帯広市史 農業

農 業

移住と開拓

原野の開拓

十勝の東部を割り当てられた静岡藩は「十勝開業方」を設置し、堀小四郎を責任者として、御用取扱白野夏雲ら手付を任命された。始め10人、後に12人に増員された。明治3年6月以降は十勝に3カ所、中川郡2カ所、河東郡2カ所、合計7カ所に麦・大麻を試験的に播種したり、またアイヌに種薯を与え、耕作器具の貸し出しなども行っている。

当初の移民計画は6戸13人であったが、実際に十勝入りしたのは6戸8人にすぎなかった。十勝開業方は移民による農業開拓が困難なので、アイヌに農業を勧めたが、これもようやく2戸が就業したにすぎない。この静岡藩の移民団は十勝最初の開拓団体である。

晩成社移民団が下帯広村オベリベリの開墾地に入る直前の明治14年、開拓使に報告されている十勝国の畑の総反別は2町2反余であった。この数字は維新当時のものと、あまり変わりがない。請負人・漁場持・十勝組合が部外者の入地起業を禁じていたことと、十勝に対しては開拓使行政が及ばなかったためである。河西・中川・河東・上川の4郡は、まだ統計上の耕地というものがない。


黎明期の農業

(晩成社移民団の事業)

晩成社の依田勉三鈴木銃太郎は、札幌県庁に出頭して北海道開拓の意志を伝えたとき、札幌近郊の苗穂に入地を勧められた。しかし、これを振り切って1万町歩を開墾する土地を十勝川流域に選び、取りあえず札内川と帯広川が合流するあたりに100万坪(約330町歩)を出願した。札幌県勧業課の第2回年報(明治18年刊)には、入植当時の晩成社を、次のように評価している。

移住民概況
地所ノ選定ヲ誤リ、大津駅ヲ距ル10余里、道路開ケズ、僅ニ丸木舟ヲ以テ大津川ヲ上下シ、水程屈曲20余里、往来運輸頗ル不便ニシテ、事業ノ極メテ困難ナルモノアリ。即チ十勝国河西郡帯広村ニ移住セシ、静岡県人是ナリ。以上列記スル所ハ、其計画宜キヲ失フモノニシテ(以下略)

明治16年の終わりに、札幌県庁では、このように判断していたのである。この指摘にもあるように、地所の選定を誤ったがために、交通運搬が極めて不便で、事業の成果は気象条件もさることながらまったく上がらず、このままでは、おそらく早晩この団体は解散するであろうと想像していた。

だから100万坪の要求は保留し、改めて50万坪とし、明治17年9月に再提出した。その結果許可されたのは18年1月になってからで、最初の2割にも満たない少ない面積であった。

札幌県ではこの程度の面積で十分と判断したからである。

願之趣地所13万坪、本年ヨリ向3ヶ年間假ニ下渡候条、毎年墾成反別有無トモ、11月30日限リ可屈出事。
但追テ道路新設スベキ地所ハ、実測ノ際削除スルコトアルベシ。

晩成社の事業は多難を極め、当初はほとんど見るべき成果を収められなかった。札幌県は無為無策に近く、かなりの意欲を示した北海道庁になってからも、その行政効果が十勝国に及ぶまでには、なお数年間を待たなければならなかった。そうした悪条件下にあって、1000古未開の原野を開墾しようとしても、それは不可能に近かった。

「農旗ヲ建ツル事5年矣、其間凡テ敗事多ク、1ノ記スベキモノナシ」とは晩成社履歴中の悲痛な文章である。

晩成社の作物が、どうやら採れるようになったのは明治20年あたりからである。豆、馬鈴薯、麦などの適地作物に重点を置き、不適作物は除外した。同年の農事は次のとおりである。

これはあながち、下帯広村晩成社の農業経営が安定したことを意味してはいない。その前年依田勉三は下帯広村開拓をいったんあきらめて当縁郡生花苗(オイカマナイ)に去り、牧場を創設するかたわら、振り出しに戻って十勝向きの作物選定のための試作を始めた。また、渡邉勝・鈴木銃太郎の2幹事は同じ年、これも下帯広の集団開墾に見切りをつけ、高橋利八とともに西士狩村の農場開発に着手した。そこで明治20年の下帯広村耕作者は、山田勘五郎・山本初二郎・山田彦太郎の3戸に、西士狩村出作組の3戸を加えた6戸に過ぎず、従って圃場は作り捨てに近い荒れ方であった。そのことは、たとえ冷害に見舞われたとはいえ、最適作とみられる大豆の1斗6升、小豆に至っては7升という乏しい反当たり収量が裏書きしている。

こうして、晩成社の下帯広村開墾は足踏みを続け、いわば意地づくで、ほそぼそと命脈を保つことになる。

明治25年(1892)10月、北海道集治監典獄大井上暉前は十勝分監新設のため、釧路分監長八田哉明らを従えて売買原野を視察しているが、その際晩成社の依田勉三・渡邉勝・山田彦太郎が同行している。これは晩成社出願地と分監用地との調整のためであった。結局、晩成社は、分監用地に南接した地域、南8線と9線の間、西4号線から札内川畔に至る20余万坪の貸し付けを受けた。後年、北海道製糖(日本甜菜製糖の前身)が工場を建てた下稲田のあたりである。

晩成社上売買農場に対して「下売買農場」の名があるが、これは下帯広村に所在していた。帯広市内東4条線以東、13丁目以南、南東部を売買川で限った30数万坪のことである。

晩成社の事業は、どの角度から眺めてみても成功したとはいいがたい。むしろ苦難の連続であった。

無願開墾

明治10年代の当初、十勝奥地の開拓気運がようやく動きつつあった。アイヌ相手の行商人たちは、鹿の皮・角による利益を失うと、各地に定着の気配を見せ始め、中には沃土を求めて無願で開墾する者も出てきた。ことに十勝川畔の肥沃な所々には、和人の住居が点々と見られるようになった。

明治21年(1888)の殖民地選定、その後の殖民地区画事業を経て、やがて未開地貸し付けになるが、同26年(1893)道庁は移民の配置方針を定めて、道内の先進開発地から順を追って開拓させることにしたため、十勝の殖民地は貸し付けが停止され、一部の除いて同29年まで解除されなかった。

そこで十勝の無願開墾者は増える一方となり解除直前の29年3月現在では356戸、1364人が約800町歩を耕作していたという調査結果の報告がある。

さて、無願開墾とはどういうことをいうのか。移民が正規の土地貸し付け手続きをしないで、勝手に開拓することであるが、規則的には明治以降北海道は全て国有地になった。しかし道庁は移民促進のために、全道の開拓に適当な原野を殖民地に選定し、1戸5町歩規模を拡大した殖民地区画測設を実施した。26年以降は土地払下規則による貸下地は、区画測設後毎年指定公示することにした。この公示以前に勝手に入植した者は、出願しても貸下許可を得られない。許可を得ない入植者はつまり無願開墾者であり、土地に対する権利は法的に保証されなかった。

こうした無許可の開墾者は全道に存在したが、とりわけ目立ったのが十勝である。

例えば中川郡利別太、咾別、河西郡伏古別、広尾郡紋別などが大量の無願開墾者が入地している。明治24年(1891)北海道移民奨励の宣伝をうけて、香川県奨励会あるいは徳島県の南海社が組織され、無許可無願開墾もしくはこれに近い状況のもとに、十勝に移民として来道している。このほかにも両県から伝手を求めて移住するものが多く、現在の幕別町の土台はこのような無願開墾者によって築かれたものであり、正規の団体ではなくても、自らは団体移民と称して開墾を続けたといわれている。

無願開墾は正規の手続きを経ないだけに、通常の統計や公文書では数字を正確に把握することはできない。しかし今までの部落(集落)単位の調査から推定してみて、少なくとも29年調査の3倍以上の戸数があったことに違いない。

(旧土人保護地)

明治18年(1885)に始められたアイヌに対する農業授産施策は、札幌県が設立した十勝の担当者は栂野四男吉で、晩成社の入地についで内陸開発の第2の拠点となった。下帯広村の西に接した伏古別原野の旧土人保護地は74画261町6反歩余(明治31年調査)で、これは十勝で最大のアイヌ開墾地であった。伏古の世話係は宮崎濁卑が当たった。官(札幌県)は、それまで散居していたアイヌたちを集め、農具や種子を与え、世話係をつけて指導に当たった。漁猟の民であったアイヌを、一挙に農民に変えようとの計画であった。だが約50戸のほとんどは、勤勉な農耕者にはならなかった。1戸平均1町歩ないし2町歩を耕作していたが、次第に農業から離れ、男たちは漁夫や人夫になって出稼ぎにでた。畑の方は1反ないし5反歩を主として女と老人が耕し、あとは和人に貸した。明治32年「北海道旧土人保護法」によって1戸当たり5ヘクタールの給与地を得たが、この傾向は改められなかった。小作料は明治30年ごろ、反当たり1円程度であったという。当局の性急な指導は彼らの習慣を改めることができず、農業授産はほぼ失敗に帰した。

帯広伏古コタン(大正期)

帯広伏古コタン(大正期)


帯広周辺の保護地は、前期伏古別原野のほかに、芽室太・下音更・毛根・札内・白人・咾別・止若・下利別・利別太などがあった。いずれも第1等の肥沃地である。しかし、考えられないような小作契約まで出現したので、アイヌ地には悶着が絶えなかった。この小作争議に限っては、小作人が強く、地主が被害者であった点が特色である。戦後もこの種の係争が続出したが、新しい農地法が古い旧土人保護法に優先するということで終止符が打たれた。アイヌ地主の敗訴であるが、所有権とは別に、社会問題もしくは人権問題として、まだ未解決のものを残している。

それはともかく、明治20年代から30年代にかけて、十勝の移民たちの中には、アイヌ地を小作して食をつないだ者が少なくない。

開拓の進展

(殖民地選定)

初期の開拓者(明治45年、下居辺

初期の開拓者
(明治45年、下居辺)

明治21年(1888)殖民課の内田 ・柳本通義らは、5月から10月にかけて、十勝国の原野を跋渉調査し、この結果を24年3月に北海道庁第2部殖民課より「北海道殖民地撰定報文」として発刊された。これによると帯広関係の原野名はヲビルビルップ、ウエガリップ、シヨモップヌ、ヌップコマップ、ニヨロマップの5原野であった。しかしこの原野名は後年まで踏襲さとうしゅうれなかった。明治29年(1896)の第1次開放のころにはさらに分割された。撰定された殖民地は、次に区画割が施され、これを「殖民地区画」と呼んだ。十勝国の第1次区画は明治25年5月に行われている。しかし十勝原野はあまり広大なために1年で区画測量できず、取りあえず十勝川沿岸の交通のよい肥沃地についてのみ実施した。

区画測量は明治25年6月、下帯広村を起点として実施された。後に石狩通りとなる仮道と、後に大通りとなる線の交叉点を基点とし、東西に幅6間の基線を、南北に幅4間の基号線をとり、300間おきにこれと平行する道路予定地を取った。基線(零線)に平行するものが南または北何線とし、基号線(1号)に平行するものを西または東何号とし、大津市街近傍から芽室の毛根に及んだ。東端は大津村の61号、西端は芽室毛根の35号、帯広近辺の北端は音更および然別の9線、南端は売買村の9線であった。また、900間4方を大画、300間4方を中画とし、中画をさらに6等分して100間に150間の小区画を設けた。この1万5000坪(5町歩)の小区画地を、通常、移民1戸分の貸付地積としていた。田畑5町歩を、今でも「1戸分」と言いならわしているのはここから来ている。それぞれの中画の間には、幅6間ないし15間の道路敷地が用意され、状況によっては市街地・公用地・風防林地などを予定して貸付対象地から除外した。

しかし道庁では間もなく先進開発地から開拓を進めることを決めたため、十勝の貸し付けは一時停止された。このため無願開墾の1因ともなった。

農業移民を大量に入れるには、その前提として農業気象を知るため、明治25年(1892)1月、下帯広村に道庁内務部農商課所属の十勝3等測候所が開設をみたのは、そのためであった。翌26年4月、十勝2等測候所となっている。

また同じ明治25年、下帯広村には北海道集治監釧路分監の仮監が置かれて十勝内陸最初の道路工事がはじまり、帯広郵便局が開設をみた。これは、河西郡下への移住がほぼ可能になったことを意味している。

明治26年5月には大津街道が河西郡美生村(現在の芽室町)まで開通、6月にはそれまで大津村にあった十勝・中川・河西・河東・上川の5郡各村戸長役場から河西以下の3郡19村を分離、下帯広村に3郡各村戸長役場を置くこととした(ただし、その開庁式は翌年2月になった)。なお官設帯広駅逓所も開設した。

明治27年(1894)1月になると、帯広市街予定地の貸し付けがはじまり、下帯広村は十勝国における殖民地中心の性格を明らかにした。道庁殖民課員の出張所も同村に開設された。こうして受入体制は着々と整えられていった。

28年4月、北海道集治監十勝分監が開庁するに及んで、下帯広村およびその周辺の好景気と有望性とは道の内外に喧伝されて移民の数はようやく増え、農業希望者は土地貸付停止中のため一時小作や日雇いで時をしのいだが、任意に開墾する者も多く、この年度だけで多数の無願開墾者を出した。

同年6月の十勝農事試作場開設は、入植準備の完了を告げたかのごとくであった。諸準備はまったく終わり、しかも現実に移民は次々と流れ込んでいた。殖民地の貸付停止解除は、ほとんど既定の事実であった。土地の貸付事務を執るための拓殖課十勝派出所が開設されたのも、同年11月であった。このような経過をたどり、しかる後に明治29年1月1日、十勝国の殖民地が開放の運びとなった。この地方の開発が本当に軌道に乗るのは、この29年以降のことになる。

(殖民状況調査)

明治29年(1896)に下帯広村に北海道庁殖民課員出張所が設けられ、十勝の原野が移民に開放されてからは入地が相次いだ。30年(1897)には北海道土地払下規則が廃止され、新たに「北海道国有未開地処分法」が制定された。同法では、開墾・牧畜・樹などに用いる土地は無償で貸し付けし、成功後に無償で給与された。これによって、一般移民の土地取得が容易になり、しかも1人に貸し付けされる面積が開墾地150万坪(500町歩)、牧畜地250万坪、植林地200万坪以下と拡大され、移民の増加に結びついた。

その後、移住者の増加に伴って、この殖民地区画選定事業の意図した計画がおおむね着実に実行に移されていった。十勝管内の各地域に農業集落の体制が次第に形成され、農業生産と商業経済の交流も深まり、町村としての形態とその規模を年とともに整えまた発展してゆく。この明治29年を基準とすると5年後の同34年では耕地面積で7倍、また10年後の同39年では13倍、44年は20倍に達しており、異常なほどの進展を見せた。この年には5万6600町歩に達している。また農家戸数は同34年は5770戸、5年後の39年は7510戸、同44年は1万700戸に急増している。

最初は十勝川とその支流流域から開拓が進められたが、やがてその周辺の台地にも及び、瘠薄な火山灰地の不利な条件を克服しながら開拓が進められていった。明治40年(1907)に道央と連絡する鉄道が開通して、農作物輸送が円滑化され、さらに新しく移住してきた人たちによって飛躍的に開拓が進められた。移住者ならびに耕地面積は、日露戦争中から戦後にかけて急増した。

(耕地の拡大)

明治30年代前半は、主に手起こしに頼っていて、肥沃な川沿い地帯を開墾した時期である。明治35年(1902)には上帯広村178町歩・幸震村319町歩・売買村326町9反歩であった畑は、4年後の39年には上帯広村324町2反歩・幸震村969町6反歩・売買村912町9反歩と短期間に2倍から3倍の伸びを見せている。

一方十勝管内における豆作偏重の弊害はすでに顕著であった。明治33年度販売作物の首位は大豆の4,300町歩余・5万3800石、第2位が小豆の610町歩・4,730石であったから、あとは押して知るべしである。35年度の大豆作付面積は畑全体の4割9分という事態を招き、この傾向はなかなか改められなかった。39年開業したばかりの帯広停車場から積み出した農産物は合計14万俵に達したが、そのうち黒大豆が4万6000俵、その他大豆が7万9000俵を占めていた。まさに豆の王国であった。

大豆は作りやすく、しかも価格が安定していたから、盛んに作付けされた。

道立十勝農業試験場(芽室)

道立十勝農業試験場(芽室)

北海道庁地方農事試験場十勝分場(明治34年)

北海道庁地方農事試験場
十勝分場(明治34年)

(大豆の産地)

十勝の大豆は、初めは黒大豆を主としていた。早生黒大豆と中生黒大豆との2種があった。白大豆の作付けが増加し始めたのは明治30年(1897)代後半のことである。白大豆には青白(通称「吉岡」最も早熟な品種で「8月子《はちがっ子》」の別名があり、市場に早く出荷できるため高値に売れるが、反収が低いので作付反別は少なかった)白小豆(「石狩白」とも称し、十勝としては中熟種に属している。黒大豆に比べると成熟期がやや遅いが、年によっては収穫量が多いので作付けするのも多かった)、黒味中粒(晩熟種、高温の年には収量に恵まれるが低温の年は必ず減収となるので作付反別は少なかった)などがあった。

黒大豆から白大豆に転換していった理由は、品種改良が進み、次第に風土に適応するようになったからである。白大豆は黒大豆より高値に売ることができたから「同じ収穫があるなら―」と、農民の関心が方向を改めたのは当然であった。さらにようやく顕著となってきたマメシンクイガの害に対抗する消極的な手段でもあった。黒大豆の「口欠け(くちかけ)」すなわち虫食い粒はいかにも目立つので値段をたたかれやすいが、白大豆の「口欠け」は黒大豆に比較して割合にごまかしがきくという利害に絡んだ事情もあった。十勝の大豆の躍進ぶりを数字で眺めてみよう。明治30年1203町歩、33年4335町歩、35年7447町歩、38年1万2765町歩、40年1万6820町歩。

総反別の約半分が大豆畑であり、38年の反別は全道大豆作付反別の3分の1に近かった。年々開墾が進められていたから大豆反別の伸びは不思議でないが、この傾向は長い間改められることがなく、明治44年には2万3725町歩となった。(農林省「北海道農業累年統計表」昭和33年)十勝の大豆反別が、わが国の主産地にまで伸張したのには、別な理由もあった。農業適地の約8割を占めている高丘地に畑作が経営されるようになったことが、大豆反別の拡大に大きな役割を受け持った。高丘地は立木が河川流域よりも少なく、土壌は火山灰のため軽いので農作業が容易であり、やせた土地においても収穫をあげやすい大豆を広面積に作付けするのに好条件を備えていた。また広面積経営に付きものの農耕馬飼料には、大豆稈が格好のものであった。水害を受けないことも魅力であった。上帯広・幸震・売買の3村は、その大部分を高丘地で占められていたから、右のような営農傾向が、そのまま当てはまっていた。

(経済変動)

大農牧場経営者(その大部分は不在地主)は例外として、一般入植者の場合は、そのほとんどが小資本によるものであった。初めは自分の農業だけでは生計を維持することができず、日雇い・炭焼きなどの副業でわずかに口をすごした。従って初期入植者にあっては、明治34、5年までは困難な生活に堪えなければならなかった。それが明治35年(1902)の凶作を境として、36年からはこの地に馴れて、営農技術が進歩し、収量が安定するようになった。そこに道路網が次第に整備され、鉄道が通ずるに及んで、十勝の農村経済は一変した。日露戦争景気で一般物価が高騰した影響もあるが、それよりも輸送費軽減に伴う穀物類の値上がりが、農民のふところを大いに潤した。いずれにもせよ、明治40年度まで、農村経済は順調の一途をたどった。

ところが、好況にもかかわらず経営上は破滅に瀕する農家が続出した。明治39年、40年ごろは、農家収入が増加して個人経済に余力が生じ、農地の価格が急騰した。この時期に家屋を新築した者が多いが、その程度では飽き足らず、土地売買に狂奔する者が各地に見られた。だが買えばもうかり売ればもうかる時期は短かった。明治41年の大豆の害虫キタバコガの大発生による虫害は、収穫皆無に近い惨状をもたらした。大豆は十勝としてはほとんど唯一の販売作物であったから、農民の受けた打撃は致命的であった。続いて43年も不作、ために帯広市場の商況も極端な不振に陥った。それらは必然的に金融の切迫をうながし、地価を暴落させた。このとき倒産者・離農者が相当数出た。明治時代は、こうした不況をもって終わりを告げ、その余波は大正2年(1913)の歴史的な大凶作にまで及んだ。

(大正期)

2年の窮状

十勝の農民は、日露戦争による多少の好況に酔い、土地熱に浮かされて投機事業に狂奔したのもつかの間で、明治41年(1908)から毎年のように主作物の大豆に害虫のキタバコガが発生、43年・44年には金融情勢が悪化して農地は半値に下落した。このとき営々と築きあげた資産を失って逃亡したものも少なくなかった。これに加えて44年7月の風水害、翌45年(大正元年)の作柄も思わしくなかった。そのあとに、歴史的な大正2年(1913)の大凶作が襲ったのである。5月から6月にかけて干ばつ、それに加えて特に7月26日から28日にかけて、暴風雨で農作物は倒伏し、被害は甚大、7、8月は低温、9月14日には記録的な早い降霜があったりして無惨な状況に経過した。このようなことから作況は全滅に近かった。十勝国の平均反収が黍43キロ、玉蜀黍35キロ、大とうもろこし豆35キロ、小豆20キロ、菜豆47キロ、蕎麦37キロ、馬鈴薯990キロという惨状であった。

豆景気

大正3年(1914)7月に起こった欧州の戦乱(第1次世界大戦)は、たちまちヨーロッパ全土に広がり、8月末にはわが国もこれに参戦することになった。この戦乱でヨーロッパの経済はまひ状態に陥り、農耕地は戦場と化した。

戦争はやがて長期化の様相を呈するようになり、連合軍側に参戦した日本に対しては、軍需物資・生活必需物資の輸出要請が日増しに強まっていった。こうして、わが国の諸産業は空前の好景気を迎えたのである。産業界はために大活況を呈した。この大戦はこれまでの経済界の不況を一挙に吹き飛ばし、3年後には今だかつて経験したことのない好況をもたらした。

大戦当初は全国的に輸出の停滞、生産物価の一時的な低落などの恐慌をきたしたものの、やがて農産物の海外輸出が異常なまでに増大し、これに呼応するように各種農産物価の高騰が著しく、十勝は活気に満ちあふれた。それに加えて農産物の豊作はいやがうえにも好景気をもたらした。こうした世相を背景として、十勝地方には豆成金が大小取り混ぜて出現した。入植以来悪戦苦闘した開墾も、どうやら一段落を告げたところに大正2年の大凶作にたたき付けられ、またもや振り出しに戻った観のあった十勝の農民たちは、ここで一気に経済力を付けることができた。

一般物価の動きは、わが国では米価を基準として上下するのが通例であったが、豆類・でん粉の場合は違っていた。輸出商品である種類の菜豆は極端な騰貴を示した。菜豆(長鶉中長鶉金時)は大正6年(1917)5月には一挙に高騰した。それまで5円より若干上回っていた1俵(60 )の価格が4倍から5倍に跳ね上がったのである。小手亡は5年の11月に18円20銭まで高値となり以降落ち着いたものの、翌6年には23円、大正7年には23円33銭まで上昇した。また、えん豆は大正3年11月から上昇を始め、5年の11月には19円90銭、翌6年3月には23円60銭まで上り詰めた。でん粉は5年11月に12円86銭で、3年の平均価格に比較すると2割増、7年の15円72銭の最高価格でも2.6倍なので、とうてい菜豆類やえん豆には及ばなかった。

いずれにしても第1次世界大戦は自給自足的な開拓農家に、農業に対する自信を付けさせ、自立させたといえよう。大戦を契機に規模の拡大も進み、畜力機械化農業も一段と進歩を見ることになる。

戦後の不景気

大戦景気は慌ただしく過ぎ、その反動の不景気がやってきた。大正7年(1918)11月、さしもの世界動乱も休戦となり、翌8年6月にはドイツが講和条約に調印した。わが国の好況はそれでもなおしばらく続いた。戦勝景気・平和景気への期待が業界を支配していた。廃虚と化したヨーロッパの復興には、かなりの歳月を要するはずであった。だがそれら虫のよい希望はことごとく裏切られた。まずヨーロッパ自体の不況が深刻を極め、その戦後生活は戦勝国でも地味であったが、産業復興は意外に速かった。「色豆1俵23円」の声を聞かせたのを名残に1路下降線をたどった。諸物価は底なしに暴落、不動産にも買い手がつかず、投機家、土地師はたちまち色を失った。人々は事態を収拾しようとしたが、金融引き締めのため破産・倒産が続出、十勝地方でも自殺者が出る騒ぎであった。このころ「夜逃げ」という言葉が子どもの世界でも通用した。それでも1度知った金もうけの味は忘れられない。農家の大部分は依然として輸出をあてこんだ豆を蒔き、連作でやせ衰えた畑に1俵(約28 )5円50銭の過燐酸石灰を借金して入れて出来秋を待った。だが大正9年秋には大豆にキタバコガが大発生、おまけに長雨に災いされて凶作となった。しかもその年末には全国を覆う経済恐慌の嵐に、物価はガタ落ちした。大正8年における十勝の大豆平均反収13円30銭が、9年にはただの3円67銭3厘よりならなかった。「豆の売上代金が肥料代に追い付かなかった」というのは、単なる作り話でなかった。このころ十勝でも年々造田事業が進み、大正8年に米2万8000俵ほどを生産して50万5000円の金額を上げたが、9年は稲だけは豊作で反別も伸び2倍を超える5万7000俵ほどを生産しながら、売上は逆に50万2000円余と前年を若干下回る結果となった。

豆作偏重の反省

北海道開拓の基本施策は畑作と畜産である。寒地に稲作を奨励することは当初から考えられていない。大正3年(1914)に第1次世界大戦が勃発するが、欧米の需要に応じて菜豆、えん豆が輸出されるという空前の豆景気に促されて、開拓は一段と活発になる。耕地は河川沿いの沖積土地帯から火山灰の台地へと展開する。大正7年には10万町歩を突破する。増加は菜豆畑であった。

十勝の農業が投機性の強い商業的農業と位置づけられるのは、この第1次世界大戦に端を発している。大戦後の豆景気の崩壊で離農者も続出するが、開拓農家が経済的に潤い、力をつけたのは豆類の輸出に負うところが大きい。十勝の豆類の作付けは、不況後全道の作付けが横ばいになっているのに対して上昇している。畑作農業の位置付けが明確になり、豆類を有利な作物としてとらえているためである。昭和に入ってからは常に全道の2分の1以上の生産量を上げている。

第1次世界大戦は、自給自足的な開拓農家に農業に対する自信を付けさせ、自立させたといえる。大戦を契機に規模の拡大も進み、畜力機械化農業も一段と進歩する。

大戦後は豆景気が崩壊し、世界的な恐慌もあって農業経済も苦しい時代が続くようになる。豆作偏重に対する反省もあり、また、多年の略奪農法による地力低下を認めて、ここでてん菜と乳牛を組み合わせた洋式農業も、本格的に導入しようとする方針が打ち出される。大正9年(1920)には帯広と清水に甜菜製糖工場が建設される。大正12年(1923)からドイツ人農家2家族を招へいし、模範経営を行わしめた。てん菜は明治の中期に栽培されているが、結局技術力に乏しく成立しなかった。大正時代に至ってようやく機が熟したともいえる。

(昭和期)

農業恐慌と凶作

第1次世界大戦後の不況は、やがて戦争好況から金融恐慌へと不況の波を荒だて、中小企業資本はいうに及ばず、銀行の倒産さえも招き、当時の政府は銀行の預金に対して支払猶予命令を出して苦境を乗り越えようとした。しかし昭和4年(1929)アメリカのウォール街に始まった世界恐慌はついに全世界を嵐に巻き込んでしまった。

こうした中で、いわゆる日本の5大銀行が経済界を制覇し、資本の集中独占が進められていた。そしてこのような経済危機を打開する方策として日本が選んだ道が、大陸政策であり、また政策遂行の手段が戦争だったわけである。時をさかのぼるが、大正15年はまれにみる冷害凶作、続く昭和2年も冷害大凶作と不運に遭い、同年ごろから始まった世界金融恐慌による経済不況の波は、間もなくわが国にも押し寄せ、昭和5年を頂点に、経済況と農畜産物価格の暴落によって農村は経済恐慌に陥り、それに追い討ちをかけての6年、7年の2ヵ年連続しての空前の冷害大凶作によって、一挙に苦難の時代へと突き落とされた。

昭和6、7、9、10の4年間は、いずれも全道的な冷害凶作であり、7、10年はこれに水害が加わり、一層被害を大きくした。なお11年は道東地方が凶作となっている。このため農家はそれらの打撃から容易に立ち直れなかった。この北海道の連続凶作は、ちょうど米作奨励普及の時期に当たっていたので、凶作の影響は大きかった。畑作では稲ほどの大きな被害は受けなかったものの、作付比率の高い十勝の豆類は非常に悪く、それに対して麦類、馬鈴薯、てん菜などが平年作にこぎつけた。

凶作の地域差や作物差は、各地の実情に適応した農業経営方式の樹立を促進させる契機となった。

冷害の続発に直面して、農業合理化方針中の冷害対策項目が特に強調された。それは大凶作に遭遇したのは純然たる内地延長の農業を営んできたためであり、北海道の農業経営の基礎を確立するためには、いわゆる北方農業ともいうべき特殊の経営方式を採用することの必要を協調し、造田計画の変更、適作物、安全作物の栽培、小家畜の増殖計画などが提唱された。

(戦時中の農業)

日中・太平洋戦争中 昭和12年度(1937)7月に始まった日中戦争は、当初すぐに終わるであろうと予想されていたにもかかわらず、次第に長引くにつれて農業統制が展開されてゆく。

農業生産統制は、まず国民の食糧作物、軍需、輸出農産物の増産を目的とする計画生産の奨励から始まった。昭和14年(1939)4月、農林省は「重要農林水産物増産計画」を立てて、地方に対して生産の基準数量と増産数量を指示した。道庁ではこれを受けて同年10月「戦時農業生産拡充計画」を樹立、この計画は短期間に立案されたが、北海道における最初の総合的生産計画であり、かつその作物別生産目標数字はこの年以降も引き継がれ、計画の基礎数字となった。そして本計画における農業奨励方針ないしは本道農業の認識は「農業合理化方針」を基本とし、かつ各年の「農業奨励事項」の中に明らかにされてきた。そこで提起された問題として第1に不足を来すであろう労力対策であり、第2に肥料対策、第3にえん麦、亜麻、小麦、玉蜀黍、飼料作物、菜豆、大麻、みぶよもぎについて反収目標を定め、それによる一定生産量の確保を企図した。

これらは生産計画であったが、14年度(1939)には主要作物はすべて時局作物とされ、これまで抑制されてきた水稲についても政府の増産対策に対応して、平年作の1割増収目標が掲げられ、これらが相まって戦時生産統制の前提が形作られていった。

ことに昭和14年度以降、農業指導奨励方針もしくは農作物生産計画に関する方針は、時勢の推移に伴い、かつ農林省の政策とともに一層変化した。15年(1940)の労力足対策については勤労奉仕、共同作業などに関する統制を実施した。また16年(1941)には不要不急作物の作付制限、禁止および重要作物の作付命令などが行われ、指定食糧作物として稲・麦・甘藷・かんしょ馬鈴薯・大豆の作付規制が定められた。

大豆の作付面積の割り当てがあったので極端な変化は見られないが、小豆・菜豆は減少し、えん豆は戦前(昭和10年)の1.2%にしかならなかった。また軍需作物として亜麻とえん麦の作付面積の増加が目立った。

このような統制の積み重ねの上に同年12月「農業生産統制令」が公布された。本令の主旨は国家総動員法第8条の規定に基づき、重要農産物の生産を確保するため、農業に関して行う統制については、本令の定むるところによるとしてあるが、実際には上から計画を割り当てる形となった。

昭和17年度(1942)の生産計画樹立要綱によると、現在国家の要求する農産物すなわち食糧ならびに軍需作物の生産を確保しうる計画であること、従って個々の利益追求は厳しく退け、各戸が真に国家優先の観念に徹底して計画するを先決とするとの目的が示され、そして地帯農業の確立や地力維持、増進などを主眼とする本道独自の経営法の確立という根本目的は、国益優先の見地に立脚して、当面の目的に一致調整されることになった。

このように農業指導奨励の基本的方針は変化したが、それに付随して続々と食糧確保、増産のための緊急対策が打ち出された。18年(1943)の農業生産計画完遂指導組織の結成、農業団体の統合、皇国農村の建設、土地改良5ヵ年計画、20年(1945)の食糧増産突撃運動、耕地保全緊急対策などである。

そしてこれらの生産統制に対して、流通の統制も着々と進められ、15年の米に始まり16年以降豆類・麦・馬鈴薯などの主要食糧の供出量が割り当てられ、それらは制度化された。ここに至って主要作物の生産計画は供出計画に等しいものになった。

日中戦争が始まって以来の農業は、十勝・北海道を問わず労力および資材の不足に直面し、しかも食糧および軍需作物の確保ないし増産を要請された。そのため生産計画や農業統制を通じてあらゆる労力、資材を動員して生産の維持に努めた。

しかし労力の不足は男子基幹労働者であり、また出稼ぎなどの雇用労働力の減少もあり、敗戦直前の労力不足は甚だしいものがあった。また販売肥料の施用量は激減し、燐酸・加里は絶望的なものであった。それを補う自給肥料の増産や施肥の合理化、土地改良なども限度があって、地力の低下は覆いがたかった。そしてこれが労力不足と重なって、農業生産力の全般的な低下をもたらしたのである。

昭和19年(1944)1月に十勝管内町村長と農業会長会議が招集され、十勝支庁から「極秘」扱いで農業生産計画要綱が示されたが、これは強制割当の強化であった。加えて北海道農業会臨時総会では「食糧・責任生産供出体制確立要綱」が議決され

全道農民ノ忠誠心ヲ結集シ、国家ノ要請スル主要食糧ヲ天皇陛下ニ対シ奉ル農業者ノ光栄アル責任体制ヲ供出ニ具現スルモノトス

という主旨のもとに、万が一農民は目標を達成できない場合には、非国民とののしられる屈辱だけは受けまいと、血のにじむ苦労を味わったものである。だが8年間の戦争で十勝の農業はかつてない壊滅的な打撃を受けた。

(戦後の農業)

終戦直後の混乱した国内状況は、昭和20年代後半になると次第に収まり、わが国経済の急速な成長に伴い、昭和28年(1953)ごろには、生活水準は戦前の水準に達した。これに平行してわが国の農業生産も米の生産を中心に著しく向上した。しかし、農業従事者の所得水準は都市勤労者に比べると劣り、格差是正のため昭和36年(1961)に農業基本法が制定され、農業構造改善事業が行われ、畜産や園芸作物などの選択的拡大を通し、自立農家育成が図られた。しかし、格差は是正されず、昭和45年(1970)には米重点の農政から、米の生産調整、畑作・畜産への転換が図られ一層、畑作・畜産・園芸作物などへの強化政策が取られた。

一方で、増大する食糧需要に対するため、昭和35年(1960)、貿易の自由化が施行されたため、小麦・大豆・玉蜀黍をはじめ多くの作物の作付けが大きな影響を受け、北海道全体でみると、昭和10年代に作付面積は激減し、小麦・大豆は安定作物とまで言われた。

しかし昭和40年代後半に世界的な異常気象による農作物の不作やオイルショック、米国の農作物値上げと日本への大豆輸出禁止という事件が起こり、にわかに食糧の国内自給論が見直され、食糧の安定供給を確立する政策として、昭和51年(1976)に総合食糧政策が樹立された。

このような農業情勢の他に、十勝地方の農業は冷湿害の影響を強く受けてきたことを見逃すことはできない。戦後でみると昭和29、31年(1954.1956)の冷害、昭和39、41年(1964,1966)の冷湿害があり、十勝の畑作に大きな打撃を与えた。このため十勝農業の体質改善に向けて、昭和39年に各市町村に冷害対策本部の設置、昭和40年に十勝市町村寒地農業確立推進本部が設置され、豆類の作付率を減らし、根菜類の作付率を高めること、麦作の導入、これらの合理的な輪作体系の確立、地力対策、畜産振興などが打ち出された。

このような背景のもとで十勝農業は全道において畑作物の最大生産地として君臨した。すなわち、戦後の30年間は畑面積が全道の23〜28%に当たる17万haで推移した。これに対し、水田面積は3500ha〜5000haにすぎなかった。十勝は豆類が昭和20年(1945)の3万2000haから昭和40年(1965)の9万3000haと3倍に増加し、この間、豆類が全道作付の50〜60%を占める豆王国であった。しかし、昭和40年代に入ると先述の事情により豆類の作付けは減少し、替わって秋播小麦、てん菜・馬鈴薯が増加し、また沿海、山麓地帯では草地や飼料作物の作付増加が著しかった。

戦後30年間の十勝農業に大きな役割を演じた技術の概略は、次の通りである。

豆類については、この30年間の技術進歩に最も貢献してきたものは品種改良である。特に昭和40年代には大豆「トヨスズ」、「キタムスメ」が、小豆は「ハヤテショウズ」、「栄小豆」、「アカネダイナゴン」が、菜豆では「銀手亡」、「福白金時」が相次いで育成され、良質・多収化に貢献した。

秋播小麦については、昭和29年(1954)の「ホクエイ」の育成により安定多収が可能となり、多肥・多条播技術や昭和47年(1972)に十勝農試で発表された雪腐れ防除技術によって、十勝における安定多収作物の地位が確立した。収穫作業は昭和40年代に大型コンバインと乾燥施設が導入され、これらの有機的な結合によって 当たり30〜50時間の労働時間となり、畑作物の中で最も省力化の進んだ作物となった。

てん菜の技術の進歩には著しいものがあり、収量はこの30年間に着実に増加し、欧米に比べて遜色ないレベルに達した。これそんしょくには特に紙筒移植技術の貢献は極めて大きい。

馬鈴薯においては、収量は30年間に比較的順調に増加したが、これは施肥、病害虫防除など栽培技術の進歩によるものである。

昭和40年代に急速に機械化されたため、堆肥の生産が減じて、地力低下を来した畑作農家にとって、スイートコーンの茎葉鋤きす込みは地力増強の一手段として大きな役割を演じてきた。

十勝の農業経営の変化を見ると、昭和30年代以降の高度成長によって離農が増加し、その離農地を吸収して経営面積の拡大が進行した。すなわち、畑作農家は1戸当たりの経営面積は、昭和40年(1965)の11.0haから10年後には17.4haに拡大した。一方畜産においても1戸当たり乳牛7頭飼育が20頭と約3倍に増加し、多頭化飼育が進んだ。また畑作においては、先述の豆類偏作から秋播小麦・てん菜・馬鈴薯・スイートコーンを取り入れた合理的輪作体系の確立が図られた。一方で、規模拡大と労働力不足は農業の機械化を促進し、昭和40年代には著しい機械化が行われた。

昭和50年代には、わが国の経済が高度成長期から安定成長期へと移行していった。これは第2次オイルショックなどで経済成長が鈍化し、財政の硬直化、国際化の進展などにより大きく様変わりしてきたためである。当然農業に対する風当たりも強く、農政の効率化を求める声が高まってきた。昭和55年(1980)に農政審議会から「1980年代農政の基本方向」が答申されたが、行財改革が実施され、さらに大幅な貿易黒字を背景として、貿易摩擦が拡大するなど大きな経済社会情勢の変化があった。このように国際化が進展する中で、農産物の国際需給の緩和、内外格差の拡大、これに円高も加わって国内外から農産物の市場開放の要求が強まってきた。こういった情勢に対応する形で、昭和62年(1987)に農政審議会が「21世紀に向けての農政の基本方向」をまとめた。これはコスト意識に立って、産業として自立し得る農業を前面に出して、今までの価格政策から、構造政策中心の農政の展開を打ち出したものであった。これに伴って主要政府管掌作物の価格抑制がなされてきた。

(平成期)

平成4年(1992)に農林水産省は「新しい食料・農業・農村政策の方向」を公表した。これは経済の国際化が進展する中で国民への食料供給の確保を図るとともに、地域経済社会を活性化させ、さらに国土・環境を保全していくための国民的コンセンサスを得ながら、食料の持つ意味、農業・農村の役割を明確に位置付ける視点での政策方向であった。一方、これを踏まえて北海道は平成6年(1994)6月「北海道農業・農村のめざす姿」を策定し、21世紀へ向けての農政の展開方向を示している。

昭和61年(1986)に開始されたガット・ウルグアイ・ラウンド農業交渉は自由貿易の促進を目指した7年越しの交渉は、平成5年(1993)決着した。この結果、米はミニマムアクセス(最低輸入制限品目については関税化)を受け入れることとなり、わが国農業は新たな国境措置の下で厳しい環境に置かれることになった。

以上のような農業情勢を背景にした農業生産の動向を見ると、昭和50年代は食料需要の伸びが鈍化し、既に供給過剰となっていた米、蜜柑に加え、乳製品、鶏卵等についても生産過剰となり、計画的な需給調整が進められた。昭和60年代に入っても、依然として米などでは生産過剰基調が続いていたが、平成5年(1993)の記録的な大冷害で米不足騒動が起きるなど、食料の備蓄に対する国民の関心が高まっている。また、近年食料消費が量的に伸び悩む中で、国内の産地間での競合が激しくなるとともに、農産物市場の確保をめぐって国内農産物と輸入農産物との競合も一層強まっている。

このため食料自給率は低下を続けて、供給熱量自給率は、平成3年(1991)に46% となり、主要先進国の中で最低の水準となっている。今後は世界的に環境に配慮した農法に対して関心が高まっていること、異常気象の発生等から、従来以上の単収の向上が見込めるかどうかは、予断を許さないものといえる。それに加えて世界人口の爆発的増加が見込まれ、地球の温暖化、砂漠化などの地球環境問題など、供給面からも多くの不安定要因を抱えているといえる。

一方、わが国の農業はWTO体制下農畜産物の輸入自由化など国際化が進み、十勝管内的には農村の過疎化、担い手の減少、高齢化の進行、所得の目減りなど多くの課題を抱え、厳しい情勢となってきているものの、畑作・酪農・畜産を柱とする農業の生産性は、国際的にも高い水準にあって、わが国最大の経営規模のもとで、農業に情熱をかたむける後継者も多くおり、新しい世紀に向けて風土に根ざした活力のある農業・農村づくりが展開されている。

農業災害

(明治31年の大水害)

移住民の出足をためらわせるに至った大水害は、北海道では死者248人、家屋の流失・倒壊3,551戸、耕地浸水5万4500余町歩の被害をもたらし、救済費83万余円の国庫支出を見ている。

十勝国の場合は、河西・河東・上川の3郡は、8月下旬から気象が異常となり、朝夕は濃霧におおわれ、寒暖の定まらない日が続いた。9月1日の夜半から雨が降りだし、次第にその量を増し連日連夜降り続いたが、7日早朝からは強い北風が加わって猛烈な雨となった。十勝測候所では、この際の雨量を「6尺平方に、2時間中、7斗6升降った割合」と表現している。同日午後4時ごろから風が西寄りに変わり、ようやく降雨は収まったが、風速はかえって強まり、ために山野の草木をゆるがせて出水を助長した。

十勝国の河川はいずれも氾濫はんらんしたが、十勝川本流筋を最とし、ついで佐幌・ピウカ・芽室・美生・然別・音更・札内・帯広・売買・士幌などの支流に及んだ。平常より8尺ないし1丈3、4尺水位を高め、十勝川はその両岸各10丁余、支流は各2、3丁から4、5丁の幅であふれた。

内陸部で氾濫が始まったのは9月6日午後5時ごろであった。はんらん8日午前7時から8時までの水量が最も多く、同日午後一時ごろから減水が目立つようになり、9日朝にはほぼ平常の水位にまで下がった。札内川・売買川などの支流は、十勝川からの逆流によって流水が滞り、ひいては氾濫に至るという2次的な現象を呈はんらんした。

十勝国の浸水面積は全地積からみるなら小部分にすぎなかったが、移住民居住地の約7割を占め、開発面では致命的な打撃を被った。これは殖民区画地の貸付開始以来わずか2年、移住者は交通が便利で肥沃な土地を求め、そのことごとくが川岸もしくは低地にその開墾地を選んだからである。

河西郡では美生・美蔓・芽室・西士狩・伏古・下帯広・音更・然別の各村が大きな被害を出した。

売買村 家屋流亡3 床上浸水35 床下浸水16  橋梁流出1 浸水畑地37町7反歩

河西郡売買村は売買川と幸震川との中間にある一部落にして、河川の関係よりサツナイ見るときは甚危態の形勢なりと雖も、該部落は地盤稍や高丘になると、出水量の他川に比し少なきとにより、耕地及人家の浸水甚浅く、僅か家屋1戸を倒したるのみなり。

幸震村 家屋流亡3 床上浸水35 床下浸水34 道路破壊2 橋梁流失1 浸水畑地不詳

河西郡幸震村は、幸震川・売買川並行して十勝川に注ぐ所の2川ありと雖も、他川に比し出水の量甚少なく、帯広・大津間の国道筋より上流は浸水浅、被害の度最も少なかりしが、中街道を横断する幸震川に架したる私設橋梁栗山橋は7日正午12時ころ流木の為めに破壊せられ、人馬交通を杜絶せり。該橋梁より下流十勝川の間、河水十勝川の奔流に遮られ逆流せしを以て、安木燐寸製軸所及其付近34の人家水中に浸され、避難に後れ屋上にて救護を求むるものは、高地に居住する土人アントマツ(女)ツウプトアイノ(男)アシノマツ(女)カイキマツ(女)シマキアイノ(男)チャマート(男)イタコラン(男)の7人甚危態に迫るを見て、独木舟2艘を出し激流を操縦漕行して、安木燐寸製軸所より22人、其隣家より2人、増田伊吉家7人を救助せり。

日高山脈一体の降雨量が少なかったものか、売買・幸震両村の被害は軽微であり、上帯広村に至っては皆無に近かったものと推定される。

明治31年の大洪水の惨状(「芽室町50年史」より)

明治31年の大洪水の惨状
(「芽室町50年史」より)

だがこの洪水はその後の十勝国開発に重要な意味を持つことになった。すなはち道路建設・架橋・市街地設定・堤防構築・鉄道敷設など、あらゆる土木工事の設計は、この31年水害の最高水位を基準として施行された。ただしこの基準は絶対的なものでなかったため、大正11年(1922)8月には、はるかに上回る大災害を出している。

(冷害と作物被害)

十勝農業の歴史は、開拓の初期から一貫して冷害との戦いであった。戦後の大きな冷害だけを数えても、昭和20年、28年、29年、31年、39年、41年、46年、56年、平成5年とほぼ4年に1回の割で冷害となっている。こうした冷害の試練を経て、農家はやがて冷害に負けない、より合理的な農業経営へと脱皮していった。

例えば、合併直前の帯広市および川西・大正両村は28年、29年、31年(1953,1954.1956)と続いた大冷害で基幹作物の豆類が決定的な打撃を受けた。その結果、これまでのような「豆作一辺倒」の経営ではあまりにも危険が大きすぎて、農家経済が破壊されるという深刻な反省が生まれ、翌32年すなわち合併直後の帯広市は、てん菜生産および酪農への本格的な転換に向って動き出していった。

昭和39年(1964)十勝にとっては、いわば戦後最悪の大冷害が発生した。作物別被害率では、水稲の93%を筆頭に、小豆85%、大豆・豌豆81%、菜豆65%と豆類が軒並みにやられた。一方、てん菜の被害率は15%でさすがに冷害に強く、また麦類は27%、馬鈴薯32%であった。

昭和41年(1966)の帯広市の作物別被害率を列挙すると、小豆71%、小麦68%、水稲67%、菜豆51%、大豆41%、豌豆39%であり、てん菜は6%にすぎなかった。

昭和46年(1971)の作物別被害率は、水稲85%、小豆71%、大豆47%、菜豆35%、小麦28%、てん菜ゼロであった。

昭和49年(1974)では排水不良畑での湿害、馬鈴薯輪腐病(リングロット)などのまん延から、特に馬鈴薯とてん菜が作柄不良に終わった。翌50年も湿害で、てん菜は2年続きの減収となった。

昭和51年(1976)、春先から異常気象と騒がれたが、最終的には初霜の遅れが幸いして、全体的に被害は軽微であった。しかし小豆だけは平年の半作程度に落ち39年、41年、46年につぐ大減収となった。

昭和55年(1980)は低温に弱い豆類の生育が停滞、加えて灰色カビ病、菌核病が多発し、著しい減収と品質の低下を招いた。特に小豆は51年に次ぐ大減収であった。その半面、低温に強いてん菜・馬鈴薯は初期生育が非常によく、病害虫により被害も少なくこれらは豊作であった。

昭和56年(1981)の凶作は、秋播き小麦は稔実不良、穂発芽のため作況指数で平年の26%という41年、46年に次ぐ大被害を被り、豆類は7分作程度であった。また低温年には比較的被害が少ないてん菜・馬鈴薯も雨湿害による収量低下をまぬがれなかった。

昭和58年(1983)は馬鈴薯はほぼ平年作、てん菜85%であったが、采豆56%、大豆44%、小麦35%、小豆は9%であった。

平成5年(1993)は小麦、馬鈴薯は平年作ないしはこれに近く、てん菜83%、菜豆82%であったが、小豆は23%、大豆は僅かに14%であった。

冷害で大豆は刈らず放任(昭和31年、十勝毎日新聞社提供)

冷害で大豆は刈らず放任
(昭和31年、十勝毎日新聞社提供)

このように冷害、湿害、病虫害などの農業災害は反復発生しているが、しかし総合的な被害程度は近年次第に小さくなってきているし、また各作物とも収量水準は着実に上昇し続けている点が注目されよう。その理由としては、第1に、冷害に弱い豆単作の経営からてん菜、馬鈴薯などの根菜類や麦類を大幅に取り入れた輪作的な畑作経営に転換したことにある。第2は、土地改良などの生産基盤整備とあわせて、品種改良、栽培法の改善、病害虫の徹底的な防除、機械化の進展による適期作業など一連の技術進歩がもたらした成果である。

(農業災害年次)

十勝の農家は、4年に1度は必ず災害に見舞われたといわれているが、それは大きな災害であって、おそらく2年に1度といってよいほどである。明治16年以降の帯広地方における農業気象災害の年次と災害項目は次のとおりである。

明治 16年 6―8月干ばつ11月上旬洪水(不作)
17年 8月低温(凶作)
18年 7月上旬暴風雨、8月低温(不作)
21年 6月上旬降霜、6、10月低温(凶作)
22年 7、8月低温(凶作)
26年 7―9月低温(凶作)
28年 7月上旬大雨、7、8月低温(不作)
29年 7、9月大雨洪水(凶作)
30年 6月低温、日照不足(不作)
31年 8、9月低温9月上旬暴風雨、洪水(不作、水害)
32年 8月低温(不作)
33年 7月低温(不作)
35年 6月中旬降霜、6―8月低温、9月下旬霜害、
強風(冷害・凶作)
36年 7月低温、日照不足(不作)
37年 7月中旬大雨洪水(水害)
38年 8、9月低温(冷害・不作)
39年 7、8、9月低温(冷害・凶作)
41年 7、9月低温(冷害・不作)
43年 8、9月低温、8月中旬大雨洪水、日照不足(不作)
44年 7月下旬8月中旬暴風雨、 洪水(不作、水害)
45年 4月上旬水害、5月下旬降雪、 5―9月低温、
9月多雨(水害・凶作)
大正 2年 5、6月干ばつ、8月下旬暴風雨、7、8月低温(大凶作)
3年 8月上旬洪水、9月中旬暴風雨(水害)
4年 7月下旬9月上旬、大雨洪水(水害)
5年 5月上旬暴風雨、洪水、9月水害
8年 9月下旬台風・洪水、10月上旬多雨洪水(水害)
9年 8月上中旬大雨洪水、(湿害、凶作)
11年 6月下旬降霜、8月下旬台風洪水(水害・不作)
12年 6、7月低温、9月中旬暴風雨(水害・不作)
15年 5、6、8月低温、9月多雨、10月上旬大雨(大凶作)
昭和 6年 5月低温、降雪、6月中下旬大雨、7月異常低温、
9月日照不足(冷害・大凶作)
7年 5月上中旬風害、6、7月低温、日照不足、9月上中旬豪雨(冷害・水害・大凶作)
9年 7、8月低温、8月下旬強風低温(冷害・凶作)
10年 5―8月雨多低温、8月下旬台風、9月下旬強霜、暴風雨、
10月下旬豪雨(冷害・水害・大凶作)
11年 6月中旬晩霜、7月上旬大雨洪水、7、8月低温、
10月上旬台風洪水(冷害・凶作)
15年 5月下旬6月上旬風塵、8、9月日照不足(凶作)
16年 5月下旬大雪、7、8月低温、日照不足(冷害・大凶作)
20年 5、6月低温、日照不足、7月低温、
8月下旬多雨(冷害大凶作)
22年 5月風害、6月低温、6―9月日照不足、
9月中旬台風洪水(水害、不作)
23年 8月中旬洪水、9月中旬台風(水害)
28年 5月下旬大雨洪水、7月暴風雨、9月上旬洪水
(冷害・水害・不作)
29年 5月上旬暴風雨、6月上旬降霜、
6―7月低温、日照不足、8、9月低温多雨、
9月下旬台風(冷害、凶作)
31年 7、8月低温、日照不足(冷害・凶作)
32年 7、8月低温、日照不足、
8月上旬9月中旬大雨洪水(水害)
34年 8月下旬豪雨洪水、9月下旬台風(水害)
36年 7月下旬豪雨洪水、9月中旬台風暴風雨(水害)
37年 8月上旬豪雨洪水(水害)
39年 6月上旬大雨洪水、8、9月低温、8月下旬台風、
9月下旬降霜(水害、冷湿害、凶作)
40年 9月降雨、台風洪水(水害)
41年 6―8月低温日照不足大雨、
10月下旬暴風長雨洪水(冷湿害、凶作)
46年 6月中旬低温降雨、7、8月低温、7月中旬、
9月中旬大雨(冷害、不作)
49年 6月低温多雨、7―9月日照不足(不作)
50年 6月下旬大雨日照不足、7月多雨日照不足、
8月下旬台風(不作)
56年 6、8月低温、8月上旬台風雨多(湿害、冷害)
58年 6、7月低温、8月多雨(不作)
平成 5年 5―9月低温、6月多雨日照不足(冷湿害、凶作)

風塵(昭和57年6月)

風塵(昭和57年6月)





農業気象災害のほかに鳥獣害、虫害などを加えると、広範囲に起こらないにせよ、おそらく毎年のように災害を被っているのが現状である。この間の豊作年は明治30年以降では37年、大正5、10年、昭和5、8、17、25、27、30、35、36、38、43、53、54、59、60年、平成2年などである。

農産

稲作

下帯広村(オベリベリ)地に、晩成社の小作人が水・陸稲を試作したのは、入植当年の明治16年(1883)である。どちらもトノサマバッタに食害され、8月上旬に全滅した。

17と18年は稲の試作を中止したが、19年、当縁郡当縁村に転じた依田勉三は望みを捨てず、翌20年9月、オイカマナイにわずかな水田を作り苗を植えた。春から夏にかけて気候条件の悪い土地での栽培であったから完全に失敗した。

明治26年(1893)に下帯広村に入地した増田立吉は、対岸の音更村士幌川の落口付近に2反歩ほどの水田試作に成功した。十勝では最初のことである。先住地の上磯郡亀田近在から持参した種籾によるものであった。次いで同じ地区において、谷口久米吉・関根盛平・中川浅太郎らが成功した。

同28、29年のころ、北海道集治監十勝分監の医官佐藤兵一郎が下帯広村で陸稲を試作したが結実しなかった。

同28年に開設された十勝農事試作場は、この年2反歩の水田を造成、翌29年から直播・移植の比較試験を始めた。

明治29年、帯広川左岸の伏古村に農場を開いた大笹小三郎も、早速30年からの水稲試作に着手した。かなりの成績を収めた大笹は明治32年(1899)道庁殖民部から稲作の嘱託を受け綿密な記録を残した。

使用した品種は「赤稲」と「香早生」をあわせて1反2畝栽培した。

意見
「従来耕作セルモノニ比シ、品質ハ至テ優良ナリ。余ハ明治29年ヨリ伏古村高台ト唱フル土地ニ於テ農業専務トシテ耕作セシモ、桝物ニシテハ1反歩ニ付2石ノ収穫ヲシタル事ナシ。当年ノ米作ハ1反歩ニ付2石1斗ノ収穫ヲ得タリ。而レバ十勝ノ高台ニ於テハ、米作ヨリ良キ作物ハナシト認ム。

ここに伏古水田は、極めて有望であることが立証されたのである。

ちなみに、明治30年の水稲反別は、河西郡1町4反歩(既墾1町・新墾4反歩)河東郡1町2反歩(既墾1町1反・新墾1反)という状況であった。

大正4年(1915)は、水田地帯を含んだ伏古村の一部が帯広町と合併した年であるが、水田はまだ30町6反歩でしかない。7年には倍増の63町歩となり、9年には200町歩を超え、13年には大きく飛躍して530町6反歩、昭和4年には539町4反歩の最高記録を作った。この年の十勝全体としても1万300余町歩に達し、水稲耕作の頂点を形成している。本道産米が300万石を突破、総人口281万余人を石数が上回ったのを記念して、札幌市で盛大な祝賀会を開いたのは昭和5年(1930)のことである。

昭和6年、7年、9年、10年と続いた冷害凶作は、水田農家に手ひどい打撃を与えた。十勝の平均反収が昭和6年は35kg、7年は42kg、9年94kg、10年23kgといった惨めな収穫は、たちまち農民の水田熱を冷やした。しかも農家の負債はかさみ、年々の土功組合費にも堪えられない者も多かった。そこで苦労して造られた水田は次々と畑に還元されていった。十勝の水稲は、昭和9年までの5年間に約3,000町歩減反、7,800町歩台に落ちた。1年平均600町歩ずつ水田を潰したわけである。減反はさらに続き、11年には6,000町歩台の作付面積となり、17年には5,000町歩台、18年4,000町歩台、23年には3,350町歩という数字を示した。昭和4年に比べて実に6,950町歩、67.5%の激減ぶりである。これは十勝の水田勃興期に当たる大正11年の反別を下回っている。あたかも30余年の歳月は空しかったもののごとく、巨額の投資と農民の苦心経営は幻にも似ている。

伏古水田の場合は、十勝の他地区よりは条件に恵まれていたが、それでも昭和30年(1955)までに約3分の1を減じ、49年2月調べでは134ha(うち作付62ha)にまで落ち込んだ。

道農試十勝支場の水田試作(明治43年)

道農試十勝支場の水田試作
(明治43年)

このように帯広市の水稲作付面積は昭和30年(1955)の439haを最高として、以後減り続け、昭和44年(1969)に稲の生産調整が始まってほぼ半減し、50年(1975)には55ha、58年(1983)には15ha、平成元年(1989)には3haとなり、同7年(1995)からは中村正次郎が僅か0.3haの水田を造っていたが、同9年(1997)には帯広から米作りの歴史に幕を閉じた。

畑作

(麦類) 麦類は冷涼な気象に適し、栽培も比較的容易であることから、稲の栽培に代わる穀物として開拓当初より作付けされていた。麦類には小麦・大麦(皮麦)・裸麦・ライ麦・えん麦の5種類がある。さらにえん麦以外には春播きと秋播きの区別がある。

開拓当初は自給食料として春播きの大麦が多く作付けされ、秋播き大麦は耐寒性が劣るためほとんど作付けされず、小麦の作付けは少なかった。この傾向は昭和30年代前半まで続き、最も大麦の作付けが多かったのは戦中で昭和16年(1941)の作付面積は1500町歩を超え、畑作地帯の重要な食料源であった。その後昭和30年代後半からは米の増産などによる食糧事情の好転により、大麦の作付けは急減し現在は作付けされていない。ビール醸造用の2条大麦は昭和30年代に一部地域で作付けが試みられたが、十勝地方の収穫期の気象が多湿条件となるため良質のものが生産できず、その後の作付けはみられない。裸麦は大正3年(1914)の3200町歩を最高とし、同40年には姿を消した。ライ麦も昭和20年代〜30年代にかけてわずかに作付けされた記録はあるが、昭和21年(1946)の7000haを最高として現在は作付けされていない。

えん麦は軍用馬および農耕馬の飼料用として戦中から昭和30年代にかけて重要な位置を占めていたが、昭和20年(1945)には2万8000haを最高として農作業の機械化の進展に伴い作付けは急減し、現在子実用としての作付けはほとんどない。

小麦は明治10年代後半に作付けされた記録があり、その後昭和7年(1932)までの作付面積は1000町歩以下で、春播き小麦が主体であった。昭和8〜49年までの作付面積は年次により変動はあるが、1000〜7000ha前後で推移し、昭和26年(1951)以降は秋播き小麦が主体となったが、まだ十勝の畑作の中で重要な位置を占めていなかった。この原因は冬枯れと穂発芽の被害が多く、機械化収穫も進展していなかったためである。

えん麦の刈り入れ(昭和42年8月)

えん麦の刈り入
(昭和42年8月)


このように大麦・えん麦などは十勝の畑作の中で重要な位置を占めていた時期もあったが、時代の変遷とともにその役割を終え、現在は小麦の作付けが主体で4万3000haを占めていて作物中で最も栽培面積が多い。品種としてはそれまでの主力であった「チホクコムギ」から「ホクシン」に変わり、ほぼ100%に近い。

(豆 類)

大豆 明治4年(1871)に静岡藩が農民数戸を大津近辺に入植させ開墾を試み、穀菽、野菜を栽培した。当時すでに大豆が栽培されたが、いくばくもなくして帰国してしまったので後が続かなかった。この年の作柄は 試法其宣を得不申哉に而皆無但草生相応 とある。すなわち草丈は伸びたが、子実は結ばなかった。府県からの種子では、大津のような春から夏にかけて海霧のかかるところでは、よほどの早生種でない限り収穫は望めなかった。

明治16年晩成社の一行が団体入植すると大豆の栽培が始められた。だがこの年十勝川流域の利別太、千代田付近でも数戸の農家が大豆を栽培している。同18年には統計上3反歩の作付けが行われている。明治19年は5町歩で当時の大豆主産地は道南の渡島・後志・胆振地方であった。しかし20年代後半から30年代前半期にかけて石狩、空知および上川地方に移っている。

十勝の耕地面積が拡大されたのは30年代で、それに伴い大豆の栽培は急速に伸びた。それは道南・道央のマメシンクイガによる被害粒がひどくなったからである。30年代後半から十勝の大豆、とりわけ黒大豆が農家の重要な換金作物であり、35年(1902)には十勝の作付面積が7390町歩で、畑面積の49%に達した。以後も大豆の作付けは増加するが、大正年代に入って朝鮮・満州(中国東北部)からの移輸入大豆が増加して、国産大豆と競合するようになったことや、第1次世界大戦による豆ブームにより、菜豆の作付けが急増したことで、大豆の作付割合は10〜20%に低下した。

昭和12年(1937)の十勝大豆は作付面積が4万2000町歩となり、全道の50%を占め、翌13年には4万3600町歩と戦前の最高を示した。

太平洋戦争終了後の昭和20年(1945)には十勝で2万2000haであったが、戦後満州からの輸入がなくなったことにより作付けが激増し、29年には4万4450haまで回復した。

しかし戦後復興が進み、外貨事情が好転するとともに、米国、中国からの輸入大豆が増加し、さらに36年に輸入自由化が行われ輸入大豆との競合から、他作物に比較して経済的有利性が薄れ、大豆の栽培は激減し、45年(1970)の作付けは7420haとなった。

この前後から水田利用再編対策事業が実施され、大豆作付けは漸増し、50年(1975)には1万4000ha、55年は1万2600haとなった。その後55・56・58年の冷害による減収、収益性が劣ることなどから、大豆の作付けは減少に向かった。

しかし60年(1985)から作付指標面積の設定により、小豆、菜豆の作付けを抑えて大豆の拡大方針が示され、昭和60年には9190ha、平成3年(1991)には7090ha、この年の冷害、ダイズわい化病の多発、交付金基準価格の減額などから漸次反別が減少し、6年(1994)には2170haまで低下したものの、12年(2000)には若干増加して3420haになったが昔日の面影はない。

手による豆まき作業([芽室町80年史」より)

手による豆まき作業
(「芽室町80年史」より)

小豆 十勝地方の小豆の栽培は、北海道庁統計によると明治19年(1886)には5町歩となっている。明治27年(1894)の全道の作付面積は1万町歩を超えていたが、主産地は空知・上川であった。その後畑作の中心が十勝に移るに従い、小豆の作付けは増加し大正5年(1916)には1万町歩を超えた。

第1次世界大戦の影響により、国内需要の小豆は、輸出農作物である菜豆・豌豆・馬鈴薯の作付け増に押されて全道的には減少したものの十勝は1万町歩を維持し、戦後の大正10年(192には2万町歩を超えている。昭和12年ころから軍事産業の拡大、食糧作物の作付け増、さらに臨時農地等管理令による不急作物の作付制限や禁止によって、小豆の作付けは激減し、昭和21年(1946)は2600町歩にまで落ち込んだ。

太平洋戦争後になるが、十勝の小豆反別が大幅に動いたことがある。すなわち昭和24年は1万1880haになった。3年間に3.1倍にも膨張した。当時小豆は常に雑穀相場の風雲を呼び、昭和28年(1953)には1俵1万円の大台に乗ったことから「赤いダイヤ」の異名を持つようになった。小豆供給力の80%を持つ十勝の農家や豆商人が色めきたつのも不思議ではなかった。小豆は生産量に限りがあり、この豆に限って適当な輸入品も無いため、相場師から投機の対象とされやすく、突如として思いもよらぬ値段が付くところに農家は魅力があった。狩勝峠を越えて他管内の小豆がトラックで運ばれ十勝に入ってきたのもこのようなことがあって以来である。

昭和34年(1959)には、2万haにまで上昇した。昭和41年には戦前・戦後を通じて3万600ha、全道の52%作付比率を示した。

昭和46年(1971)に稲作転換に伴って小豆の作付けが上川・空知に急増し、十勝では減少した。55年は冷害を受けて翌年の作付けは1万haを割った。57年から畑作地帯での小豆の作付けが奨励され、さらに耐冷性、多収の品種エリモ小豆が普及したことから、58年には1万7500haに増加、しかしこの年は大冷害に見舞われ、小豆の反収は14kgにすぎなかった。

昭和60年(1985)より需要動向に即応した計画生産の立前から「畑作物作付指標」が設定され、小豆についても十勝は1万4000から1万5000haと安定した作付面積を維持していた。だが62年にはガットに提訴されていた雑豆の輸入制限を堅持するため菜豆、小豆で2000haもの青刈りが実施された。

小豆のにお(平成12年)

小豆のにお(平成12年)

平成元・2年(1989、1990)と2年連続の大豊作によって、小豆の在庫が過剰となり価格が低迷し、一方大豆作付面積の大幅な下回りで、小豆の作付面積25%の減反を強いられた。平成5年は1万3200haを維持したものの、この年は大冷害で極端な品不足を起こし、価格は史上最高となり、一時期9万円を超える暴騰となった。このため業者には国産小豆離れが進み、中国産を中心に輸入が大幅に増えた。「赤いダイヤ」の神話をこの年に復活させることになったが、高値で利益をあげた農家はいくらもいないはずである。12年(2000)の作付面積は1万2500haで豆類の作付面積では1番多い。品種としては「エリモショウズ」「きたのおとめ」が主流となっている。

菜豆 菜豆が北海道の畑作物として積極的に取り入れられたのは、開拓使ならびに札幌―農学校が、欧米各国より輸入、試作したことに始まり、これらの種子が民間に漸次広まっていった。

明治19年(1886)の統計によると、全道の作付面積がわずかに160町歩にすぎず、十勝は11町歩であった。その後次第に作付面積が増加して、29年(1896)には166町歩、また40年(1907)には1560町歩であったが、栽培の中心はまだ道南・道央地域であった。

大正3〜7年の世界大戦は、北海道および十勝の菜豆栽培に重大な影響を与えたことは先にも述べてあるが、4年(1915)の作付面積は全道が3万4300町歩に対して十勝は3110町歩で、全体の9%にすぎなかったが、6年には2万8700町歩、7年は3万4900町歩で、最高の作付面積となった。

全道的な作付けはこの時期をピークにして次第に減少していったが、十勝地方は一時減少したものの、さらに面積が増加し、昭和5年から同15年には5万町歩前後の作付けとなり、14年(1939)には最高の5万5800町歩を記録した。

その後太平洋戦争に突入するころには、農産物の外国への輸出停止、政府による価格統制、主要食糧作物の増反により、菜豆類の栽培は激減し、20年には十勝は8090haにすぎなかった。

戦後経済が復興し始めると、菜豆の輸出が再開され国内でも煮豆、製餡用の原料として需要が増し、急速に作付面積が増加し、全道で8万9100ha、十勝はそのうち5万2700haと戦前並みの作付けとなった。またこのころ他の豆類の作付けも過作にあって、十勝地方の豆類の作付面積は50〜60%にも達し、連作による土壌病害、センチュウ害などが生じ、収量水準は低くなった。

40年(1965)代は日本豆類基金協会が設立され、豆類の生産調整が行われた。また安価な輸入菜豆が増加したため、作付面積は減少し、50年(1975)には道内が4万ha、うち十勝は2万2800haになった。

その後も菜豆の需要は減少し、さらに輸入菜豆が増加したため、国内産の割合が低下した。それに伴って国内の作付面積は漸減し、60年には道内で2万800ha、平成6年には全道で1万7400ha、そのうち十勝は1万3000ha、12年(2000)は8600haで全道の76% を占めている。

次に菜豆は、色豆といわれて品種によって違いがあるので、その変遷について述べてみよう。北海道で菜豆の栽培が始まったころ、アメリカより種々な品種が導入され、それらには和名がつけられたが、来歴不明のものが多かった。十勝農事試験場では菜豆の品種改良は明治28年の開設当初から開始されている。当時の品種は主産地が後志地方であったので、それを導入して品種の選定を行った。明治30年代末期、北海道では「金時」「大福」「デトロイト・ワックス(姉子豆)」が奨励されていた。大正3年には「シリンダー・ブラック・ワックス(黒手無)」「手無長鶉」「中福」「ブラジオレー」など、また大正年代に入って「長金時1号」「ビルマ」大正末期には「中長鶉」「鶉」が奨励された。昭和2年には「新白(大手亡)」のちに「鶴金時(古くから紅金時の名あり)」が奨励され、このころ農家による在来種からの選抜も多く、そのなかから14年(1939)には「常富長鶉」「菊地長鶉」「手無中長鶉」などが優良品種となった。

戦後品種の中から「大正金時」「白金時」「大正白金時」「改良大手亡」「改良中長」「北原紅金」「大正大手亡」などが次々と奨励品種となった。ことに「大正金時」は早生で多収でもあり、当時としては大粒であったことから、その銘柄設定とともに急激に作付面積が拡大し、「大手亡」とともに2大銘柄としてその地位を確保した。

51年(1976)には手亡の類で「姫手亡」が育成された。金時類では39年に「新金時」、41年に「昭和金時」が奨励されたが、晩生のため農家から敬遠された。54年に「北海金時」、61年に「丹頂金時」が出されたが普及に至らなかった。

長鶉の類は47年に「福粒中長」が育成されたが、これも普及しなかった。白金時類は45年に「十勝白金時」が育成された。だが半蔓性ということから機械化収穫には不適で作付面積は増えなかった。その後48年に「福白金時」が出されたが「大正白金時」に比較して収量が多いことからこれに置き替わった。現在の主要な品種は「大正金時」「福勝」「雪手亡」「姫手亡」などである。

豌豆 明治28年(1895)には作付面積はわずかに2町歩であった。その後開拓の進展とともに作付面積は増加し、44年(1911)には451町歩となった。この間41年には北海道からイギリスに200トンが輸出されている。

大正3年に勃発した第1次世界大戦で、豌豆の価格が高騰し、輸出としての作付けが急激に増加、十勝は大正6年(1917)に5580町歩となった。その後輸出用の豌豆の作付けが増加し、昭和10年(1935)には2万1200町歩にまで拡大した。しかし昭和12年の日中戦争に対するイギリスの日貨排斥運動の高まりで、豌豆の輸出が途絶し、太平洋戦争の激化に伴い昭和20年にはわずかに264町歩にまで激減した。

戦後は国内需要も高まり、昭和30年には6500haまで増加したが、栽培管理、収穫作業の機械化が困難なこともあって栽培は敬遠され、十勝地方の作付けは減少して主産地は網走地方に移った。その後も輸入豌豆の増加により、豌豆の作付けは次第に減少し、昭和56年は全道で1000haを割り、平成5年(1993)にはわずかに650ha、十勝は3haと作付面積は痕跡的となった。現在統計的な数字には現れない。

(雑穀)

 新墾地でもよく生育するので比較的面積を大きく栽培した。主食としても好適だったので、開拓当初より裸麦とともに重要な地位を占めていた。作付面積も各農家では絶えず一定の面積を確保されてきた。反別の増減はあるものの昭和21年(1946)の8920haが最高の作付面積で、その後米の確保も容易になり、主食の地位は替わった。それに黍の価格は経済性を保存し得なかったこともある。

26年(1951)は6600町歩、31年3600町歩、36年1650町歩、41年280町歩に急減し、44年以降は統計数字に現れてこない。

 痩地でも収穫があるので備荒作物として栽培された。開拓やせびこう当初は食料であったが、やがて黍におされ、むしろ家禽の飼料として栽培されることになった。昭和12年(1937)ごろより1000町歩を超え、20年の3940haを最高とし以後漸減して、30年は1960ha、45年にはその姿を消した。

 稗と同様に栽培された。開拓初期の明治29年から33年ごろまで栽培されたこともあったが、食味が劣ることからやがて黍に代わってしまい、大正初期で栽培は終わりを遂げた。

開花中のソバ(昭和57年)

開花中のソバ(昭和57年)

蕎麦 新墾地に適する。連作にも耐える。播種してから100日程度で収穫できる。肥料も少量でよい。しかも収穫までの間ほとんど労力がかからないなど、備荒作物として入植の当初から栽培されてきた。昭和11年(1936)には5000町歩を超え、21年には1万1900haを最高として年ごとに減少し、30年3700ha40年1520ha、53年(1978)には1000haを割った。

開拓に当たっては前年に開いた土地には大豆や黍を作付けし、春に新たに切り開いた新墾地には、作物中で1番遅い6月中旬に播いた。蕎麦は主食であっても常食としての主食ではあり得ず、食糧の不自由な年の代用食としての主食であり、食糧が十分に確保される時には嗜好的主食の範囲を超えなかった。

玉蜀黍 子実用玉蜀黍の栽培は、開拓の始まった明治17年(1884)にさかのぼる。当初は食糧作物として栽培されたが、開拓の進捗に伴って飼料作物へと移行した。明治末期には酒精原料としても栽培され、栽培面積は2000町歩を超え、以降2000〜3000町歩で推移した。太平洋戦争中は航空機燃料の原料として需要が増加し、作付けが奨励されたため、昭和20年(1945)には作付けが7000haに達した。この間に栽培された主要品種は「札幌8行」「ロングフェロー」「坂下」などである。

戦後になると子実用の作付けは減少に転じた。昭和30年代になると畜産の振興は目覚ましく、玉蜀黍の需要が増大したが、十勝も含めて北海道の作付けは増えず、その需要のほとんどは安価な輸入玉蜀黍に依存する状態であった。政府は昭和37〜41年に作付け拡大のための玉蜀黍生産技術改善普及対策事業を実施し、生産振興を図った。しかし他作物に比べて経済性が劣ったため、作付面積は主産地十勝地方も含めて漸減し、輸入依存度はますます高まり、昭和61年(1986)には十勝の作付統計から姿を消した。

戦後に作付けされた主要品種は「坂下」とこれに替わった「交4号」「複交4号」さらに昭和40年代末からは「交4号」に替わった「ヘイゲンワセ」である。

スイートコーン 経済作物としての栽培は、日本缶詰株式会社が帯広市で4 の契約栽培を行った昭和24年(1949)に始まる。その後食生活の変化に伴うスイートコーン缶詰の需要の高まりや、昭和44年(1969)以降のスイートコーンハーベスターの導入によって、栽培面積は大幅に増加し、畑作農家の輪作体系の中に徐々に定着して行った。昭和40年代前半には、軸付冷凍加工や粉末加工も始まった。現在子実用玉蜀黍の栽培はないが、スイートコーンは平成12年(2000)では4310haで全道の43%を占めている。

(馬鈴薯)

開拓者が原野を開墾しそこに定住するには、まず食糧自給の確立が第1条件であり、そのためには寒さに対しても強く、しかも比較的早期に収穫できる馬鈴薯は、開拓者にとって欠かすことのできない作物であった。

このような状況から入植当年から栽培が始まった。明治30年(1897)の十勝管内における馬鈴薯の反当たり収量は平均して1100kgであった。生産されたものはほとんど自家消費に向けられた。

その後、でん粉の市場性が高まり、でん粉原料として換金作物としても注目されたが相場の変動が激しく、安定作物とはならず基本的には自家消費作物として永く続いた。明治43年(1910)ごろから寒冷地作物として馬鈴薯の耕作が急増し、それまで十勝管内全体で1000町歩内外であったものが2000町歩にまで増加し、第1次世界大戦中の大正6年(1917)には3200町歩に達した。当時菜豆とともにでん粉が輸出され、しかもその価格が高騰したので、競って馬鈴薯を栽培したが、十勝では大戦終了の年に4100町歩まで増加したものの、1、2年の後には1600・1700町歩にまで落ち込んだ。

昭和8年(1933)ごろから年ごとに栽培面積は増加し、この年は2900町歩ほどであったのが12年以降8000町歩に急増しており、17年には1万2000町歩に、また20年(1945)には1万4000haにまで増加した。

戦時中は米麦など食糧の配給が十分ではなかったので、馬鈴薯の利用価値は極めて高く、従って農家には強制的に作付けが割り当てられた。なお、航空燃料としてのアルコール確保のため作付けが強制された。

馬鈴薯の収穫(昭和41年)

馬鈴薯の収穫(昭和41年)

戦後も馬鈴薯は食糧作物として重要であったことから、作付けは1万2000ないし1万5000haを維持していたが、米の事情が年ごとに良くなるにつれて、十勝の馬鈴薯は1万1000ないし1万2000haに減じたが、やがて加工原料として見直されたため作付けは再び増加することになった。平成2年(1990)では2万4700haで全道作付の42%を占めている。

馬鈴薯の品種別では、戦前、戦後は「男爵薯」「紅丸」「農林1号」が主流であったが、現在では生食用が「メークイン」、加工用は「トヨシロ」、でん粉原料用は「コナフブキ」で、この3品種が全体の6割を占めている。また反当たりの収量では、昭和30年代は1.4トン程度であったが、現代では3.8トンにまで上昇した。

(亜麻)

開拓の当初から亜麻の試作が始められ、明治29〜31年(1896〜1898)には帯広の晩成社が蒸気機関を備えて亜麻の製線を試みたが事業は成功しなかった。経済的な栽培は明治41年(1908)に帝国製麻株式会社の製麻工場が帯広に設立されてからのことである。

亜麻は十勝の気候、風土によく適合した耐冷性作物として、輪作の確立と牧草混播による地力の維持など畑作農業に大きな役割を果たしてきた。十勝における亜麻栽培の推移は、時代とともに作付けの変動が大きく、第1次世界大戦ではそれまで1000町歩程度であったのが、大正7年(1918)には4000町歩まで増加している。また昭和時代に入ってから2500町歩程度が、8年には3900町歩、13年は8500町歩、15年には1万町歩を超えた。太平洋戦争から終戦にかけては軍需品として急激な伸びをみせ、昭和20年(1945)には最高の1万5000町歩を示したが、労力不足や肥料事情の悪化などで極めて低い収量であった。昭和30年(1955)以降はオランダから輸入された多収、耐冷性の品種が普及して収量は著しく向上したが、昭和40年(1965)に入り、化学繊維の発達と安価な外国原料の輸入に対抗しきれず、北海道で残された十勝の製麻工場も昭和43年(1968)の操業停止に伴い昭和42年(1967)の栽培を最後として姿を消した。

ビート畑の薬剤散布

ビート畑の薬剤散布

ビートの収穫(昭和43年)

ビートの収穫(昭和43年)

(てん采=ビート)

てん菜は明治4年(1871)開拓使時代の官園で試作したのに始まるが、明治13年と32年に製糖工場が建設されたものの、開拓早々の北海道農業に導入することは無理があった。

第1次世界大戦が始まり、糖価の高騰と国内生産量の不足から、北海道のてん菜糖業が注目されるに至った。北海道農事試験場 (札幌)では明治37年(1904)から各種の優良種子を輸入し、北海道における適否と耕種法の試験を行っていたが、てん菜は北海道の風土に適し、収量、糖分はヨーロッパの主産地に劣らないことが認められていた。また北海道農事試験場十勝支場(道立十勝農試)では、明治末期から大正8年(1919)に至る間の試験において収量が良かったこと、さらに製糖会社の試作結果等から、十勝地方をてん菜糖業の適地と確認した。その後大正9年(1920)に十勝管内河西郡大正村(現在の帯広市稲田町)に製糖工場が建設され、てん菜の栽培が奨励されるに至った。従って北海道におけるてん菜の再興は十勝から始まったといえる。

十勝における第1年目、大正9年(1920)は2360町歩が作付けされたが、多雨(5月〜10月の降水量1,051mm、寡照(5月〜10月の日照時数837時間)の天候不良であった。とくに5月の多雨は播種期を遅らせ、その後の生育遅延に加えてヨトウガの多発もあって、収量は1反当たりわずかに0.33トンにすぎなかった。しかし翌10年は3910町歩の作付けがあり、収量も1.6トンを上げ、大正末期まで3100〜4300町歩の作付けは北海道のてん菜の約半分を占め、また収量も1.2〜1.9トンで十勝における主畑作物として曲がりなりにも第一歩を踏み出した。

この間大正11年(1922)に北海道庁では糖務課を設けて積極的な奨励に乗り出した。

昭和30年代ごろまでの十勝のてん菜は、初期は2000〜3000ha台であったが、冷害凶作に遭遇した昭和6〜7年(1931〜1932)、同9〜10年(1934〜1935)に、てん菜が保険作物としての特性を発揮したことから、昭和10年代には4000〜61000町歩と作付面積はかなり伸びた。その後戦時中は労力、肥料の欠乏、地力の減退、栽培の粗放化等により、収量は著しく低下し、なお春早くから秋おそくまでの栽培期間が他の作物に比較して長期にわたるため、決して皆が取り付くような作物ではなかった。昭和20年には10a当たりの収量はわずか0.57トンという甚だしい不作となった。その後も国内事情、特に食料事情の窮迫、諸物資の不足等により、てん菜のみならず特用作物の作付けが激減し、「甜菜生産振興臨時措置法」が施行された昭和28年(1953)には、2800haに落ち込んだ。しかし昭和206年(1951)ごろより農業経営も漸次正常に戻り、てん菜栽培に対する奨励と関心の高まり、さらにはチリ硝石輸入の再開等により、単位収量も回復してきた。戦後の29年(1954)にはアメリカから導入された耐病、多収型の「導入1号」「導入2号」「導入3号」の普及や、生産意欲の向上等から作付け面積が伸びて、34年(1959)には初めて1万haに達し、反収も2.5トンを記録した。なお導入品種は褐斑病には強かったが、根が深く土中に入り、収穫作業も当時は手作業であったため、その後ヨーロッパ系の耐病性は弱いが多収で収穫しやすい品種に替えられてきた。

このようにして、(1)ヨーロッパ系多収品種の普及、(2)画期的な増収をもたらした紙筒移植栽培の普及、(3)北海道施肥標準設定による施肥量の増加、(4)病害防除の農薬と散布技術の向上等、品種と栽培法の改善、さらに天候に恵まれたこともあり、40年(1965)には約1万9000haの作付けで、反当たり3.3トンを記録し、十勝にてん菜が導入されてから約50年にして長年の夢であった3トンに達した。

この間、十勝の畑作は規模拡大、作付割合の変化、機械化の進展から、生産向上が目覚ましく、国内甘味資源生産向上の長期計画により、既設製糖工場の操業能率を向上し、さらに37年(1962)にはホクレン清水製糖工場(旧明治製糖清水工場は19年「1944」ブタノール工場に転換、現在は紙筒工場となっている)、大日本製糖本別製糖所(現在の北海道製業本別製糖所)が新設された。

その後十勝のてん菜は、加速度的に生産が向上し、45年(1970)には作付面積2万4600haとなり、反当たりの収量は4.5トン総生産量110万6000トンをあげた。なお43年に芝浦製糖、台糖、大日本製糖の3社は、ビート部門を合併して北海道糖業株式会社を発足させ、また日本甜菜製糖株式会社芽室工場が昭和45年(1970)に40万トン処理の大型合理化工場として動き出した。

このようにして、てん菜は十勝の畑作における主幹作物の1つとして確固たる位置付けがされ、48年には3万300ha(北海道の53%)反当たり収量5.1トン、総生産量153万4800トンと作付面積は3万haへの大台に乗り、収量もヨーロッパの収量水準に達する目覚ましい生産を上げた。

ところが、49年〜50年は価格問題や労働力不足等の理由から、作付けが激減し、加えて両年とも天候不良による播種、移植期の遅れと、多雨、寡照による生育不良と湿害のため、ヘクタール当たり収量の減少により、総生産量は予想外の減少となった。

最近の20数年間は、紙筒移植栽培の定着による反収の安定期であり、糖分取引移行への一代変革期であった。作付面積は畑作農家の輪作体系の維持確立のため、てん菜生産推進が図られ、生産振興のための事業予算が増額され、面積は着実に回復していった。50年(1975)に3万 を超えた後、59年(1984)には最高の3万2783haとなったが、砂糖消費の低迷や国際糖価の低落によって、60年(1985)には自主規制といえる作付指標面積が設定され、現在では3万haを若干上回る面積に推移している。

一方、この時期の前半の主力品種は3倍体単胚の「モノヒル」などの多収性品種が作付けされた。単胚品種が作付けされたことで、きつい労働を強いられていた苗床での間引き作業から解放され、これが移植栽培を推進する結果となった。また61年(1986)の糖分取引に備えて、高糖性品種の開発が急務となり、63年(1988)には、7品種が優良品種となり、従来の品種はこの年にほとんど置き換えられた。

てん菜が北海道に導入された当初は、糖分を加味した取引が行われていたが、第1次世界大戦後にてん菜栽培が復活した後は、重量のみによる取引が行われ、栽培上の技術指導を収量の向上に重点が置かれてきた。糖分取引移行への動きは47年(1972)に「てん菜取引制度調査会」からの「糖分取引に移行する前提として整備しなければならない過程が多くある」との報告を受けて、糖分の測定方法などの具体的な項目について検討を行うとともに、体制の整備が進められ、61年(1986)糖分取引の実施となった。

(特用作物)

はっか畑

はっか畑

はっか 明治中期の価格がよかったころから十勝にも栽培が始まった、40年代には一時130町歩にもなった。しかし第1次世界大戦で豆類が高騰したため、大正4年のみ100町歩に達したこともあったが、その後栽培は減少し、大正中期でほぼ終わった。昭和年代に入ってから15年ごろまで、全道的な栽培の最盛期があったが十勝ではほとんど顧みられなかった。

大麻 単に麻ともいった。開拓使時代以来、大麻は指導奨励された。十勝では明治17年(1884)に栽培された記録がある。強い繊維を自家利用するため、どこの農家でも小面積ながら栽培した。統計上には明治42年(1909)に50町歩ほどの面積がある。日中戦争以後の戦争中には、衣料の欠乏を補うために栽培が奨励された。戦後は畑の周囲に自然に生えている状態が続いたが、子実や葉は麻薬を含むことから栽培が禁止されているものの「野良生え」の株が毎年のように刈り取られ焼却処分にされている。

除虫菊大正末期から昭和初期にかけて栽培され、管内では最高の昭和元年(1926)でも21町歩ほどで、昭和10年(1935)ごろには全道的に2万町歩を超えていたが、十勝では顧みられなかった。昭和15年ごろにはほぼ栽培が終わってしまった。

ひまわり畑

ひまわり畑

ひまわり 食用や 搾油用として、また家禽・家畜の飼料として利用するのに戦時中奨励された。また玉蜀黍の混播、追播用あるいは畑の風防用・空間地利用作物としても用いられた。しかし統計上の数字は残されていない。



(野菜)

副食として欠かすことのできない作物であるから、移住人口に比例して生産が行われ、その販売の範囲はおおむね輸送手段の発達と併行していた。

帯広の野菜の栽培は、明治16年(1883)晩成社移民団がとうがらし・なす・トマト・胡瓜・西瓜・南瓜・白瓜・甜瓜・ 蕪菁・玉葱・大根・人参・アメリカ防風・西洋山葵・百合根・慈姑などを試験的に小面積に栽培している。

翌17年には南瓜・胡瓜・越瓜・西瓜・キャベツ・大根・人参・長葱・茄子・蚕豆などを栽培している。

一方十勝農業試験場においても、明治39年(1906)以降各種の野菜が試験栽培され、その適否を調査している。

十勝の野菜は古くから帯広市周辺で栽培され、地場市場に供給されていたが、本格的に栽培を始めたのは昭和60年ごろからである。

その内訳は加工用を主体としてするスイートコーン・長いも・大根・牛蒡などの根菜類、ブロッコリー・キャベツが十勝を代表ごぼうする野菜である。

用途別ではスイートコーンは缶詰や冷凍、カボチャとホーレン草は冷凍など加工仕向けの比率が高い。

このほか苺が農家各戸に小面積ではあるが植えていたが事業といちごなることはなかった。

(果樹)

十勝管内は気象条件が果樹栽培に適していないため、道南・道央地区に比べると栽培面積ははるかに少ない。しかし開拓の先人達はこれで満足していたわけではなく、果樹の苗木を取り寄せて厳しい自然条件のもとで挑戦した。

生活にゆとりが多少ともできた大正末期ごろになると果樹熱が高まり、わずかな面積はであるが苹果・梨などを家敷回りに数本ずりんごなしつ植え始めた。

一方十勝農業試験場では明治39年(1906)に試験栽培を行い、栽培可能もしくは見込みのある果樹として、グーズベリー・カーランツ・木苺・苹果・梨・梅・桃・ぶどうなどをあげているが、その後一般に普及したのはグーズベリー・カーランツ・すもも程度で苹果・梨の栽培は無理があったし、虫害防除という管理作業もあって普及しなかった。

戦前はすもも、グーズベリー・カーランツはどこの農家でも植えてあったが、最近ではこれらの果樹は見向きもされなくなった。

(その他の作物)

 養蚕には欠くことのできない飼料作物である。北海道では山野の至るところに豊富に生えていた。しかし収葉が厳しいと樹勢が衰弱し、葉質不良となり、しかも十勝は冬期に寒気が強く、府県において栽培しているような良質なものが得られなかった。

しかし養蚕は副収入となるので、十勝でも開拓が始まった明治38年(1905)には野桑のほかに伏古村、下帯広村などにおいて、北海道庁補助桑苗圃が設置されている。明治42年(1909)には栽培面積は100町歩に達し、以後大正10年ごろまで100町内外を維持していたが、第1次世界大戦後は衣料が豊富に入手できることもあって、栽培面積は急減した。

菊薯 十勝で正確にいつから栽培をはじめたのか分からないが、おそらく昭和初期からではなかろうか。家畜の飼料として利用され「豚薯」とも称されていた。1度植えると塊茎が残って、輪作上困った問題となり、また土地を痩せさせることから、やがてはや中止となった。現在は捨てられて残った株が路傍にたくましく生き続けている。

畜 産

ドサンコ(江差号、明治40年生まれ、「十勝馬産史」より)

ドサンコ
(江差号、明治40年生まれ、
「十勝馬産史」より)

(幕府の備馬)

十勝に馬が姿を現した年代は比較的新しい。為政者の施策と、日高・十勝国境の険しい地形がその移入を妨げていたからである。

寛政10年(1798)までは、様似以東は峻険で馬が通れず、従って馬の飼養は無かったが、この年11月、幕臣近藤重蔵が、十勝場所ルベシベツからビタタヌンケに至る山道3里弱を開削し、引き続いて幕府が寛政11年に様似山道(様似、幌泉間)と猿留山道(幌泉、ビタタヌンケ間)および礼文華山道を開通させて、ようやく様似から釧路まで馬を通すことができるようになったので、馬60頭と牛4頭を南部から購入し、これを東蝦夷地の各会所(場所)に配布して、運搬、連絡用に供した。

嘉永6年(1853)の十勝場所 備馬は135頭、そのうち当歳馬が19頭含まれていた。

備馬の飼育管理には場所請負人が当たっていたが、四季放牧という飼い方であった。

(明治・大正時代)

江戸時代の場所請負人は漁場を経営するとともに、場所のアイヌ 撫育、御用のための宿泊・人馬継立の義務を負わされていた。ぶいく開拓使時代に入って場所請負制が廃止された時、場所によってさまざまな変動形態が取られた。開拓使は明治2年(1869)11月に運上屋・会所を本陣と改称、請負人を本陣用達、支配人相応の人物を本陣取締に命じたが、本陣という名称に示されるとおり、従来の請負人業務のうち宿泊・人馬継立業務はそのまま継続させた。だが開拓の進展は官員・人民の往来を頻繁にし、人足に徴発される人民負担のためにも、制度の改正は必要になってきた。5年(1872)11月、本陣の名称を旅籠屋並と改め、同4月には旅籠屋並をやめて本陣・会所とも旅籠屋と称することにし、一般の人民も自由に利用できるようにした。続いて5月、会所・旅籠屋を駅場と改め、8月には駅逓取扱所とした。目まぐるしい変化であるが、宿泊と人馬継立を業務とする点で本道独特の制度であり、後に駅逓所となる。

明治2年(1869)11月、開拓使は官員出張の際の基準を発表、広尾十勝会所にも布達された。従来官員始め諸家通行の際、役土人が礼服で先導したが、今後は長官・判官の巡見等以外は廃止することである。同時に人馬数を次のように定めた

長官馬8匹人足14人
判官・権判官馬6匹人足11人
大主典・権大主典馬3匹人足4人
少主典・権少主典馬2匹人足2人

この規定は人民負担の軽減も考えたものであろうが、官員の出張はえらいものであった。このときの布達に「駅場」という言葉が出ているが、部分的にはこのころから使われていたのであろう。大津が当時の駅場に相当する。

備馬について「各県支配地13ケ条取調書」によると、分領支配終了の直前、静岡県(大津会所)備馬60頭、徳川両家(広尾会所)135頭である。ただし、前者は引き継いだとき69頭、明治3年の冬の斃馬22、出生13、後者は140頭を引へいき継ぎ、3年冬の斃馬22、出生17であった。放牧馬なのへいで、慣れぬ大雪対策が不十分だったのである。

明治時代に入ると、草道をたどって馬足を奥地に踏み入れる者が出てきた。4年の筆とみられる「十勝州略志説」(注・十勝州静岡県出張の記録)に「全州駅馬200疋中ニ就テ其用ニ適スルモノ鮮少トナス」とあるが、その反面、地元アイヌたちの馬を扱う技術が向上するとともに、活動範囲は拡大していった。明治9年7月4日の松本10郎日記に「オヒロヒロフ近傍に馬糞を見る」と書かれている。帯広で飼育していたとは思えないまでも、馬がここを通ったことは確かである。

明治15年末調査の「民有牛馬現在表」によれば、十勝の馬は計378頭、大部分は海沿いの広尾・当縁・十勝の3郡で占められ、十勝川中流の中川郡がわずかに13頭、あとの河西・河東・上川の3郡は皆無となっている。河東郡音更村の大川宇8郎が牝馬1頭を大津村から移入したのは明治14年であるが、大川は当時無願入地者であったためこの調査に漏れたものとみなされる。明治16年5月28日の晩成社目録に「当社願地の中に国分という者あり。先年より住居し馬1頭を放牧せり」との記載があるが、14年の秋か15年に購入したものであろう。これも大川と同じ扱いを受けている。

いわゆるドサンコは、乗馬には適さず、ただ強健でよく難路に耐え、駄送に適していたので、開拓当初はもっぱらこのドサンコを利用した。体尺は普通125〜130cmであったから駄鞍をかけるのが容易であり、粗食に耐え、冬期間は原野に放牧して雪下の笹や木賊などをたべ、体中つららを下げて走り回るくらいであったから、開拓者は1戸に1頭くらいは飼育した。これもプラウの発達に伴って力の強い大きな馬の要求となってドサンコは明治40年代から次第に姿を消していった。

大正13年(1924)6月、北海道庁種畜場北見分場が設置されて種馬候補馬の育成を始めることになり、12月には、農商務省は畜産試験場北海道支場とし月寒種羊場および滝川種羊場を廃止し、農商務省月寒種羊場を設置するなど、馬産改良に一段と力を入れることになった。

農家戸数の増加、耕地面積の拡大は馬の飼養頭数を増加させた。明治30年ごろには2150頭であったものが、40年には1万7800余頭、大正4年には3万2000頭にもなった。しかしその後14年は戦後の不況もあって3万3000頭でわずかの増加に止まった。

(昭和(戦前・戦中))

戦前の馬産 昭和2年(1927)の管内の馬数は3万6000頭、繁殖適齢牝馬は2万7000頭であり、これに供用する種牡馬は十勝種馬所の国有種牡馬55頭、十勝畜産組合が国及び道から借り受けあるいは所有するもの36頭、民有203頭計294頭で1種牡馬当たりの交配頭数は90頭を超えた。

この状態をみて十勝畜産組合は画期的な種畜増殖計画を樹立して、馬産界の円滑な発展を期することになったが、これに多額の資金を要するのは当然のことである。

ここで組合は管内2歳馬の家畜市場総出場を計画し、その歩合金の増収を以って資金に充てるよう目論んだところ、一部業者間に猛烈な反対運動が起こされた。しかしこの計画は実施に移され、計画に加えて北海道庁補助金2万7000余円、北海道畜産連の助成金3000余円等があって、予想外に順調に進んだため、計画を1年短縮し昭和4年度において一気に実現した。

十勝畜産組合は昭和5年2月の定期総代会にこれを提案、定款を改正、二歳馬総出場規程を制定し、昭和5年度は牡馬のみ、昭和6年度から牝牡ともにこれを実施することを可決した。ところが昭和5年は大豊作がかえってあだとなり、昭和6年の大凶作に拍車を掛けられ、価格は一挙に41円まで下落した。

昭和4年(1929)3月、家畜保険法が公布され9月施行となって、家畜保険組合の設立が認められることになって十勝にもその気運が出てきた。8月には帯広町で「東北海道産業共進会」と「第4回十勝2歳馬共進会」ならびに「第12回十勝産馬共進会」が開催された。

昭和5年7月、帯広定期家畜市場を会場に軍用牡馬資源の調査が行われて、満州鉄道権益にかかわる騒然とした情勢とともに、事変勃発のきな臭さが漂い始めた。当時重種馬志向の中にあって、トロッターなど内国産洋種が注目され出し、加えて軍用適格馬の指導も出てきて、いわゆる「中間種」の価格が重種を上回るようになった。

このころ地方馬検査が各地で行われたが、農林大臣賞が授与されたり、また検査官から表彰されたりして、軍用馬に目標を定めた内国産洋種、いわゆる「中間種」に重きを置いた検査が見られ、昭和6年9月に勃発した満州事変をにらんだ配慮がありありとうかがうことができる。

また、12年、馬生産率増進施設補助規則が制定され、馬匹の人工受精が普及し出し、北海道農事試験場にも畜産部が新設されて畜産試験を始めるなど、第2次馬政計画に向けて着々と態勢が整えられていった。

馬の親子

馬の親子

戦中の馬産

昭和12年(1937)7月7日、日支事変(日中戦争)が勃発し戦争へと拡大されていったのである。

戦争の拡大とともに多数の軍馬が徴発されて中国大陸へ送られたが、実戦に不適格な馬が多かったので陸軍省は、昭和13年6月「馬政ニ関スル陸軍ノ要望事項」、同年8月「軍馬ノ資格及能力ニ関スル標準」を、農林大臣および馬政局長官に通達し、馬政の改革を要請し、かつ閣議においても同様の提案がなされた結果、国策としてこれを取り上げることになり、内閣においては、13年7月に「日満ニ亘ル馬政国策」を、また、馬政局においては同年9月「内地馬政計画」などを定めた。

これらによれば、馬政計画は、「内地ニ於テハ軍所要ノ有能馬、特ニ戦列部隊所要ノ有能馬ヲ供給スルヲ主眼トシ」とあり、外地および満州国においても同じく、軍所要馬の整備供給が馬政の主眼となったのである。

こうして、従来の軍事と産業の両面にわたっていた産馬方針は、産業用をほとんど無視した軍馬第1主義へと改変された。

昭和16年2月、農林省は国有種牡馬の充実を目指して購買した候補種牡馬などの育成のために、音更村の農林省種馬所に併設して北海道種馬育成所を開設した。太平洋戦争宣戦布告後の12月27日には農業生産統制令が公布され、馬匹の最高販売価格が設定されて制限されるなど、戦争遂行のための統制が一段と強化された。

戦争の激烈さと戦線の拡大は莫大な戦争物資の消費を伴い、国内のあらゆる物資が欠乏し始め、これらの増産至上命令が出され、畜産関係においても軍馬の生産はもとより、えん麦の増産供出、自給飼料の増産、稲藁の集荷など、割り当てによる強制増産供出が強いられ、馬糧の「シマ草」刈りに動員され、また軍用保護馬の鍛練、馬資源の確保と強制され、この18年以降ますます厳しくなり終戦まで続くのである。

(戦後の盛衰)

昭和20年8月、ポツダム宣言を受諾、無条件降伏して終戦を迎えた。この年の馬の頭数は帯広市962頭、大正村3767頭、川西村2220頭で合計6949頭、十勝全体の13.4%を占めていた。この敗戦を境にして、馬産を含めた日本農業はいうに及ばず、制度機構、組織、すべての産業経済に大変容を迫られ、急激に変化させられていく。

昭和23年7月に、昭和14年の種馬統制法が廃止され、軍馬生産中心の産馬施策は、馬匹以外の家畜を含めた振興策を盛り込んだ「種畜法」に取って代わられ、また、旧競馬法と地方競馬法が廃止されて、公認競馬は国営とし、地方競馬は地方自治体とする新「競馬法」が公布されて、明治以来馬産の振興と地方住民の娯楽慰安に大きな貢献をしてきた競馬が復活した。

敗戦の昭和20年には4万2800頭(十勝畜産組合では5万1590頭)であった管内の馬は、その後年々増加して27年には6万頭を超え、30年は6万4000頭(31年には6万5070頭)を最高として、その後年とともに漸減し、40年は3万9000頭、50年は5900頭、60年4200頭となり農耕馬としての利用から、多くは肉用としての利用や小型の愛玩用に変わった。

(馬産改良)

十勝川の下流生剛村に「十勝産馬改良組合」が結成され、同地に35万坪の牧場経営をはじめたのは明治20年(1887)である。十勝における改良事業の端緒とされた。

管内における馬産改良の第一歩は、明治24年(1891)4月道庁貸し付けによるサラブレッド雑「第2手稲号」およびサラブレッド雑「第2ダブリュ号」の両種牡馬に始まる。

十勝の馬産改良に大きく貢献したのは国有種牡馬のイレネー号である。

この種牡馬は明治43年(1910)馬政局がフランスにおいて2400円の価格で購入したペルシュロン種(重種)で入国後同年11月に十勝種馬牧場(音更町駒場)に入場した。以来昭和3年5月22日、突然負傷し斃死するまでの18年間に数多へいしくの優良馬を残した。

すなわち18年間に1074頭に交配、597頭の産駒を得たが、その産駒中196頭が種牡馬(うち国有種牡馬21頭)を数え、さらにイレネー号の孫系に当たる種牡馬は363頭で、その直系の種牡馬は559頭に達し、その成績は優秀で本道産馬上に名馬の誉れを残した。

昭和5年ごろから11年ごろまでの間、馬の価格が下落し、特にペルシュロン種をはじめ重種馬は、競馬の隆盛による競争用(連歩競争用)馬の生産と、中間種系軍用馬購買価格の高値が重種馬価格を抑えて、全般的に馬価格が安値の中で重種馬志向が減り、アノ系中間種の生産が増えた。このように昭和5年以降は中間種の生産に拍車がかかり、ひいては軍の要望する乗馬および輓ばん 馬の造成につながっていったのである。

肉資源としての進展は、2歳馬夏市場取引の形態持続を許さず24年よりは冬市場(2〜3月)の開催となり、さらに26年からは当歳馬冬市場(11月〜12月)の開設と、この悲惨な農村の状況が2歳馬総出場を行って、安定した馬市を現出、再び馬産王国十勝の大看板を打ち立てた。

かくて農協系統組織の必死の馬市対策は奏功して昭和27、8年ごろより盛況を極め、36、7年まで好況を持続した。

ともあれ開拓当初より持続した畜力農業は、遂に100年の伝統を脱し、機械化の前に大きく変貌し、昭和38、9年ごろより管内飼養馬数の急激なる減少により、生産減退とともに、市場出場頭数の減少となったことは、やむを得ないものといえようが、系統における生体市場のあり方も、度々論議されるところであった。

昭和20年代の後期になってから、農耕用に適合するということからペルシュロンを中心とした重種志向が強く、重種による改良で産業馬の生産に力を入れることになった。

昭和33年ごろから馬産の前途に陰りが見え始めた。時代の流れによる馬産の衰退には棹さし得ず、農耕馬としての馬産改良さおに重種をもって終末を遂げることになる。

(競馬)

帯広で競馬が行われた記録は、明治27年(1894)9月のオベリベリ住民たちの祭礼余興をはじめとする。市街地の発生とともに、競馬が始まったことになる。だがこれは手頃な直線コースを選んで走らせるという単純なものであった。いわゆる草競馬である。29年(1896)には十勝で3番目に開校した帯広小学校の開校記念祝賀会の余興で競馬が開催されている。

競馬場は、明治30年秋に創設された。東3条から7条までの10丁目の国有地を借り、楕円形半哩(0.8km)の馬場を十勝分監受刑者の手を借りて作り、年々施設を整えていった。第1回競馬は30年(1897)9月、以後春秋2回定期的に開催された。下帯広有志による「帯広共同競馬会」主催の草競馬であった。当初は競馬1回の賞金総額が200円足らずであった。それが回を追って盛会となり、500円に及んだ。30年代末期になると運営の方も整備され、帯広競馬会(会長)三井徳宝、(副会長)倉安次郎、(幹事)朝倉繁志知の組織が確立、実際面では主として朝倉が活動した。

馬は近在から集まり、観客は泊まりがけで熱をあげた。

この競馬は明治40年春の第28次をもって終わりを告げ、競馬場もろとも十勝産牛馬組合の手に移った。

産牛馬組合(当時の組合長は河西支庁長村本初太郎)は東宮殿下行啓記念事業として、約4000円を投じて馬場を18間(約32m)幅の1哩に改め、観覧席の新設をはじめ諸施設を整備した。この際の工事も、十勝監獄の労力によるものであった。馬政局からの補助金を得、地方公認競馬としての第1回は、明治44年11月17日に開催され、これを「十勝競馬」と呼んだ。

昭和初期、帯広町民の間には、競馬場が東部1帯の地域を占めていて、市街地発達を阻むとの理由で、その解放を論議するものが多く出てきて、昭和6年1月には町長が公式にその解放を申し入れるという事態が生じ西部に移転を決定した。

昭和7年(1932)これを解放、西部に工費約3万4000円で新設した。旧競馬場は8万余坪、新競馬場は約10万坪の地積を持っていた。

終戦後虚脱状態に陥った国内において、いち早く競馬の再開を望む声が台頭したが、敗戦国として種々の拘束があって容易に復興しなかった。この時、札幌競馬場では進駐軍の娯楽、慰安の名目で全国に先駆けてヤミ競馬が行われ、軍馬資源保護法が廃止になり取り締まりの途がなくなっていたので、各地にヤミ競馬が行われるようになった。十勝管内数ヵ所において行われたヤミ競馬は間もなく取り締まられ、昭和21年11月法律第57号の地方競馬法が公布され開催権を失った。

昭和24年(1949)公営競馬としての輓曳競馬が行われたのは、戦争でサラブレッド種やアングロアラブ種が壊滅的な打撃を受け平地競馬の開催が困難となったため、その代替として考えられたものである。この輓馬競走は太平洋戦争前には高低のあるコースを選んで断郊レースの形を取ったことがある。当時の輓曳競馬の出走馬の大半は都市輓馬や種牡馬、そして一部の農耕馬が仕事の合間を利用して出走していたような状況で、現在の祭典輓馬と何ら変わるところがなかった。

戦後軍馬としての需要が全くなくなったことに加え、昭和30年代後半に入り農業の機械化が進行していったことにより、馬の出番が失われたかのように思われていたが、この輓馬競馬が開始されたことで再度、馬が脚光を浴びることになった。

輓曳競馬が始まった当時は輓曳競馬を専門とする馬も馬主も存在することがなかった。しかし開催日数・開催場所が増え、さらに馬券売上高が上昇することに伴って、輓曳競馬界にプロの輓曳馬や馬主、そして調教師が次々に誕生していく。

「力」だけの輓曳競馬は「力」+「スピード」が望まれるようになって、ペルシュロン種、ブルトン種などの半血種にベルジアン種を加えて、大型化・輓曳力増強・スピード化が図られていった。

それまで全盛を極めていた競馬も平成年代に入ってから衰退が始まり、9年(1997)をもって帯広競馬は幕を閉じ、農村でわずかに草競馬が開かれているにすぎない。

帯広競馬(大正初期)、帯広競馬(昭和7年ごろ)、輓曳競馬 帯広競馬(大正初期)、帯広競馬(昭和7年ごろ)、輓曳競馬 (未指定)帯広競馬(大正初期)、帯広競馬(昭和7年ごろ)、輓曳競馬

帯広競馬(大正初期)、帯広競馬(昭和7年ごろ)、輓曳競馬

帯広家畜市場(昭和2年)

帯広家畜市場(昭和2年)

(馬市)

十勝国産牛馬組合が明治39年(1906)に結成され、その最初の事業は優秀な種畜を導入して改良を企てることと、家畜市場を開いて有利に販売せんとしたことであった。

組合は翌40年11月、現在の帯広神社付近の露天で十勝物産品評会が開催されたことを機会に、同所で市場を開き、牛馬合わせて67頭が出場、その中28頭が売買成立、この総額2128円、平均76円であったことが記録されている。これが十勝における家畜市場の最初のことであった。

翌41年も帯広・大津に家畜市場を開設、牛10頭、馬93頭の売買があったが、42年には休場、43年家畜市場法が公布され、44年帯広・本別・浦幌・大樹・大津・幕別の6カ所で復活したがその規模は小さなものであった。大正3年(1914)には帯広に中央集中主義を取ることに方針を議決、大正5年現在の緑ケ丘の旧監獄用地150町歩の貸し付けを受け「定期市場」として、市場建物の建築を行ってその目的を達した。それまでの小臨時市場をすべて閉鎖したほか、軍馬購買地も全廃し、帯広の市場1本に集中して開催したところ、たちまち道内一の売上高を示すという盛況ぶりであった。市場は十勝の中央に位置し、しかも顧客に便利な都市市場である点にも特色があった。

このころ第1次世界大戦の勃発により、諸物価高騰に加えて市場中央集中主義は業界に歓迎されて、釧路大楽毛、根室厚床市場とともおたのしけあっとこに帯広市場は、本道三大家畜市場とうたわれて、殷賑を極めたいんしんが、畜牛は管内にその数1100頭程度、家畜市場は馬のみの市場であった。

第1次世界大戦の終わりとともに、押し寄せる不況の波には畜産界も孤立を許されず、昭和6年は未曾有の凶作と重なり、2才馬の市場価格は平均40円余、中央帯広市場の最低を記録、農家が 糊口をしのぐため手放した2才馬が、わずかに2円という惨めここうなものさえあった。

この悲惨な農村の状況が5.15事件、2.26事件を招いたとさえいわれるが、十勝畜産組合は2才馬総出場を行って不況に対決し、満州事変、上海事変の勃発等もあって、安定した馬市を現出した。

昭和13年(1938)のこと、十勝の馬市で取り引きされた馬はすべて左臀部に「◯印の中に十」と烙印を押すことになった。日高ではHを用いて畜主はこれを自慢にしていた例があったからである。

なお、市場は大正4年(1915)十勝産牛馬組合が設立された翌年帯広市緑ケ丘付近(現、西14条南15丁目、仏弘寺付近)に施設を移し、帯広定期市場の認可を受けており、その後市場施設は移転を繰り返すことになるが、昭和6年(1931)には市内西15条南8丁目(現競馬場厩舎付近)に、そして昭和40年(1965)には共進会場へ移っている。

昭和45年(1970)市場業務がホクレン十勝畜産総合事業所に移管された後も、しばらくの間は十勝農協連の市場施設を利用して家畜市場を開催していたが、昭和60年以降は十勝南市場と北市場を統合して音更町に近代的な市場施設を新設し、現在は馬・乳牛・和牛など、道内1の上場数を誇っている。

十勝畜産組合

十勝畜産組合

(畜産組合)

明治33年(1900)に産牛馬組合法が公布されたが、十勝は開拓苦難の時で直ちに組合設立には至らなかった。しかし明治39年に資質劣悪な在来馬の改良を目的とする馬政計画(第1期18年・第2期12年)が樹立されたことによって広大な牧野を有し、すでに馬1万3200余頭、畜牛1200余頭を飼養していた十勝も産地として期待された。

当時は一部地域に産馬組合が組織されていたものの、家畜市場施設もなく家畜の販売に苦慮していた状況もあり、馬政計画を契機に強力な畜産団体を設立して積極的な改良増殖を図り、十勝畜産を発展させようと高倉安次郎・諏訪鹿三が中心になって明治39年4月に組合設立発起人会が結成され、同年6月に加入者360余人による創立総会を開催して、十勝国産牛馬組合が設立された。(明治40年1月16日設立認可)組合は帯広町大通6丁目高倉安次郎方に事務所を設け、専任書記を置いて仕事を始めた。

創立時は馬匹・畜牛改良のための種牡畜確保を急務とし、北海道庁から種牡馬8頭、種牡牛4頭の貸し付けを受けて供用し、十勝郡農会・十勝水産組合と共催で家畜市場を開催したが、交通事情も悪く予期した成績を挙げることができなかった。同44年(1911)9月の東宮殿下(後の大正天皇)行啓の際、十勝公会堂前で十勝国産馬7頭をご覧になり、トロッター種蓋世号(中川郡幕別村糠内産)をお買い上げになった。馬の購入は十勝だけであった。同年11月には行啓記念事業として十勝競馬を開催する等、積極的に事業展開したが、組合員の経営難もあって財政的には苦難の経営状態が続いた。

大正4年(1915)1月に畜産組合法が公布されて十勝産牛馬畜産組合と改称し、組合員の増加と事業規模の拡大に対応するため、専任幹事を採用して運営体制の強化を図り、大正9年(1920)には組合が自主運営するとして歴代支庁長の組合長兼務を改め、奥野小四郎が組合長に就任して昭和22年までその職務を務めた。

昭和2年(1927)の畜産組合法改正で十勝畜産組合と改称し、組合員資格が牛馬の生産者に加えて飼養者にまで範囲が拡大されたため、基礎牝牛馬の激増に対応する種牡畜の足解消を図る種畜増殖計画を樹立し、購買資金は低利融資を受けて市場歩合金を償還財源とする3ヵ年計画で実施したが、2才馬の出場頭数の増加による市場の盛況と北海道庁等からの補助金交付もあって2ヵ年で計画を達成することができた。

また経営の基礎確立と財源確保のため未開地開放を北海道庁に要請し、大正3年11月に無償貸付地256町歩と特別売払地39町4反歩を得たことにより、財政的に好転して経営の安定化が図られ、その後も馬匹価格の高騰で飛躍的な市場売り上げ増加と各種助成による事業施設の完備、家畜市場・競馬場・共進会場・牧場用地等を取得して活発な事業活動を展開した。

法の改正に基づき「十勝畜産組合」と再度改称したのは昭和2年である。事務所も高倉方から、明治42年河西支庁内に移転して大正7年まで間借り生活が続いた。東5条9丁目に移転したが、これは河西外5郡農会との共同出資による共同事務所であった。

昭和7年(1932)現在の帯広市西13条南9丁目に新築移転、競馬場・畜産共進会場・家畜市場・衛生試験室・職員住宅などの施設と合わせて、名実ともに備わった畜産十勝の拠点が形成された。

このように膨大な資産形成と積極的な事業活動で強固な組織基盤の確立を図ってきたが、昭和6年以降の戦争拡大で組合事業にも次第に規制が強まり、昭和17年(1942)10月には十勝産馬畜産組合と十勝牛羊畜産組合に組織が分離され、事業も馬の改良増殖だけとなり、翌年には十勝馬匹組合に改称させられ、万事が統制下のもとでは組合が意図する組合員のための事業活動も制限される状態になった。

昭和20年の終戦によって農業団体の収拾策が講じられ、昭和23年(1948)7月公布の「馬匹組合の整理に関する法律」により十勝馬匹組合も解散を命じられた。以後は創立された十勝農業協同組合連合会に事業は継承されることになった。

(乳牛) 晩成社の依田勉三は下帯広村に入植して以来、度重なる災害に直面し失意を抱き、当縁村に拠点を移して牧畜経営に事業を切り換え、明治19年(1886)から牛を飼い始めた。当時はほとんど短角、デボン、シンメンタールなどの肉用種であった。

そのころの北海道は、道南から札幌へと経済の中心が移るころであり、畜産試験場施設も、道南の7重勧業試験場が明治9年に札幌に移って真駒内牧牛場となり、同19年には真駒内種畜場と改称され、本格的に乳牛の改良が進められるようになってきた。

乳牛が十勝に導入されたのは明治20年(1887)に、道庁より借用の牡牛「エアーシャ」種である。

十勝の民有牛は明治23年約100頭(その大部分は当縁村の晩成社牧場)33年643頭(河西郡66頭)43年2557頭、これは当時の十勝には荒蕪地が多く、雪が少なこうぶちいので放牧に適し、手数をかけずに仔牛を成牛に育てることができたためである。それが開拓が進むにつれ放牧牛馬の住む天地は次第に縮少していった。そうなると農業経営の面からも、肉用牛を乳牛に転換させる必要が生じてきた。大正2年ごろがその交替期に当たっている。明治43年(1910)の2500余頭が漸減して1100頭台でしばらく足踏みを続け、再び2500台に復するのは大正14年(1925)であるが、そうした動きの背後では乳牛への切り替えが行われていた。大正11年から道庁の補助牝牛制公布が拍車をかけ、昭和10年(1935)は99%までが乳牛になった。ホルスタイン全盛期に入ったのである。

明治30年代に高山万造が石狩通8丁目で牧場を経営、10頭内外の乳牛を飼って飲用牛乳を扱っていた。同40年売買村戸蔦に転住、そのあとは大津村の相馬某が引き受けたが、いくばくもなく高倉佳造が譲り受けた。

高倉佳造は安次郎の三弟、明治34年(1901)大通6丁目で雑貨商を営んでいた長兄のもとに移住した。38年依田勉三と野呂荘次郎の紹介により、旭川の旭農場(小林直三郎)近文支場で1年間実習した。39年5月、河東郡音更村下音更の高倉農牧場で牧牛を始め、ただちに帯広市街地における牛乳販売の営業許可を受けた。

そのころ石狩通3丁目には、元河西支庁吏員の伊藤八郎が牛舎を建て、やはり市乳を始めた。伊藤の牧場は間もなく小林藤蔵の手に移り、小林は十勝川対岸の音更山公園(のちの鈴蘭公園)を放牧場としていた。明治38年の統計書に、下帯広村の搾乳場所2、乳牛数20とあるのは、この牧場と高山牧場を指したものと推定される。小林牧場は長くはなく、やがて寺岡某の所有となりさらに転じて西屋要治に移り最後は売りに出た。建物と器具類は高倉佳造が買い、牛は幕別村の新田牧場に売り払われた。

下音更の高倉佳造が帯広町4番地(現在の西11条南6丁目)に出てきたのは大正元年(1912)11月である。帯広市街の発展は目覚ましく市乳の需要が増したからである。下音更からでは配達にも不便であった。4町5反歩の土地は狭すぎたが、地続きの監獄用地を放牧場に使える利点があった。

前記のような事情により、大正初年から中期の牛舎は高倉牧場だけとなった。乳牛も増えていった。大正7年末でみると帯広町全体の飼育牛26頭に対して、高倉牧場の乳牛は20頭という高率になっている。牛乳が余るようになりバターにして兄の高倉商店で販売したことがある。大正11年帯広町の土産物に「バター500斤」とあるのがそれである。

大正7年には、依田勉三が農事試験場の西北側(東9条7丁目)に成搾乳所を建設、大津村から牛を移して同9年から市乳の販売を始めた。依田牧場とも呼ばれ最初高橋某が管理していたが、13年に養子の依田善助にかわった。やや遅れて農事試験場南側の札内川畔で内藤精1が牛を飼い始めた。その他では宮内治(現在の西2条北1丁目)、蛯名茂次(東9条2丁目)、堂山9内(水公園のほとり)らが牛を飼い始め、帯広神社から水公園、そして札内川依田(高橋某)の西側と酪農地帯を形成していった。ちなみに大正9年の関東大震災の直後、政府は震災救護品の名目を借りて無税の外国乳製品を多量に輸入したのであるが、このことに反発して、北海道牛馬組合連合会は外務、大蔵両省に北海道酪農の危機を陳情している。酪農危機陳情劇がこのころすでに行われていた。

酪農が定着してくると、乳牛改良に着手する者も出始め、大正15年の宮内治、昭和3年の高倉佳造、同13年の依田善助などを先導者として同15年ごろには帯広市の多くの酪農家が能力検定を受検するようになっていた。

大正地区では遠藤太三郎が大正末期に牛を飼い始めて現在まで続いており、種牛も生産し、昭和15年から能力検定を受けるなど、同地区の酪農発展に多大な貢献をしたのである。川西地区において堀内善為、真鍋義秀、中村俊夫らが飼い始めたのも大正末期であり、堀内は昭和4年、真鍋は同6年、また中村は同13年に検定を受けており、川西地区の先駆けとなった。

明治末から大正にかけて市乳の需要が増加し、市乳工場ができ始めると牛乳運搬に便利な帯広市で酪農が発展・定着し、大正末から昭和初めにかけては川西、大正地区も帯広市街に近いところから有畜農業(酪農)が定着してきている。

十勝の酪農進展の中の1つの大きな特色として、てん菜耕作と甜菜糖業を見逃すことはできない。第1次世界大戦後の砂糖景気による糖業資本の本道進出と時を同じくして行われていた。北海道帝国大学の佐藤昌介と南鷹次郎らが北海道農業経営安定発展のために主唱し全道的警鐘となって、全道農民を喚起させた「混同農業」「農牧兼営農業」でのてん菜栽培への取り組みとが相まって活況を呈したのである。

この一体となった盛り上がりはてん菜耕作の急増とこれの葉茎を飼料として有効利用に結びついた乳牛の飼養増加、さらには厩きゅう堆肥の増産と地力の維持増進とてん菜作付適圃場の増大となった。その中でもそうした勢いの最も強かったのが十勝であって、これに着目した糖業資本は、まず大正8年6月に、帝国製糖(株)系の北海道製糖(株)が創立され、河西郡大正村(後の川西村、現帯広市)翌9年には日本甜菜製糖(株)が人舞村(清水町)に創立され、てん菜耕作により畑作の集約化、酪農化が進み、道庁は各種の補助・助成制度が手厚く盛られた。

酪農は畑作とともに十勝農業を代表する存在である。現在生乳の粗生産額は管内農業粗生産額の30%近くを占めている。

乳牛飼養戸数は現在減少傾向にあるが、1戸当たりの飼養頭数は年々増加し、規模が大型化している。生乳生産量は全道一で全道の25%を占めている。

昭和32年(1957)の飼養頭数は約1600頭であったが、以後は急増して55年には8800頭、平成4年の1万400頭を最高として12年は8700頭にまで若干減少した。

(肉牛) 当縁村湧洞(現在大樹町生花)の佐藤嘉兵衛が、明治15年(1882)に和牛の「日本短角種」を2頭購入した。やがて4年後に晩成社の依田勉三が南部牛を入れた。当時は肉牛が主体であり、十勝に本格的に肉専用種が普及を見るようになったのは戦後のことである。すなわち開拓行政の一環として昭和26年(1951)に足寄町、同33年には大樹町と相次いで「黒毛和種」いわゆる和牛が導入されたことにより十勝の肉用牛が始まる。

昭和32年(1957)には不漁対策として、大津村(現在豊頃町)に日本短角種が導入され、不漁に悩む漁家の副業に沿岸山野を利用し、生活の安定をはかる目的で飼養されることになった。

アバディーン・アンガス種(肉用種)

アバディーン・
アンガス種(肉用種)

その後昭和35年には、和牛の子牛市場が開設されるまでに資源が急増した。また34年には和牛の増殖にこたえるように、農林省十勝種畜牧場に全国唯一の和牛指導課が設置され、和牛をはじめとした各種肉専用種の性能調査や種畜生産のほか、肉用牛の飼養技術改善に向けた研究・調査が行われるようになった。昭和36年にはアバデイーンアンガス種やヘレフォード種も飼育し、放牧適性試験を開始している。また農林省は草地資源を有効活用した肉用牛の生産を普及させるために北海道・青森県・岩手県・熊本県・長野県などに外国産肉用牛を貸し付けした。一方で乳用去勢牛の肉用化が試みられたのも昭和36年ごろからであった。国や地方自治体の肉用牛生産振興策に呼応する形で、十勝管内にはあらゆる品種が手探りの状態で飼養され、次第に増加していった。

こうした生産指導によって内外に十勝和牛の名声を高めることになったのは、各種共進会・共励会において常に上位入賞していることに加え、全国規模の能力共進会や経営実績発表会での上位入賞があることも大きく寄与している。また産肉能力平準化事業など広域的な事業に率先して参加、協力してきたことが地域の遺伝資質改良に貢献したものと考えられる。

肉用牛は昭和40年(1965)に1600頭たらずであったが、同50年には3万4000頭、同60年は8万5000頭、平成7年(1995)には17万頭にも増加した。もちろん肉牛だけでなく乳牛も牡子牛も肥育されてのことである。

帯広市における肉用牛の飼育を振り返ってみると、昭和35年(1960)にはわずかに71頭であったが、55年(1980)390頭、平成2年(1990)1130頭、同12年(2000)は1960頭にまで増加したが、十勝の他町村に比較すると決して多くはない。

十勝農協連では十勝肉用牛振興協議会発足後、事業計画の中で明確に肉用牛生産振興対策を取り上げるとともに、専任担当者を置き、人工受精の普及、繁殖技術対策、増頭運動、登録・登記の奨励、飼養技術対策、肥育経営の普及、共進会・共励会などの開催、市場流通対策の要請など各種事業を協議会とともに推進し、大きく事業が進展した。最近は、肉質の向上に重点が置かれ、家畜改良事業団の産肉能力平準化事業への協力、育種価による繁殖雌牛の改良、子牛市場成績の分析、牛枝肉流通改善対策を加えて事業推進を図っている。

その他

(豚) 明治17年(1884)に晩成社が豚を導入している。大津で年を越し翌18年に下帯広(オベリベリ)で飼養を開始したが、ほとんど放し飼いで絶えず逸走が繰り返された。だがその後の入植者たちも種豚を求めて飼養したので漸次普及した。

豚は比較的手軽に飼うことができたことと、たんぱく質食糧としての飼養が広まっていった。明治39年(1906)河西支庁が発行した「十勝国勢一班」によると、当時河西郡には豚が312頭飼養されているので、恐らくこのころには多少とも飼養が普及されたことがうかがえる。

豚は日常生活から出る野菜屑や残飯、雑穀の屑など捨てられるくずくずようなものを飼料として、容易に養えることと鶏と同様に四季折々の農民のご馳走として重宝されたことである。大正2年には未曾有の冷害凶作に見舞われ、農家経済は塗炭の苦しみとなった。このため換金が容易で、しかも豚の個体販売が行われることもあって、農家の副収入となった。だが第1次世界大戦が始まると、青豌豆、菜豆などの価格が高騰したので、一時豚の飼養は省みられなくなった。

大正8年には、農産物の価格は暴落し、農村に不況が襲い、この影響で「有畜農業」による寒地農業の確立が叫ばれると、翌9年には河西外五郡農会は農家副業養豚普及事業を10ヵ年の継続事業として事業に着手しているが、数年ならずして失敗に終わった。

しかし失敗したものの、管内の養豚に関心を持ったことは大きな成果であろう。同15年(1926)には初めて十勝養豚共進会が開催されている。

豚(ヨークシャー種、「十勝農協連20年誌」より)

豚(ヨークシャー種、
「十勝農協連20年誌」より)

昭和2年(1927)幕別村の新田農場ではイギリス系の「中ヨークシャー種」を移入して本格的な養豚事業に着手し、近代的な種豚場を建設して基礎牝豚を60頭ほど置き、年間500頭に及ぶ子豚を生産し、管内養豚の振興に寄与した。

しかし一般的には昭和4年から押し寄せた経済恐慌、加えて昭和6,7年と続いた冷害凶作で、またまた豚の売却となって現れ飼養頭数も下降線をたどった。

日中戦争突入後の生産増殖に、国策として飼育を割り当てられたが、労働力の不足や低価格抑制などによって、国の意に反して生産は伸びず、戦争の激化とともにますますその傾向を強くしていった。

昭和20年は食糧欠乏のため多数の密殺があったとはいえ、これは全国的な傾向であった。終戦直後、子豚を十勝から本州に移出しているが、これは最初で最後のことである。

終戦後激減した豚も、その後、漸次飼養数を増やしたが、牛馬と同様に税源にしたのである。24年に道税として家畜移出税が創設され、併わせて町村は付加税として徴税することとなって課税徴収は役場が担当した。豚は牛馬と違って市場が立つことがなく、ほとんどが庭先買いであったから、いわば内緒にしていた。冬が来たならばどうせ殺して肉にするので、そのような申告をするはずがない。十勝農協連では、有畜農業の一貫として、また食生活改善を推進する上からも、豚の飼養が奨励された。

豚の飼養は市況の上下変動が甚だしく、そのため盛衰乱調を繰り返してきているが、昭和36年(1961)に生育の早い「ランドレース種」を導入したが、一時的なものに終わり、昭和40年代に入ってから一般農家の豚の飼養は馬とともに終末を遂げた。

近年、豚肉の需要は輸入豚肉との競合から生産コストの引き下げを図ることが不可欠であり、そのために合理化された多頭飼育の道を選ばなければならず、ここに副業的な養豚は魅力のないものとなり、養豚業者は専業化され十勝全体で平成12年には5万5000頭、帯広市では5000頭ほどである。

綿羊

綿羊

(綿 羊) 「北海道綿羊史」によると、十勝に綿羊が現れるのは大正10年(1921)ごろ本別村勇足で阿部吾市が出資し中西秀造が200頭余を飼養した。また大正末期から昭和初期にかけて小室道郎が約200頭を音更、士幌、鹿追で飼養し、前後して熊代好1が鹿追で150頭を飼養した、という記述がある。

河西支庁の「十勝国勢一班」によると、それらの記述よりも古く明治44年(1911)の帯広町は37頭、大正元年には38頭となっている。羊とあるから綿羊か山羊かの区別はない。「大正村勢一覧」、または「大正村要覧」では、昭和2年8頭、3年5頭、5年5頭、6年9頭である。いずれも種類は「メリノー」であった。

本道も昭和9年綿羊増殖10ヵ年計画を立て、翌10年から30万頭の計画達成に向けて動き出した。

こうした羊毛資源確保の国策は、翌12年7月の日中戦争突入によってますます重要性を増し、ついにはほかの軍需農畜産物と同様、強制割当生産供出へと発展していく。

昭和13年から再び綿羊導入(購入)に対して道庁の補助金が復活し、さらに翌14年から道庁有種綿羊の貸し付けも再開されて定着化の傾向を示すことになる。

このように国策として大々的に保護奨励されたにもかかわらず意外に増加せず、むしろ戦争が激烈化し強制生産を強いられるに及んで増加を示している。この原因はいずれにあったか不明であるが、農家は他の軍需作物と労力の競合からであり、強制生産による増加は「戦争遂行勝つまでは」の大号令のもと非農家の飼養が増加したことによるものではないかと想像される。

戦争中は軍需物資としての羊毛の強制供出が行われたことと、住民は供出した残りでも自家用に利用でき得ればとの期待感から比較的に飼養数が増加したのである。

そうした住民の意識は戦争が長期化し、他の物資と同様に衣料も欠乏し、しかも統制のために入手が困難になるとますます飼育熱が強くなっていった。

物資の欠乏は明日を生きる国民を血眼にさせ、特に食糧の欠乏からくる混乱は目を覆うほどで、当然のように物物交換による闇取り引きで食糧の確保がなされ、農家はまた衣料の欠乏から再生産の目途が立たず、やむなく供出した残りのわずかな自家保有食糧との物物交換が行われた。そうした状況から注目を浴びて手を出したのが綿羊の飼養で、昭和10年(1935)には十勝全体で1050頭が、15年には2700頭、20年1万3000頭と増加し、21年から24年にかけて爆発的人気となり、いずれの農家を回っても飼養している馬の数より多くなった。

各戸ごとに紡毛機を繰り、手袋や靴下編みからセーター、ホームスパン織など「夜業(よなべ)」仕事が盛んに行われ、あるいは原毛と布団綿や反物生地、毛糸等の物物交換も盛んに行われた。

戦後は衣料不足に悩み、馬よりも綿羊を飼う農家が増加して、価格も1頭1万円から1万5000円と高いものであった。

綿羊は害獣に弱く、野犬や熊による被害も少なくなかったが、昭和25年に勃発した朝鮮戦争の影響で戦後の日本経済は急速に発達して物資の不足を解消し、羊毛の輸入再開と化学繊維の驚異的な発達は、国内羊毛資源に変革を迫り、加えて国民の食生活の変容は旧資源の確保と増大を要請することとなり、ここに綿羊飼養の目的も、従来の羊毛中心から肉、ないしは肉兼羊毛へと移行せざるを得なかった。

この間において十勝農協連は昭和25年8月、第1回十勝綿羊共進会を畜牛共進会に併催し、また「コリデール種」牡綿羊の競売も実施した。しかし貿易の自由化によって羊毛が割安に輸入されるに及んで、漸次飼養頭数が減少し始め、昭和36年の第7回共進会では肉用種の出陳が見られても、綿羊も肉畜としての今後が象徴された。このころの飼養頭数は十勝全体で1万5300頭、その後は急速に減少し44年には1500頭にまで減少している。

綿羊は毛を取る家畜としての意識が強かったので日本人には「羊頭を懸げて狗肉を売る」というほど羊肉になじみがなく、終戦後帰還将兵や引き揚げ者によってもたらされた「ジンギスカン料理」も一般的に普及されたのは昭和30年ごろからであるが、国民の食生活の変革から肉需要が増大したのと、この「ジンギスカン料理」の普及は肉用種綿羊に不足を来し輸入マトンに頼った結果、今日ではほとんどこの輸入マトン1本の状態となった。その原因の1つとしては、羊毛1本に頼って飼養し改良されてきたものが、わずか数年の間で肉用に転換せざるを得ず、この肉用のための品種改良に有効な手だてを打てず、また打たなかったために近親交配が多く、結果急速に小型化して肉畜としての経済的価値が、ほかの家畜に比べ激減したためであろうと考えられる。

折しも日本経済は高度成長期に入り農業は機械化農業と酪農化を迎え、家畜は乳牛の多頭飼養を志向し、肉資源も乳牛の老廃牛や不妊牛、あるいは牡子牛の肥育に移行していき、羊肉は輸入マトンに押されて小規模飼養では太刀打ちできない状況となったので一般農家では綿羊の姿を見かけることができないまでになってしまった。

昭和32年の帯広市の飼養頭数は2300頭であったが、平成4年には500頭、12年はさらに減少している。

山羊(三谷鉄夫氏提供)

山羊(三谷鉄夫氏提供)

(山羊) 山羊飼養のことが現れるのは明治16年オベリベリに入植した晩成社が明治17年(1884)の暮れに大津で豚二番(つがい)と山羊2番を購入し、その冬はここで越冬飼養の上、翌18年4月オベリベリに移送して飼養を始めている。これが恐らく十勝における山羊飼養の最初であろう。

十勝管内の統計に現れている数字を見ても、明治33年が47頭、以後現れては消えまた現れているが、100頭以上を示すのは明治42年(1909)の115頭、大正14年(1925)の104頭、昭和に入って11年(1936)の158頭、15年はやや増えて600頭で、16年以降1000頭台に入るが、日中戦争以後毛皮が軍需物資として需要が増したことと、牛乳が航空用カゼインの原料として、そのほとんどが消費され飲用乳や乳製品原料が枯渇したため、牛乳の代替として生産が強制された結果、飼養が増加した。しかもその飼養法は乳を絞る作業だけで女性や子どもでも容易に狭い場所で飼えるところから、農家よりむしろ市街地等の非農家にも飼養された。

昭和20年前後に帯広で山羊園を経営し、乳を専門に販売して宅配や入院患者への配達を行っていた人もいるが長続きはしなかった。  戦時中における右のような状況が、終戦後の食糧欠乏の危機を迎えると貴重な存在となって、昭和36年までは十勝管内で4桁台の数字を維持していたが、同37年は1000頭と急減し、以後牛乳や乳製品の順調な出回りと消費の増大に比例して加速的に減少していった。

このように山羊は十勝管内においても開拓初めのころから飼養はなされているが、有畜農業経営として、あるいは自家利用や副業的にも豚、鶏に比べ魅力も効用も少なかった。ゆえに市街地近郊とか山間へき地のような乳牛の飼養もままならないところにおいて、病弱な家族を抱えていたり、母乳不足の乳幼児がいる家庭でその栄養補助のために1、2頭飼養される程度のもので、継続して飼養する者も少なく、畜産施策からも戦時中を除き除外されていたのである。

昭和40年代に入って飼育頭数も減少し統計の記録から消えてしまった。

他に、家、狐、鶏、蚕、柞蚕、蜜蜂などが、開拓以来飼われてきた。