線を廃止

国鉄広尾線の工事に着手したのは昭和2年8月1日。帯広から広尾までを5工区に分けて実施した。昭和7年11月5日、大樹・広尾間が開業し広尾線は全線が開通した。この広尾線が廃止されたのは昭和62年2月1目である。

昭和55年、国鉄再建法が成立し、昭和57年には広尾線が第2次廃止路線となり、運輸省も、これを承認した。このため関係市町村で広尾線特定地方交通線対策協議会を開き、廃止後の方策を検討した結果、バス転換を正式に決定したのは昭和61年2月24日。

この年の10月2日開催の第5回対策協議会で、廃止日を昭和62年2月1日と決定、依田駅も、この日で役目を終えた。

国鉄の民営化

国鉄では過去数次にわたって再建策に基づき経営努力を重ねたが好転せず最悪の状況となった。

昭和55年には国鉄再建法が成立した。この年の5月21日にも、釧路鉄道管理局から営業部長が町を訪れ、10月1日のダイヤ改正を目途に幕別、札内駅の一般貨物取扱いを廃止すると申し入れている。幕別駅は昭和59年10月から民間委託の予定であったが、職員の配置転換などの関係から凍結され、また、昭和62年の民営化で幕別は駅員が1人もいなくなる無人駅になるという仄聞から「幕別駅を守る会」を発足させ、陳情、要請運動を展開した。

昭和62年4月1日、国有鉄道は分割民営となり、北海道は「北海道旅客鉄道株式会社」と改めた。JRは民営化後の略称。幕別駅、札内駅とも駅長を含め4人が配置された。勤務時間は幕別駅午前6時50分から午後8時20分まで。札内駅は午前6時30分から午後8時まで。以降は無人である。

観光

多様化した観光

秋味まつり

広い敷地も自家用車で混雑した

広い敷地も自家用車で混雑した

十勝平野のほぼ中央に位置する幕別町の観光地として、途別の台地にそびえる12階建の幕別温泉ホテル緑館、千代田堰堤などがあるが、近年は山、谷、川、海、湖などの自然を売りものとした観光から人工的に造られた観光地、すなわち大規模な遊園地、古い家並みを復元した観光などに変りつつあり、また客の動員力も大きい。観光も時代とともに多様化をみせている。昭和28年9月18日、町と商工会が共催の「秋味まつり」が千代田堰堤で開催された。この種まつりの魁である。以来、39年、41年の冷害凶作年に中止したが、十勝の秋を彩る行事として定着、本州方面からの観光客も訪れ賑わいを見せた。

秋味まつりは、アイヌの古老が豊漁と秋味の霊に祈りをささげ、次いで地蔵堂前で漁に従事した物故者の慰霊祭を執行したのち祭りの幕を開けた。人々は勇壮な綱引きや特設舞台での余興を楽しみ、名物の「秋味ナベ」、「秋味弁当」を囲み秋の1日を過した。昭和43年9月29日は14回目の秋味まつり。陸上に大型の水槽を設け、捕獲したばかりの秋味を泳がせ参加者の目を楽しませた。だが、対岸の池田町側で同様のまつりを開催し、また地形の関係から綱引きを池田側で実施したため幕別町側の観光客は年々減少した。このため44年9月28日に物故者と秋味の慰霊祭のみを執行し、以後まつりを中止した。

新田牧場で映画のロケーション

「愛よ星と共に」の映画のロケの一行

「愛よ星と共に」の映画のロケの一行

北海道のうちでも特に「北海道的」といわれる新田牧場。観光地として人々に知られるようになったのは昭和22年に阿部豊監督、池部良、高峰秀子共演の映画「愛よ星と共に」のロケ地になってからである。映画が封切られた後、訪れる見学者、観光客への説明で本来の牧場業務に支障をきたしたこともあった。

昭和63年6月22日、俳優の池部良が月刊誌の企画で幕別の地を訪れた。池部は、かつてのロケ地、新和の新田牧場で40年前をなつかしみ、幕別運動公園ではパークゴルフに初挑戦した。池部は月刊誌「ハイミセス」9月号に「幕別の柏の樹」と題した1文を掲載した。

東京は梅雨の最中、北海道・十勝の幕別町を訪ねる。案に相違して涼しさを含んだ太陽が燦々として快晴。
 幕別には昭和22年の6月、高峰秀子先輩と共演した「愛よ星と共に」のロケーションで1ケ月以上も滞在している。戦前から由緒ある当地の新田牧場でお世話になったのだった。監督以下の撮映隊が宿舎に使わせていただいた間数の多い木造の事務所。秀子先輩と愛を語らい−−−勿論映画の中で−−−太い幹に2人の名前を彫りつけた柏の樹など40年を経た今日のことだから無いものときめこんでいたのに、当時の面影を残して樹は更に立派になり、事務所の建物は、どぶに落ちた老人の趣はあったが記憶の映像とぴったり合ったのには驚いた (後略)

まくべつ産業まつり

昭和51年の幕別町開基80年を記念して10月1日から3日までの間、記念式典のほか各種の行事が開催された。そのうちの一つ、国民宿舎幕別温泉ホテル前の広場で地元産の野菜、牛肉のほか秋味の即売会、「鯉のつかみどり」が開催され賑わった。この催しが「まくべつ産業まつり」を開催するきっかけとなった。

幕別観光協会主催の第1回「まくべつ産業まつり」が国民宿舎幕別温泉ホテル前広場で開催されたのは53年10月8日。開拓時代から糠内に伝わる獅子舞いが特別参加してまつりに華を添えた。会場では地元産の安い野菜に人気が集まり、呼びものの「鯉のつかみどり」には老いも若きも挑戦して笑いをさそい、町営牧場産の黒毛和種の牛肉が市価の半値とあって、あっという間に売切れとなった。特設会場でほカラオケのど自慢大会、子供相撲が開催された。まくべつ産業まつりは、以後も趣向をこらして回を重ねている。

まくべつ冬まつり

町民みんなで「雪と氷を楽しもう」と昭和58年2月20日に第1回「まくべつ冬まつり」が幕別運動公園で開催された。冬まつりのメインは地域や職域で作成した30基の雪像。これに氷上綱引き大会、氷上人間ばんば、氷上ゲートボール大会など盛り沢山のアトラクションに参加した5000人の人々は歓声をあげた。

この、まくべつ冬まつりを、第6回目の63年から糠内中学校横の特設会場で2月14日に開催した。糠内地区は十勝でも指折りの寒冷地帯。この寒さを吹き飛ばし糠内の活性化を図ろうと計画されたのが第1回全日本ミニスキージャンプ大会。ミニスキーで斜度30度、長さ10メートルのアプローチのジャンプ台を舞台に飛距離部門とパフォーマンス部門に覇を競おうというもの。回を重ねるごとに参加者も増え、また奇抜な衣装のパフォーマンス部門には笑いの渦がわき、全道、全国のテレビジョンで放映されるなど十勝の冬を代表する″まつり″に成長した。

なお、十勝支庁では「住みよい十勝づくり」を実践している団体を表彰しているが、平成3年度の「十勝まちづくり奨励賞」に「まくべつ冬まつり実行委員会」を選定、平成3年3月25日に帯広グランドホテルで表彰した。

芝桜まつり

明野ケ丘公園芝桜(シバザクラ)まつりは、昭和60年6月9日が第1回目。参加した町民は自分達の手で育てた芝桜に囲まれ、ビール早飲み競争、宝さがし、餅まきなどに明るい歓声をあげ、カラオケ大会にはのど自慢が続々と登場し、幕別の春に欠かすことの出来ない祭りとなった。

明野ケ丘公園は昭和53年から整備を始めたが、この公園内のスキー場を芝桜で埋めようと林照男町長が提唱、町民によって組織されたのが「明野ケ丘公園芝桜1株運動推進委員会」。大久保正司が委員長となり5か年計画で2.2ヘクタールのスキー場斜面を芝桜で埋めることになった。初年度の58年は9月18日に町民150人が3500株を植栽した。

なお、最終年度の62年度までに町民が植えた芝桜は2万5000株、62年度と63年度に町が3万株を植栽した。春にはスキー場の斜面がピンク色に染りドライバーの目を楽しませている。

遊覧飛行

止若原野(現在の旭町団地)から飛んだ飛行機

止若原野(現在の旭町団地)から飛んだ飛行機

十勝で、初めて飛行機が飛んだのは大正6年8月22日と言われている。当日、帯広の会場(今の緑が丘付近)には、各地からの見物客で、ごったかえしだったという。

大正14年、当時としては夢のような「民間飛行場」が音更村に実現した。実現までの経過は省略するが、軍部の協力でアブロ式130馬力の複葉機1機を無償で払下げを受けて発足した。飛行場は音更神社の南高台。何人かの飛行士が音更飛行場から飛んだが、これという財源の裏付けもなく、飛行機が故障しても修理することができず、5機あった飛行機も1機、また1機と飛行不能となった。

この飛行機の整備に、ただ1人取り阻んでいたのが機関士の上出松太郎。上出機関士は飛行士の免許を取得し、大正15年9月、広尾の十勝神社の祭典で、中古の飛行機で「宙返り」や「木の葉落とし」などの曲乗りを行った。上出飛行士の操縦する飛行機が、現在の旭町団地が、まだ草原だった時に降り立ち、何人かの人が飛行機で幕別の上空を飛んだ。飛んだ年月は確認出来なかったが、笹島喜八郎は「幕別で最初に飛行機に乗ったのはわしだ」と語っていた。

その他

幕別、札内農協では例年6月に軍岡家畜市場・依田家畜市場を会場に「家畜まつり」を開催していたが、平成元年から「まくべつ農業まつり」と名称をかえ軍岡家畜市場を会場に開催している。会場では農産物即売会、農機具展示会のほか歌謡ショー、子ども縁日なども催され賑わいをみせている。商工会関係では幕別神社秋まつりに合わせて開催の「びっくり市」が定着。8月には納涼ふるさと盆踊り大会、商工夏まつり盆踊り大会が町民会館前広場と札内駅前広場で年中行事として開催されている。また「まつり」と冠してはいないが昭和53年からの「ばん馬競技大会」も回を重ね、10月上旬には依田家畜市場特設会場に多くのファンを集めて開催している。

温泉

メン川で湯が自噴

依馬 五兵衛

依馬 五兵衛

明治32年、白人村に入地した依馬五兵衛は、付近に住むアイヌから十勝川とメン川の合流点に熱い湯が自噴していて、アイヌが好んで入浴していたと聞いた。この温泉は明治31年の大洪水で噴出をやめ、また、十勝川の流れもかわり確かめることが出来なかったという。五兵衛は、その後、音更の地に移り、現在の十勝川温泉を発見した。

音更村下士幌に入地した五兵衛は所有地のうちの一部がひどい湿地帯で畑にもならず、しかも冬になると湯気がたちのぼり雪も積らぬため温泉があることを知り簡単な方法で掘ってみた。しかし湧水がひどくて中止し、その湧水で風呂を沸かして近所の人々に利用させたところ病気によく効くと評判になった。明治43年のことである。五兵衛は農耕に適さない土地を手放して再び幕別にもどり岡山団体に入地した。

途別礦泉

若山牧水夫妻が清遊した黒田温泉一帯の開発は十勝でも早い方である。

途別礦泉は大字別奴村途別にあり、札内駅の東方10数畝を距て、無数の丘陵起伏せる麓を横流する途別川畔に湧出す。明治29年5月、本郡利別太村加藤某なるもの、霊夢によりて之を発見し、試に汲み取り携え帰りて、東京芝区伝染病研究所医学士木村武夫に託し分析したるに、亜留加里反応を呈し、塩味を帯び主として慢性胃腸、僂麻質斯、経久黴毒、皮膚病、子宮病等に特効あり、其他萬病に験ありと云ふ

以上は『幕別村誌』の1節。加藤某とは加藤多作のことである。加藤温泉の開業は明治39年ころと思われる。これを裏付けるものとして明治40年4月14日の村会で原案どおり可決した「40年4月1日以後新ニ納税義務ノ発生シタルモノ」のなかに加藤多作の名があり、しかも1等級の営業税を賦課されている。1等級の税額は40銭、業種は宿屋。1年間に800円以上の収入があり繁盛したようである。場所は牧水日記に書かれているように黒田温泉の西側、吐月橋を渡った向う側にあった。

大正元年2月、日新高台で牧場を経営していた黒田林平が、吐月橋を渡りきった日新坂の昇り口付近に温泉旅館を経営した。加藤、黒田温泉は、ともに摂氏20度から21度の冷泉。付近一帯の山野に自生している木を燃料として沸かし、花見どきには新田べニヤ工場や帯広の魚菜市場からの客で賑わったという。

黒田温泉

黒田温泉

その後、十勝川、糠平の温泉地帯が開発されるにしたがい客足は減り、黒田温泉は林平の死後、夫人の黒田フサ、藤島某によって経営が続けられたが、黒田フサは秋田県に引き揚げ、藤岡は老齢となり廃業した。建物を取り壊したのは牧水歌碑が建立された後である。加藤温泉も同様な時期に廃業している。

三影温泉

三影末太郎が十二号山の突き当たり(現在の札内東工業団地内)で温泉旅館を経営していた。開業したのは明治35年ころの説もあるが、営業税を賦課されたのは40年度第2期が最初。途別礦泉と同様に冷泉である。この温泉に宿泊できる人数はせいぜい10人程度(早川政次郎の話)。6畳間が2部屋、それに女部屋もあったが、客はたまにくる程度(松田幸四郎の話)であった。だが、大津道路が、まだ主要な道路であったときは、旅人にとって恰好の休憩所であったようだ。営業を中止したのは大正8年ころといわれている。幕別町の開基70年を記念して『幕別町史』を編さん中に、当時の湯元を探してみたところ草木の繁った中に冷泉が流れ、温泉特有の匂いをただよわせていた。

照本温泉

照本温泉

照本温泉

照本温泉は現在の札内春日団地の北側、春日近隣センター付近にあった。昭和の初め山口某が鉄分を含んだ湧水を発見、ボーリングを行い温泉旅館を経営した。この施設を帯広の照本幸吉が昭和10年に買収、更に増築して「照本温泉」として営業した。照本は庭に池をつくり鯉を飼育して客に鯉料理を提供した。客で賑わったのは正月と盆、それに青年訓練所生の修練道場に使われた時くらいで、普段は、とき折り客が訪れる樫度であった。戦時中、物資の統制などで更に客足が落ち、昭和19年の春に廃業した。昭和40年ころまで池の跡が残っていた。

その他

現在の運動公園の近くに温泉宿があった。規模その他については不明。昭和40年代まで建物の基礎があった。昭和29年、札内の笹島喜八郎が黒田温泉があった付近で「温泉が出れば、その施設を町民の福利厚生施設として利用させる」と自費でボーリングを始めた。このボーリングを町で支援するかどうかで町議会を賑わせた。130メートルの地点で29度の湯脈にあたり、更に5メートル掘り下げたところ管の先が折れ、また資本も不足したため同33年にボーリングを中止した。

白人では丸山治市が、依田では梅田敏男の土地で帯広の菅野某が、それぞれボーリングを実施した。丸山は温泉の権利を藤岡正一に譲った。藤岡は「藤が丘公園」をつくり、公園内に貸別荘を設けた。梅田の所有地は現在は町有地である。

帯広の林克巳が吐月橋の近くに13平方メートルの鉱泉地を所有し、河川敷など6651.63平方メートルを北海道から借りているが開発の動きはない。このほか昭和50年12月に岡田市太郎が豊岡5番地で岡田温泉を開業した。その後、施設も古くなり利用者も少ないため平成元年8月に看板を下ろした。

町営国民宿舎幕別温泉ホテル

成井農林の温泉湧出を視察する中島国男町長

成井農林の温泉湧出を視察する中島国男町長

札内の成井農林の温泉ボーリング成功が、幕別温泉ホテル建設のきっかけとなった。依田の高台に着工したのは43年5月16日。8畳間22室、7.5畳間1室、6畳14室と男女別の大浴場が設けられた。12月20日のオープンを前に予約が殺到し、12月30日現在で、31日の予約を含め宿泊客は851人、日帰り客は425人の計1276人に達した。また翌44年1月1日から20日までの宿泊客は1072人、日帰り客は722人と、道東一の広さをもつ浴槽は、イモを洗うような混雑の日が続いた。

成井の泉源は31度の冷泉。利用客の増加から多量の湯を必要とし、温泉ホテル北側で自前の泉源ボーリングを開始したのは45年11月、暮れまでにボーリングは終ったが湯温は34度であった。温泉ホテルの利用者が減少したのは40人年のオイルショックが最大の原因。だが、52年5月31日付で環境庁から「国民保養温泉地」に指定されるという朗報もあった。この指定は道内で12番目、十勝管内では雌阿寒、然別峡についで3番目。指定を受けた面積は51.62ヘクタール、うち78%は町有地であった。より高温の湯を求めてボーリングを行ったのは55年。1100メートルの地点で高温の湯脈に当たり45度の温度を確保し沸かさなくてもよい温泉となった。

建築中の町営幕別温泉ホテル

建築中の町営幕別温泉ホテル

幕別温泉ホテルの建物は、建築年度の割には老朽化が進んだ。このため、改築と周辺一体の観光開発調査をコンサルタントに依頼、閉館をきめた。幕別温泉ホテルでは閉館に当たって種々の「さよなら企画」を樹て、また宿泊は平成2年3月25日までとし、以後、閉鎖日の31日までの入浴を無料とした。

なお、昭和43年12月20日のオープンから平成2年3月25日までの利用者総数は365万2695人であった。

幕別温泉パークホテル

昭和49年5月、馬渕輝昭は依田126番地の所有地で温泉ボーリングを行い、36度の湯脈に到達したため、総3階建延488坪の建物を建設、幕別温泉パークホテルと命名して開業したのは50年9月15日。当初は加温していたが高温の湯を求めてボーリングを行い、53年8月に46度の新泉源開さくに成功した。幕別温泉パークホテルは泊り客なら120人、日帰り客は100人の利用が可能。札内市街から最も近い距離にある温泉である。

ヴュホーク城

ヴュホーク城

ヴュホーク城

憩いの場として知られた札内北町の「沢田公園」は昭和37年4月、沢田マスによって設けられた。この沢田公園を帯広富士コンクリート製品株式会社が買収し昭和57年から3年間で整備し「富士ベアーランド」と改称した。61年に温泉ボーリングを行い3100メートルの地点で43.3度、湯量が1分間に1.7トンという湯脈に当たった。折りもおり札内川の河川敷に第3セクターによるゴルフ場建設計画が持ちあがり、この計画に協力しクラブハウスを兼ねた施設を建設することになり、北海道知事の開発許可がおりた63年7月から、中世ドイツの城をイメージした建物の建設を進め、完成して竣工式を開催したのは平成元年5月19日。鷹が営巣中だったため雛の巣立ちを待って工事を始めたことから「ヴュホーク城」と命名した。「鷹望城」という意味。建物は地下1階、地上5階建。1階にクラブハウスと温泉浴場、2階にレストラン、3階和室、4階ホール、5階はギャラリーとなっている。

温泉駒屋

温泉駒屋

温泉駒屋

明野工業団地で、立地した企業が使用する水を確保するため、ボーリング中に湯脈に当たった、という話を聞いた須田赳が、明野工業団地の東側の所有地、国道242号線沿いの地点でボーリングを行い、500メートルの地点で26度の温脈に当たった。温泉と認定されたのは昭和51年8月26日。須田はこの年に建物を建て、鹿などの小動物を飼育し、温泉のある「幕別自然公園」として開業した。昭和62年に経営権が堂前豊に移った。堂前は建物を増改築して「温泉駒屋」を開業、また、小動物を飼育していた土地に芝を張り、有料パークゴルフ場を造成した。民間がパークゴルフ場を造成した第1号である。

十勝幕別温泉ホテル緑館

十勝幕別温泉ホテル緑館

十勝幕別温泉ホテル緑館

北海道振興株式会社では、幕別町と建物(温泉ホテル)売却など11項目の覚書を取り交わした。この覚書に基づき、旧幕別温泉ホテルの施設を一部利用し「十勝幕別温泉ホテル緑館」の起工式を開催したのは平成2年5月19日である。

十勝幕別温泉ホテル緑館は地下1階、地上12階建と十勝管内一の高層建物。総工費42億円を投じて延べ床面積1万8200平方メートルのホテル建設を急いだ。客室は和室、洋室合わせて169室あり、収容人員は550人。1階はロビー、大ホール、レストラン、2階は結婚式場、宴会場など、3階から11階までは客室、12階はスカイラウンジとなっており、標高91メートルの丘の上に建っていることによる眺望、特に30階建てに匹敵する最上階からは、帯広市はもとより、遠く太平洋まで望むことができる。

オープンしたのは平成3年12月7日。前日の6日午後、久末鉄男会長、久末聖治社長、林照男町長など6人でテープカット。太鼓の会、幕別文化倶楽部の豊穣太鼓で祝賀会の幕をあけた。

なお、ホテル緑館は北海道新興が経営する道内10か所目のホテルである。