帯広市史 概要

市役所所在地 北海道帯広市西5条南7丁目1番地
郵便番号 080ー8670
電話番号 (0155)24−4111
ホームページ http://www.city.obihiro.hokkaido.jp/
Eメール ezoree@city.obihiro.hokkaido.jp
市町村コード番号 01207−6

位置

帯広市は、道東十勝地域の中核都市、また本道内陸部の3大拠点都市として急速に発展してきた。これを自然地理の面から考察すると、まず位置・面積と地形・気候・植物などの自然に恵まれていたことを挙げなければならない。

帯広市は、1市19ヵ町村が存置する十勝管内及び十勝平野の中央的位置にある。また、十勝の面積は、1万831.05平方キロメートルで道内14支庁のうち最大の面積、しかも都府県で広さ第5位の新潟県の面積(1万939平方キロメートル、『日本の統計2001年版』総務省統計局発行による)に匹敵する。

かつての十勝の森林のうち、特に内陸部のカシワに象徴される樹海は、開拓・開発によってその姿をほぼ失い十勝の自然は現代までに大きく変貌した。平成2年(1990)の調べに基づくと、十勝の総面積に対する森林面積の比率は、全国と北海道の各森林面積の比率に比べて、全国より1.1パーセント、北海道より2.0パーセント少ない。また、十勝の森林面積の比率は、東北地方6県のその比率に比べて7.7パーセントも少ない(表参照)。なお、平成12年(2000)現在で人口密度(1平方キロメートル当たり)は全国平均が340人、東北地方6県の平均は147人であるが、十勝は33.4人で格段に少ない。そのため十勝には、広大感がある。

北米・北欧の近代的都市の中には、帯広と類似する気候のところもあり、本市今後の飛躍に示唆を与えるものである。

帯広市の数理的位置および市域面積の推移は、次の如くである。

(市域面積の推移)
明治35年(1902)4月1日,15.02km2
帯広町施行(下帯広村、荊苞村を廃合)。
大正4年(1915)4月1日,50.71km2
伏古村の一部(35.69km2)を合併。
昭和32年(1957)4月1日,617.95km2
川西村(444.38km2)及び大正村(122.86平方km2)を合併
平成元年(1989)11月10日,618.94km2
国土地理院「昭和63年全国都道府県市区町村別面積調」により改正。

地名の由来

アイヌ語による帯広の原名はオペレペレケプ。この他に、オペリペリケプ・オベレベレフ・オベリベリ等の記載もみられる。この地名のおこりは市の北東部で十勝川に合流する帯広川(川口が分かれ分かれするもの(川)の意)から出たもの。帯広という漢字は北大資料室所蔵の「十勝州河西郡地図」にあることからも、明治3年当時この周辺を所領していた徳川の一橋家の手によるものと思われ、以降の文献から帯広の呼び名が後世に引き継がれてきている。明治16年静岡の晩成社一行による民間開拓が先行したのち、明治26年の集治監外役所の設置、同27年の戸長役場開庁、同28年の警察署開設等により徐々に街としての機能を整え始めた。その後、明治35年の二級町村制施行により河西郡の自治体名として帯広町が誕生し、昭和8年4月1日には道内7番目の市として帯広市の制施行が実現し今日に至っている。

先住民族

アイヌの人々

7、8世紀ころから12、13世紀ころまでに、北海道や東北地方北部などに広がった擦文土器で代表される文化を擦文文化といい、その時代が擦文時代である。

その擦文文化の担い手、つまりアイヌの祖先の人たちは、道内のオホーツク文化を吸収、同化して、13世紀中ごろまでにはサハリンや千島列島へ進出して行った。一方、モンゴル軍や元軍等と戦い、時に朝貢した。また、本州和人文化とも交易(アザラシの皮、てん皮、鷹など)を軸に文化の影響を受けつつ、いわゆる「アイヌ文化・アイヌ民族」が育まれて行ったと思われる。

文字を持たなかったアイヌの祖先の人々は、口承をとても大事にしていた。文化人類学から言っても、その口承資料が持つ意義は大きい。

十勝内陸部の外来のアイヌには、オトフケウンクル(オトフケ衆)と、サツナイウンクル(サツナイ衆)のニ系統があると語り伝えられてきた。オトフケウンクルのソパウシ(中村宗三郎)と、その子中村要吉の語るところによれば、ソパウシから6代前のシャガニがおよそ400年ほど前に北見から十勝に入り、オペレペレケプ(帯広)のコタンコロクル(村長)のチパイコロと交渉してむらおさ音更川上流を譲り受け、ナイタイ(ナイタユペツ=上士幌町勢多)に住んでオトフケウンクルの祖になった、という。そして、シャガニが十勝北部の防衛を受持ってからは、北見や石狩から侵略されることがなかった、とのことである。同じころ、石狩ペペツ(辺別)から十勝に移住したモザルクは、サツナイ(札内)に入ってサツナイウンクルの祖になった、という語り伝えがある。また、江戸時代末期から明治初年にかけての村長マウカアイノ(サツナイ村、のち上帯広村在住)はそのむらおさ子孫であり、その長男モザルク(モチャロク)の名は祖先の名と同じで、次男トレツ(ツウレチ)は伏古村の村長となり、明治中むらおさ期には河西・河東両郡アイヌの総代人を勤めた(『民族学研究16の3―4』所収吉田巖「古川コサンケアン翁談叢」、吉田菊太郎所蔵「明治27年以後アイヌ関係要所綴込」による)。

要するに語り伝えによると、およそ400年くらい前には、十勝内陸部に古い1族のチパイコロ(帯広)と北見系のシャガニ(音更)、石狩系のモザルク(札内)の3村長がおり、それらの系統が後のむらおさ世へと受け継がれてきたとのことである。

伝説

十勝には、アイヌ民族の伝説がいくつも残されているが、ここでは次の3点について述べる。

コロポクウンクル伝説

アイヌ民族には、コロポクウンクル(コロポックルなどともいう)伝承があり、そのコロポクウンクルという言葉には ふきの下にいる人という意味があるといわれる。

安政3年(1856)の『竹四郎廻浦日記』には、次のように記載されている。

「此川本名トカチ也。其地名の訳は昔し此辺に小人が住し由なるが、蝦夷人始て此処へ来りしかば、小人窓より魚を出して与へしが、未だ夷人は魚を喰する事をしらざりし也。其魚を取捨て、小人の腕を持て引しかば、其腕抜て小人は逃去りし由。其逃る時にトカチくと言って去りしと。トカチは魚が無と言事なりしとかや。よって此トカチの方至て魚少し。」

さらに、明治40年(1907)2月、吉田巖は音更のコタン在住のイタクラ(山田常吉)の父ユペアシを訪ねて、次のような趣旨の話を聴取された。

「大昔、この辺りにコロポンクルというとても小さな人たちが住んでいた。
昼はかくれていて働かないけれども、夜になると5人から10人くらいが、この辺りの川で数捜の丸木舟に乗って魚をとっていた。そして、コロポンクルは、そのとった魚をアイヌのチセ(家)のすき間から手首だけを出して差し入れ恵んでいた。しかし、決して姿は見せなかった。どうも不思議なので、ある時アイヌの若者が正体を見届けてやろうと思って、魚を差し入れた手首をムズとつかんで有無を言わせずチセの中に引き入れた。すると、とても小さなきれいなメノコ(女性)で腕には入墨をしていた。ところがコロポンクルたちは、姿をいれずみ見られたことを非常に怒ってアイヌをうらみ、どこともなく舟に乗って去って行ってしまった。その去って行く時にアイヌは若くても早く死ね。永生きするな。髪もひげも早く白くなれ。忘れるな。
といい、トカチという名をつけていった、とのことである。」
(『吉田巖日記第4、帯広叢書第23巻』より訳)

シュプサラチャシに関する伝説

明治40年(1907)の『十勝史』には、次のように書かれている。

「昔時アイヌの本陣とも言ふべき恰あたかも摺鉢を伏せたる如き地積7、80坪もすりばちある1小丘あり。若し他部落アイヌの為めに此地を襲撃占領せられる時は、其部落のアイヌは降伏し、他に転ずるの不文条約ありしと伝説する。此本陣蹟は、あとシブサラ山に1ヶ所存在す。」

また、大正7年(1918)北海道庁発行の『北海道史付録地図』の中では、次のごとく述べられている。

「芽室村大字西士狩村字シュプサラに在り。…中略…此地方のアイヌ伝え言う。この砦は諸砦中最も堅牢にして如何なるチャランケをもってするも到底破ることあたわず。又言う、砦上より高く呼ぶときは、その声遥に隔りたる旅来の砦に達すと。」(注、チャランケは争論又は弁論のことであるが、ここでこらいは戦闘味に転用したものと推測される。旅来の砦=豊頃町タビコライチャシ跡)

チョマトー伝説

チョマトーは、帯広市西15・16条北1・2丁目にある小さな沼であるが、古くは北2丁目から南1丁目にかけて3日月湖のような大きな沼であった、と伝えられている。この沼には、アイヌの戦いの伝説が残されており、明治40年(1907)発行の『十勝史』には、次のような趣旨のことが述べられている。

「ある年、十勝アイヌと日高アイヌとの間に戦争が起こったが、その時、十勝アイヌは大敗し、札内の東の方に退却した。その後、70年程経てから再び両国のアイヌは戦った。その際には、日高アイヌは大敗し、退却する途中空腹のため歩行困難となり、今の伏古アイヌ学校付近の沼の所で鳥を数羽獲り、これを食べて空腹をしのいでいた。ところが、そこを十勝アイヌ軍に包囲されて攻撃され、逃げ場を失った日高アイヌは、ことごとく沼に落ちておぼれ死んでしまった。それ以来、そこはアイヌ語でチョマトー、即ち腐敗せる沼と呼ばれるようになった。」

また、吉田巖は、明治40年に帯広在住の伏根弘3から聴取し、次の記録を残した。

「此のイノンノイタツ及びシノッチヤオロイタツ(注、アイヌの伝承に属する古謡、口唱演舞者旧名ホテネ、伏根弘3明治7年3月生)の故事(ウチャシクマ)を語らぬ。…中略…今の帯広町伏古々譚学校地に跨がれる神居沼(カムたんまたイトウ)ぞせめて忘れ難き古跡なる。この沼、例の掠奪戦の当時シピチャリコタン(日高国内の地名)の敵衆60人打ち寄せ来て、この要害に潜む時に、十勝なる或るイノンノイタッイヌプルクル(霊徳者)あり、禍を末前に知り、同族のため尊信ただならぬ火神に件の祈祷詞を捧げ、調伏必勝を期し、実に歌にくだん渉れる詞を屋後の神聖なる幣垣のかたえにておごそかに舞い給い、同族の志気を励ましたりき。その誠心の験空しからで、克ちに勝ちしかば、あわれや敵衆か潔くこの沼に入りて死にけり。この1路をば故郷に告げもし、後の世に語り伝いさぎよえもせよと、60人の1人をイウシテクンベ(又はイウシテクルとも、譚を語はなしり残す者との意)を逃れつかはす。…中略…59の怨霊あればチホマトウとは呼べり。チホマは禍を蒙るべき心にて、トウは沼なり。」
(吉田巖『愛郷誌料第1巻』より)

チョマトー古戦場の標柱と中村要吉夫妻

チョマトー古戦場の標柱と中村要吉夫妻

なお、このほかチョマトーは、北見アイヌの掠奪軍が攻めて来て十勝アイヌと戦った古戦場である、という別伝もある。

昭和2年(1927)に、帯広史蹟保存会が「チョマトー古戦場」の標柱を建立し、さらに35年(1960)には、チョマトー碑建設委員会が「血妖魔沼戦没者慰霊碑」を建立した。そして、48年(1973)以降は、ウタリ協会帯広支部が中心になって毎年チョマトー慰霊祭を行っている、なお、平成12年(2000)までは、簡略化した儀式で行われていたが、13年9月には、先人の霊をまつる本格儀式「イチャルパ」を復活した。

アイヌの生活

コタンについて

アイヌ民族は、かつてコタンと呼ばれる集落で生活していたが、アイヌ本来のコタン=自然コタンの戸数は、1つのコタンで数戸から多くても10数戸であった。

『北方文化研究14、1981』所収の「十勝平野におけるアイヌ集落の立地と人口の変遷―江戸時代後期を中心に―」を著わした羽田野正隆は、その中で十勝平野におけるコタンについて「アイヌの自然コタンは、生業と生活を安定的に営みうる河川の中下流域の河岸地形上に立地し、とりわけ合流点に最も多く立地した。なお、海浜にもコタンは立地するが、それらは河口や湖口にある場合が多いので、広い意味での河岸立地に含めて考えてよいだろう」と述べている。

そのころ、川は交通路としての役割を果たしていた。そのコタンの回りには、イオルという狩りや漁や植物採集をするための決められた場所があった。そして、コタンコロクル(村長)を中心に、狩りや漁、採集、家屋の建設などの共むらおさ同作業、祭祀・儀礼などを行っていた。安政4年(1857)の『入北記』に「ヲベレヘレブ村18軒、男35人、女48人」とある。その周辺のことについては、次の如く記している。

「ヤムワカヒラ村、5軒、男14人、女17人」
「イカンベツ村、10軒、男17人、女27人」
「チロト村、7軒、男13人、女16人」
「ヘッチャロ村、1軒、男2人、女4人」
「シカリベツブト村、5軒、男9人、女14人」
「オトフケ村、13軒、男32人、女37人」
「メモロ村、6軒、男17人、女8人」
「サツナイ村、10軒、男23人、女17人」
「トッタベツ村、2軒、男3人、女6人」

ただし「フシコ」「ウリカリ」「パラトウ」「ヌエヌンケ」については記述がない。そして、十勝31ヵ村の戸数は2601軒、人口は1,251人、男619人、女632人、山惣乙名はオベレヘレブ村のシラリサ、浜惣乙名はヒロウ村のハエベクと記している(『安政4年箱館奉行掘利熙随行録、蝦夷地・樺太巡見日誌、入北記、玉蟲左太夫著』北海道出版企画センター1992より)

明治18年(1885)から十勝ではいわゆる「勧農」が開始され、各地のアイヌを十勝川や音更川・利別川沿いの10数カ所に集めた。そして、伏古や音更などには、大規模なコタンが作られた。当然のことながらそれは、本来的なアイヌの社会組織を兼ね備えたものではなく、また川筋集落を単位とするイオル(漁猟圏、採集圏)の崩壊でもあった。その後、時代の推移の中でコタンは変化し、徐々に消滅していった。

生業と食物

狩猟 そのアイヌ民族は、秋から早春にかけてトリカブトの根から採取した毒を用いた弓矢による猟を盛んに行った。その対象になったのは、エゾシカ・ヒグマ・キタキツネ・エゾユキウサギ・クロテンやマガモなどであった。なかでもエゾシカは数多く捕獲され、肉は食料、毛皮は衣服などとして大事なものであった。また、シカ皮やシカ角、クマの毛皮や胆のう、キツネの皮、テンの皮などは、和人から交易品(鉄鍋・小刀・漆器・煙草など)を得るためにも必要とされた。

マレク(幕別町蝦夷文化考古館所蔵)

マレク(幕別町蝦夷文化考古館所蔵)

漁労 鱒や鮭などが溯上する時期には、マレクという突鈎などを用いた漁を行った。丸木舟(チプ)は、漁労にも用いた。小川などでは、ウライ(小川に木を並べて水をせき止め、一部だけ流れをあけて魚を捕る)によって様々な魚を捕っていた。

(植物採集) 植物については、春から秋にかけて主に女性や子どもたちがオオウバユリ・フキ・ニリンソウ・ギョウジャニンニク・ヨモギ・ヤブマメ・エゾエンゴサク・ヒシ・エゾテンナンショウ・ヤマブドウ・クルミなどを食用や薬用として採集し、サラニプという編み袋に入れて持ち帰った。保存可能なものは、冬の食料として天日乾燥して保存した。

(農耕) 十勝の昔のアイヌの人たちは、集落の近くで粟・稗などを若干補助的に栽培して、粥や団子にしかゆたりして食用に供していたことが分かる。

なお、日常の食事の中では、オハウとサヨが基本的な料理であった。オハウは魚や鳥獣肉・山菜などを鍋に入れ塩で薄く味付けし獣魚油を入れたものであり、サヨは稗・粟などやギョウジャニンニク・ウバユリの繊維質・筋子などを入れたおかゆであった。

チセ(住居)の内部(「十勝日誌」松浦武四郎より)

チセ(住居)の内部
(「十勝日誌松浦武四郎より)

住居

アイヌ民族の平地式の住居はチセと呼ばれ、平面上ではほぼ長方形で、屋根は寄棟造りであった。十勝の場合、大きなものでも幅6メートル、奥行9〜11メートル程だったといわれる。柱や骨組みの木にはハシドイやカシワ・ヤチダモ、また屋根や壁にはヨシやカヤ・ササ・樹皮などを用い、柱をつなぐにはぶどうの蔓などで縛った。

アットウシ(幕別町蝦夷文化考古館所蔵)

アットウシ
(幕別町蝦夷文化考古館所蔵)

衣服

十勝のアイヌ民族の衣服について記述している最も古い記録は、M・Gフリースの『日本北東航海旅行記』である。それには「1643年に、オランダの探検家フリース1行の船が十勝沖で会ったトカチアイヌは、荒い麻布を着、その上の衣服は毛皮製であった」(『1643年アイヌ社会探訪記』雄山閣、昭和58年より)と記されている。

その後の記録や伝承などから十勝の昔のアイヌの人々は、獣皮衣や樹皮衣・木綿衣・外来衣などを用いていたことが分かる。獣皮衣は、ヒグマ・エゾシカなどの毛皮を利用したもので、おもに防寒用であった。このほかシカの皮やサケの皮で靴(ケリ)を作ったり、シカの毛抜皮を下着にしたり、シカの皮で猟の際に持っていくための小物入れを作ったりした。また、毛皮類は、寝具や敷物としても利用された。

樹皮衣は、アットウシと呼ばれ、オヒョウなどの内皮を沼や温泉につけてから採取した繊維を用い、手製で作った着物である。はた織り機は本州のものと類似しており、それらの器具はほとんど手製品であった。儀式用として仕立てられた着物には、切伏・きりぶせ刺繍が施された。木綿衣は、交易や漁場の報酬な どで和人から入手した木綿の古ぎれや布を仕立てた着物である。十勝では刺繍だけを施した着物と黒や紺の細い布を切り伏せし、その上に刺繍を施したものがあった。

また、カラフト経由で大陸につながる交易経路を通して得られた中国の官吏服(これは山丹服あるいは蝦夷綿と呼ばれる)を儀式等の際に着ることがあった。松浦武四郎は、十勝のニトマフ(小川)の所で乙名の出迎えを受けたが、その時の人舞ことを「乙名アラユクなる人物は、当年74歳の老翁で、このときには大形の萌黄どんすの広袖の着物の上に、山靼錦(きんたんにしき・中国製の錦)の陣羽織といった正装であった」(『十勝日誌、安政5年(1858)』訳者丸山道子、1977凍土社より)と述べている。

なお、アイヌの人々は、様々な儀式の際に装身具を身につけ正装をした。男性は頭に幣冠をかぶり、刺繍が施された着物などを着て儀式用の刀を帯び、刺繍の入った手甲や脚絆をつけ、耳飾りをした。女性は鉢巻を締め、刺繍の入った晴れ着を着、耳飾りや首飾りなどをして美しく着飾った。さらに手甲、脚絆もつ けた。裁縫は女性の仕事で、縫糸はイラクサやツルウメモドキの靭皮を使用していた。

口承文芸

アイヌ民族は、かつて独自の文字を持たなかったので、様々な伝承は口から口へと語り継がれてきた。十勝の場合、こうした口承文芸には、サコロペ(英雄詩曲)・オイナ(神謡)・トゥイタク(説話)・ウチャシクマ(起源話)などがある。

・サコロペ…これは節をもった語りものであり、英雄物語などともいわれる。
おもに男性が節をつけて語っていく。道東ではサコロペと呼んでいるが、他地方でいうユカラがこれにあたる。内容には種々あるが、例えば孤児の少年オタスッウンクルは、兄姉に養育され、長じては同族を率いて敵方(沖の領域のレプウンクル)との激戦で倒れいったん死ぬが、美しき少女の息吹きによって生き返り、苦闘の末に故郷に凱旋するという内容のものがある。サコロペは、酒宴等の席では夜を徹して吟じられる場合がある。

ユカラ(十勝地方ではサコロペがこれにあたる)は、少年英雄が活躍するアイヌ民族の英雄叙事詩として知られるが、そこではレプンクル(沖の人)とヤウンクル(内陸の人)との戦いがモチーフ(動機)になっている。この2つの集団を和人とアイヌに比定する考えもあるが、榎本進は知里真志保の考えを発展させて、オホーツク文化人と擦文文化人との異民族接触、抗争が投影されたものと理解できる、としている(『北海道近世史の研究』榎森進著1997北海道出版企画センター、参照)。

・オイナ…これはアイヌ民族が信仰する動物・火・雷などのカムイやサマイクルカムイ(文化神)が主人公となり、体験談を語っていく神々の物語である。聞き手はこうした内容を通じて神々の性格や人間との係わりあいを知ることができる。日高北部から道南地方にかけてはカムイユカラといわれるが、十勝を含む他の地方ではオイナとかマッユカラと呼ばれる。主として女性が伝承し、節をつけて語られる詞曲である。

・トゥイタク…これは節をつけず普通に語っていく昔話であり、身の上話や体験談・滑稽話・奇談などがある。生活の訓話や道徳が盛り込まれているのがこっけい特徴である。記録に残る十勝の伝承者は数多い。

・ウチャシクマ…起源話であり、平時の談話体で語られる。トゥイタクと異なり、事物の縁起、地名の由来などを主としている。十勝には「サツナイの由来」や「ポロシリの伝説」などの伝承がある。

これらの外に、恋慕の情などを即興的に歌うヤイサマ(抒情歌)や祭りの際に歌われるロクウポポ、古式舞踊のリムセで歌われるウポポも口承文芸として伝承されてきた。

総じてアイヌの口承文芸の基調をなしているのは、カムイ(いわゆる神)とともに暮らす篤い信仰心であり、カムイと人間の心的交流が脈うっている。

入植者の経緯

十勝国・7郡設けられる

明治新政府は、明治2年(1869)に蝦夷地を北海道と改め、開拓使を設け、国・郡に分けた。そして、場所請負制は廃止された。この時、十勝場所は十勝国となり、広尾・当縁・十勝・中川・河東・河西・上川の7郡に分けられ、帯広地方は河西郡に属した。また、杉浦嘉七は場所請負人を免ぜられて漁場持と なったが、その経営内容は以前と変わるものではなかった。

明治2年8月、十勝・中川・河東・上川の4郡は静岡藩に、広尾、当縁・河西の3郡は鹿児島藩にゆだねられた。間もなく鹿児島藩は3郡支配をやめ、そこは徳川家直系の一橋家および田安家の所領となり、十勝国はすべて徳川家一族の領地となった。帯広の地は一橋家の支配下に入ったが、そこはまだアイヌ民族 の天地であった。

静岡藩は4年6月、十勝最初の移住農民6戸7人ぐらいを大津近辺に入植させたが、同年の廃藩置県、開拓使直轄に伴って静岡藩の支配は終止符を打ち、移住農民も帰国してしまった。

なお、同年に来日したケプロンをはじめ開拓使お雇い外国人の中には、かなり米国人がおり、また一時期開拓使留学生の多くがアメリカ合衆国に渡った。かくて開拓使の黒田清隆のもと、アメリカ合衆国が北海道開拓のモデルとされ、近代化が推進されることになる。

開拓のさきぶれ

開拓使時代に行政所属は目まぐるしく変化したが、明治13年(1880)には、茂寄村に広尾・当縁両郡各村戸長役場が設置されるとともに、大津村に十勝・中川・河西・河東・上川各郡各村戸長役場が開庁した。また、この時代に測量隊による十勝内陸部調査や大判官松本十郎の巡視、アメリカ人ライマンの地質調査、御用掛田内捨六・内田(さんずいに靜の字)の交通路調査などがあり、さらに13年以降のトノサマバッタによる被害(蝗害)処理の施策があった。しかし、それら以外十勝に対する施策は見るべきものがなかった。

明治8年(1875)、若松忠次郎ら和人とアイヌによる計13人で十勝組合十勝漁業組合)を組織、5年を1期として十勝漁場の経営に当たった。しかし、独占的な経営であり、和人の内陸部への入地を拒んだので解放を求める動きが生じ、それは13年に解散、十勝は自由の地となった。すると世の注目するところとなり、大津の戸数はまたたく間に急増、翌年には40数戸になったようであり、さらに数多くの猟師や商人らが鹿皮・鹿角や鮭などを求めて内陸部へと入り込んだ。鹿は12年(1879)と15年(1882)の大雪により至る所で餓死、乱獲もあったが、鹿皮に望みを失った人々の中には鹿角に目をつけ原野 に火を放つ者もいた。

はからずも12年からの蝗害の大発生は、十勝内陸部が広野であることを内外に知らしめ、また内陸に入った商人や猟師らの中に、利別太などで無願開墾に従事する人たちも現われた。依田勉三は、14年に十勝沿岸部を視察、大津で内陸部への開拓者の移住計画があることを耳にして強く心を引かれたのであろう。静岡県松崎村に帰郷した勉三は、早速兄佐ニ平以下の一族の賛成を得て15年1月、開拓団晩成社(社長、依田園)を組織した。

この年の2月に開拓使は廃止され、十勝国は札幌県に属することになった。同年6月勉三と同志鈴木銃太郎は、入植地の選定と諸準備をするため渡道し、札幌県庁などに立ち寄ってから十勝内陸部を踏査、音更のモッケナシの馬場猪之吉の所にいた大川宇八郎の案内を受けたりして同年7月16日、アイヌの人々が住むオベリベリを有望の地として入植地に決定した。銃太郎は、オベリベリに残って翌年開拓団を迎えるため作物の試作等の準備に入り、勉三は、札幌県庁などに寄ってから帰郷、渡邉勝とともに移民や株主募集などに奔走した。

晩成社入植とアイヌの人々

鈴木銃太郎

鈴木銃太郎

明治16年(1883)4月、依田勉三ら13戸、27人の晩成社の人たちは、鈴木銃太郎が待つオベリベリ(下帯広村)に向けて横浜港を出帆、5月に苦労の末やっとたどり着き、開拓の鍬を打ちおろした。同年秋には、銃太郎の父親長が、渡邉勝の妻となった娘カネと勉三の弟文三郎を伴って開拓団に加わった。この晩成社は、いわゆる明治13年亀田郡に入植の開進社、14年浦河郡に入植の赤心社とともに、北海道における民間の企業経営の結社移民として、その嚆矢ともいうべきものであった。

晩成社入植時、その近辺つまり今の水光園辺りから東4条南5・6丁目の方にかけては、アイヌの人たちが10数戸約50人と国分久吉らが住んでいた。しかし、アイヌの人たちは晩成社の団体入植に不安を感じ、この地から1人2人と去り、遂に翌年村長モチャロクを最後に全員この地を去った。

明治16年の晩成社による開拓開始は、オベリベリにおける新たな開拓・開発代の幕開けであった。同時に、アイヌ民族にとっては伝統的な経済基盤イオル(狩猟・漁労・採集圏)などの喪失の始まりであった。

晩成社の人たちは、本州とは異なる亜寒帯の気候風土等にとまどいながら開拓に立ち向かったが、困難を極め1年目に早くも将来に絶望して耕夫3戸が逃散、翌年には早くも8戸ほどにまで減少、晩成社は衝撃を受けた。そのような中にあって、移民の後が続かず近辺からアイヌの人たちが晩成社を訪れて小屋作り・新墾・再墾・播種・除草・収穫等の開拓の仕事に従事協力した。まさはに、和人とアイヌ協調なかりせば開拓なしであった。なお、そのころ晩成社は豚や山羊を飼ったり、耕馬を入れたり、澱粉を試造するなどの努力も重ねたが、事業は不振を続けた。

アイヌの生活については、鹿の減少と鮭の繁殖を図るための保護区域の設定などにより、窮乏が目立ってきた。そこで明治18年(1885)、札幌県は伏古村伏古別、芽室村毛根、音更村下音更、白人村咾別などを選び、そこにアイヌを集めて営農指導を行った。伏古村の勧農係は富山県出身の宮崎濁卑であったが、十勝におけるその指導は21年度で打ち切られた。