鹿追町史 概要

役場所在地 北海道河東郡鹿追町東町1丁目15番地1
郵便番号 081−0292
電話番号
(01566)6−2311
ホームページ http://town.shikaoi.hokkaido.jp/home.html
Eメール webmaster@town.shikaoi.hokkaido.jp
市町村コード番号01634−0

位置

鹿追町の位置

鹿追町の位置

本町の位置は、北海 道の尾根といわれる大雪山系と、日高山脈を境として太平洋に広がる十勝平野の北西部に位置し、生活圏及び商工・産業圏は道東地区 にあって、東北は上士幌町、東は士幌町・音更町に接し、南は河西郡芽室町・上川郡清水町で西は上川郡新得町に接している。

町域は母村音更から分村以来北緯43度2分から同43度23分まで、東経143度08分から同143度55分までと公称されていたが、昭和63年 (1988)に実測の結果、緯度及び面積は次のように国土地理院に登載された。北緯43度0分30秒から43度23分28秒で、東経142度55分35秒 から143度09分06秒となり、東西17.7キロメートル、南北39.8キロメートルで、この面積は398.13平方キロメートルを擁し、清水町・本別 町とほぼ同じ面積があり、十勝総面積の3.6%を占めている。

地形は大雪山系にある大雪山国立公園の南麓で、北方は高く、緩い南傾斜が扇状に広がる高丘地帯で、南下するにしたがって平坦になり、北方に聳えるウ ペペサンケ、ピシカチナイ山、東西ヌプカウシヌプリ山と然別湖などの諸山・湖沼を水源に南下して流れる然別川が縦断し、牧畜農耕適地で、北部の地域は一部 陸上自衛隊の演習場になっている。

気候

本町は、大雪山系の山麓地帯に位置し、上幌内北部や東西ヌプカウシ山の山麓地帯を除いて、大部分は内陸性気候である。

年間を通じて最も寒いのは1月から2月にかけてで、大体氷点下13度前後であるが、年によっては氷点下20.8度を記録し、暖冬では昭和49年2月 の平均気温零下9度である。

気温の最も高い季節は7月下旬から8月上旬で大体平均22度から25度であるが、昭和53年7月平均は28.4度、同59年8月平均28.9度で、 この間1日の最高気温では昭和51年7月下旬の猛暑は38度を超えた日もあった。

8月中旬、お盆のころから猛暑は過ぎて涼しくなり、秋に向う。秋の台風季節は210日前後に襲来するが、本町で被害を受けることは比較的少ない方と いえるが、早霜早雪の被害は比較的多いといえる。初霜は大体10月上旬が多いが、昭和39年は9月28日であった。初霜・初雪は農作物の収穫に大きな影響 があり、昭和44年の初霜は9月23日で近年で最も早かったが、初雪も10月6日に記録された。

初雪は概ね立冬を前後して1週間に降るが、稀には昭和44年の10月6日という記録的に早い年と、昭和35年には11月24日と遅い初雪で、その差 は50日もあって、収穫前に大豆が雪の下になったり、ビートを雪のなかから収穫しなければならない年もある。

降雪量について記すと、近年は減少傾向にあるが昭和45年1月31日から2月1日にかけてのドカ雪は1晩で60センチメートルを超え、建物の被害 41戸、牛乳出荷被害65万円、有線放送電話被害などが発生して、陸上自衛隊の出動を依頼したこともある。

地名の由来

我々が日常生活の中で、無意識にアイヌ語の地名を用いている。しかし、その語源についてはあまり関心を持たないが、道外からの来訪者などからは、北 海道特有の地方色であり、独特な風趣ともいわれる。

北海道の地名は、幕末から明治にかけてアイヌ語を漢字にあてて書くようになったが、この漢字地名からアイヌ語時代の原型を知ることは容易でない。

古くは元録13年(1700)に松前藩が幕府に呈上した島絵図と郷帳があり、幕末の頃、松浦武四郎が各地を踏査して記録を残し、明治24年には永田 方正が『北海道蝦夷語地名解』を著わした。ところが同一地名であっても著者によって語意が違うことが多い。つまりアイヌの人たちからの聞き取りであって も、文字をもたないアイヌ民族は、その地域で先輩・古老から継承したもので、長い間には変化したり、詑ったものもあって地域差があり、統一的な解明はすこ ぶる困難とされている。

明治16年(1883)函館県令の命を受けて地名の解明に当たり、同22年から、北海道庁長官の命で道内十国の地名の調査に当たった永田方正は『北 海道蝦夷語地名解』を著わし同203年12月に稿を終えた。その緒言に

「北海道の地名はアイヌの付したるもの凡そ一万今尚十に八九を存す其命名するや必ず土地の実形に於いて敢て苟も虚名を付する者鮮 し夫の海島湾潮汐を論する勿く地勢の秀て山岳となり噴て火山となり絶て懸崖となり陥て渓谷となり渓水混々飛て……高原となり平野となり部落此間に散在する 等一々之に名付けざるなし……」

とあり、また山田秀三の『北海道の地名』にも

「幸いにアイヌ語の地名の大部分は地形をいったものであった。また同形・類型の地名が全道に数多く散在していることも大きな特徴 である。同形の地名の処に行って見ると、その位置さえ誤らなければ、必ず共通な処がある」

と記されている。

その後、金田一京助・知里真志保らによってアイヌ語の研究は進められ、地名の解釈や単語・語法も正確に解されつつある。

これらの諸説を基本に、山本多助著『アイヌ語小辞典』・知里むつみ・横山孝難共著『アイヌ語会話辞典』・松本成美『アイヌ語地名と原日本人』などの 著書から本町に関わるものなどを一部抜粋する。


●永田方正「蝦夷語地名解」
シカリペッ =奥無し川 然別村
パンケウレトイ =下の赤土
パシケチン =下の獣皮を乾す処
ペンケウレトイ =上の赤土
ペンケチン =上の獣皮を乾す処
ペンケビバウシ =上の沼貝処
ウリマク =丘後?
クテクウシ =鹿を捕る処
ポロナイ =大澤(美蔓村と称す)
トマムペッ =ヤチ川或は「トーマペツ」にして沼川の義なりと
サルウナイ =沙流土人の澤往時沙流土人の来住せし処に
名く此処山にして茅なし
注・ウリマク(丘後)・サルンナイ(沙流土人の沢)
及びシカリペッについて萱野茂は疑義ありという。


●松本成美「アイヌ語地名と日本人」
クテク・ウシ・イ =仕掛け弓、たくさんある−ところクテクのクは弓、
テクはうで、クテクで鹿をとる仕掛けのことをいう。
ク・オマ・ナイ =仕掛け弓 ある沢
クッテク・ウシ =鹿追、鹿をとる施設 いつもある
フル・マク =ウリマク、丘、うしろ
シ・カリ・ペッ =然別、自分 (を) 廻す 川
クマ・ウシ =熊牛、魚干樟 多くある
シッ・トカリ・ペッ =然別、山の手前 川
ホロナイ =ポロ・ナイ 大きな 沢
トカチ 十勝川、乾きあがる


井上寿「十勝アイヌ語地名解」
ク・テクシ =「ク」とは弓の称なれども、この場合は機弓、
すなわちアマッポーをいう。
今夏(明治44年)東宮殿下の本道巡敬にさいし、
札幌において八田博士が進講せしものこれなり。
「クテク」とは棚の跡にして、棚を結びアマッポー
を仕掛け、鹿を猟せしところなり。
クテク・ウシ(鹿捕り棚・あるもの)のところと訳す
べきであろうか、鹿追とは、これを和訳して呼ば
れた地名である。
シカリ・ベッ =奥無し川ともいい、また「シリ・カリ・ベツ」にして
「シリ」とは山あるいは島「カリ」とは作る、
「ベツ」は川なれば、山より作れる川との義となる。
シ・カリ・ペツ(自分を・回す・川) すなわち、迂回して
流れている川の意味で、他の河川にくらべて、
この然別川はかなりまがって流れているのである。
ヌプカ・ウシ・ヌプリ =(原野・いる・山)の意味で、山容に特徴があって、
遠望できる。
ビバウシ =「ビバ」とは川貝のことにして「ウシ」とは立つ、
また有るという義。


●知里真志保「地名アイヌ語小辞典」
アンチ =黒曜石・とかちいし。ニシラシ
クゥ・ウ・シ =弓を・しかけ・つけている・処
−いつも仕掛け弓をかけるところ
アッ =オヒョーニレの樹皮。
その皮からあつしを織る繊維をとる
チャシ =砦・館・棚囲い。英雄の常住する館
チャランケ =弁論 する。談判 する
チェプ =食物・魚。われわれが・食う・もの
チン =(皮を)張る・張り枠に張る
。皮を剥いで張り枠に張った
コタン =部落・村。
ただし我々の考える村とは違い1軒でもコタン
ク(クー) =弓。クーアレウシ 仕掛け弓を仕掛ける狩場
クマ =乾き棒、両方に柱を立て棒を渡して肉を乾す施設
クスリ =温泉・薬湯
マク =うしろ・奥・山手。奥の方にある山々
ヌプカ =野・原野
ペッ =川。前代のアイヌは川は人間と同様に考え、
人体と同じ部位名を用い、水源は頭、中流を胸、
川口は陰部(尻)、支流は川のうで、幾重にも
屈曲しているところを小腸。
シノマンペッ・ずっと・山奥へ行っている・川
ポン =小さい・すくない。
ポンペッ =小さい川。
ポント =小さい沼。ポロ=大きい。
ポロナイ =大きい沢
ラウネナイ =細く深く掘れた沢・そういう沢を流れている谷川。
本町では瓜幕・上幌内の境界の川であった。
ウパシ =雪。ウパシナイ=雪の下の川
ウシ =何何ウシと地名がよくあるがそのまま訳すと「所」となる
……が・そこに群在(生・居)する所。
クマウシ =乾し魚棚が群在所
キナウシ =ガマ(スゲ)が群生している所
ユク =語源は「獲物」でクマもシカも含まれたが現在はシカ

開拓使は明治7年(1874)に北海道の地名について次のような通達を出し、アイヌ語地名を漢字にすることを奨めた。

「二字巳上ヲ不超様相当ノ文字ニ改正…」とあるように、漢字にして出来れば2字以内の文字を当てた地名を用いることとし、翌8年1月から変更するよ うに布達した。

明治19年から道内各地の測量が開始され、これに当った加藤政吉・山峰徳吉らが明治29年(1896)に北海道地図を著わしたが、その備考には「図 中ニ記載ノ国群径界ハ素ヨリ徒前ノ仮定ニ準拠シタルモノナリト雖モ径界中間々漠トシテ拠リ難キモノアリ如此モノハ実測調査ノ模様ニ拠リ可成将来ノ便否ヲ考 へ仮ニ見込ヲ立テテ書シ置ケリ」とある。特に本町にかかわる地名のほとんどは、位置を確定することも困難なものがある。

明治45年に音更・水越村長が然別湖を踏査したときの有田医師の手記に「余は土人に問うに…ウリマクとは如何なる意味か…この辺には『ウリベ』なる 草の実密生、熊そのウリベの実好みて食せり、よってウリマクと称す」とあるが、平取町の萱野茂は疑義あると云う。

また、大正6年の地図に奥瓜幕・然別湖観光道路の3叉路と自然ランドの中間付近に「メトセップ」と記されているが、その後地名として用いられた記録 は見当らない。

次は田沼穣の資料によるもので、重複は省略し地名図を入れる。


ニペソツ =木が・下る・いつもする
ウペペサンケ山 =増水・前へ出す・山
ピシカチナイ =周囲・岸脚
ペトウトル山 =川・の間・山
チンレクオマプ =(鎮練川)獣皮乾し枠・向こうの所・にある・もの
ペンケピパウシ =(南1線川)上の・沼貝・多くある・所
モセウシ =(柏木川?)イラクサ・群生する
ラウネナイ =(第1西上幌内川)細く深く掘れた・川
サラツキウシペツ =(西上幌内川)前に・ぶら下がっている・川
ルペシナイ =(第4西上幌内川?) 道・下がっている・沢
サラウンナイ =(第5西上幌内川)アシ原・そこにある・沢
ヌプリパクショベツ =山・の上手・通る・川
二ペソツシントシベツ =木が・下がる・いつもする・道・上っている
シイシカリペツ = (イシカリペツは誤り?)本流の・然別川
ユートラクシュナイ =(菅野沢川)温泉・の間・通る・川
このほか、下市街 (元舛田澱粉工場用水)の小川があり、「ナムワッカ」
(冷たい・水)と記された地図がある。
(大正10年・分村分割図)

●山本多助「アイヌ語小辞典」
=弓
ヌプ =原野・山野・岡。ヌプカ=原野面
ユク =鹿、熊・狸
コタンウンクル =村の居住者
キムンカムイ =山の神・熊
キンタマ =こうがん
ポント =小沼。タンネト=長沼。オオト=水深い沼
メノコ =女性。ピリカメノコ=美しい娘
その他
太陽 =ペケレチユプ
=クンネチユプ
=クンネ
=リコプ
=ヌプリ
夫婦山 =ウルメッヌプリ
=ナイ
河川 =ペツ
大川 =シペツ
小川 =ポンペツ
=ワッカ
森林 =ニタイ
えぞ松 =シユンクニ
トド松 =フプウシニ
=コムニ
=カルンパニ
白樺 =レタラタッニ
=ハッシニ
=ランコニ
青大将 =タンネカムイ
=ピッキ
ふき =コロコニ
うど =チマキナ
行者にんにく =キトピル
かじか =エソッカパ
ししゃも =シュシュハム
うぐい =シプン
うぐいす =ポポチリ
ひばり =チャランケチリ
=アカメチリ
かっこう =カッコチリ
=チロンノブ
=エルムン
=エルムンコイキ
=チオメン
=ペイコッ
=シペ又はカムイチエプ
たら =エレクス
こまい =コマエ
紅鮭 =フレシペ
=エロキ
いか =ポロカピッケ
とど =トド
らっこ =ラッコ
=フンペ
人を造った神 =アイヌカラカムイ
国作りの神 =モシリカラムイ
酋長 =サパネニシパ
長老 =エカシ
旦那 =ニシパ

鹿追の地名

音更3代目村長石原重方が大正2年に着任すると、村の概況調査を実施。翌3年2月の村議会に字名の改正について諮問案を提出した。提出の理由につい ては次のようにある。

「本村大字蝶多字村オサルシナイ及ヒ大字東士狩村字クテクウシノ両字名ハ、何レモ本道固有ノ土人語ヨリ起リタルモノニシテ、其呼 称ハ其儘片仮名ヲ以テ字名ト致シ来リタルモ、該字部落近年著シク発達シ、移民増加ノ今日、行政事務取扱及ヒ個人間ノ文書往復等、多大ノ不便ヲ感シルヲ以テ 之ヲ漢字ニ改メ左ノ如ク改称…

 クテクウシハ土人語ノ鹿ヲ追ヒ詰メタル箇所ナルヲ意味スルモノニシテ、片仮名ヲ其儘漢字トナストキハ字数ヲ増シ、ノミナラズ適当ノ漢字ナキニ依リ、寧口 土人語ノ意義ヲ没却セサル範囲ニ於テ之ヲ鹿追ト改称スルヲ適当ト認メ…」

として、字クテクウシを字鹿追としたいというもので、これを議会は適当と認め答申したが、これが公用語として実際には「鹿追橋」に用いられたのみ で、字クテクウシの地名は昭和48年(1973)2月の地番改正まで続いた。

先住民族

本町の先史時代の遺跡・遺物の調査は昭和49年(1974)に大正大学生・伊藤潤を招いて分布調査をしたのが最初で、それまでは一部の人たちの関心 にとどまっていた。

北海道教育委員会発行の「埋蔵文化財の手引」(昭和46年版)に鹿追町の遺跡として3カ所が把握され、「十勝地方の『未調査地区』であり考古学の空 白地帯とあるように、農地や道路工事、河川改良工事などで発見される土器・石器も「珍品」として好事家の手に渡る状況で多くの出土品は散逸していったので ある。

鹿追考古学研究会(昭和50年2月設立)が第1次調査を実施したのは同年10月で、同会会長高野保昌、菅訓章。十勝川流域史研究会石橋次雄・杉本希 世・後藤秀彦。第2次調査(昭和51年3月)菅訓章・佐藤訓敏・大竹憲治・高橋行夫・伊藤タカらで次いで追跡調査には高野保昌・川染重・加藤寿志・伊藤タ カ・高橋行夫らのほか両国隆らが加わって調査を実施した。

遣跡地名表
遺跡番号 遺跡所在地 土地所有者氏名 時期
立地概要 出土遺物
1 鹿追町上然別西10線115 春日井準一氏(畑地) 縄文晩期
然別川右岸に沿った標高130mの段丘上に所在する。 縄文晩期初頭突瘤文土器多数
石錘、石鍛、尖頭器、スクレイパー類、
春日井氏所蔵
2 鹿追町上然別西12線111 春日井準一氏(畑地) 縄文中期
縄文晩期
美蔓台地北側下面縁辺に流れる無名川(然別川にそそぐ)
の更にその小川右岸に所在する。火高差の小さい微高地
にある。ちょうど真上に 送電線が走っている。
北筒III式
ヌサマイ式
春日井氏所蔵
3 鹿追町美蔓西13線97 上重邦夫(畑地) 縄文前期
縄文中期
所謂美蔓台地上にあり、大きな沢(SW→NE)の奥の舌状部
にかなり広範囲に遺物が散布している。
No.4遺跡に沢をはさんで隣接している。標高190m。
押型文土器、北筒III式
尖頭器、石鏃、石匙、石斧、
スクレイパー類、多数、上重氏、
教育委員会所蔵
4 鹿追町美蔓13線95 上重邦夫氏(畑地) 不詳
No.3遺跡同様の立地条件で、大きな沢の最も奥まった所に
ある。表面的には小規模である。
フレイク
教育委員会所蔵
5 鹿追町美蔓西17線109 山崎金次郎(畑地) 縄文中期
美蔓台地のハギノ川に面した大きな沢(N→S)の奥まった所
にある。標高150m。
北筒III式、石鏃、尖頭器、石斧、
石匙、スクレイパー類多数、山崎氏所蔵
6 鹿追町西18線120 高井小市氏(畑地) 縄文早期
縄文中期
縄文晩期
美蔓台地の然別川に面した切り込みの深い沢の縁地に所
在する。標高230m。
東釧路III式、北筒III式、晩期初頭の
突瘤文土器、緑ケ岡式、石器多数
田原式石鏃1点、高井氏所蔵
7 鹿追町鹿追北3線1 黒田敏美氏(畑地) 縄文早期
縄文前期
縄文中期
パンケピパウシ川の右岸、北3線の道路両側に拡がってい
る。この段丘はパンケピパウシの侵蝕により崖となっている。
標高175m。
東釧路III式、押型文土器、北筒式、
縄文早期の無文土器、貝殻文土器、尖頭器、
高野保昌氏所蔵
8 鹿追町鹿追北5線2 鈴木正男氏(畑地) 縄文早期
縄文中期
パンケピパウシ川の右岸標高200mから210mの緩斜面に所
在。川縁辺付近に集中的な分布がある。
東釧路III式、北筒III式
石器多数 鈴木初所蔵
9 鹿追町北鹿追北10線4 鹿追小学校(宅地) 不詳
パンケピパウシ川右岸標高250mの段丘に所在。 フレイク 小学校グランドより採集
10 鹿追町笹川北7線7 田中豊志氏(畑地) 縄文中期
続縄文中期
瀬戸川、パンケビバウシ川、南1線川の源泉となっている所
にあり、それらの川上によって形成された南に突出した舌
状部西側縁辺に遺物 が散在している。
北筒III、江別II式
尖頭器、石核、石鏃、スクレイパー類、すり切石斧、
教育委員会所蔵
11 鹿追町笹川北8線7 最上直行式(畑地) 縄文中期
ペンケビバウシ川等により形成された段丘上で、No.10、12、
26遺跡の延長線上にあり、やはり西側縁辺部に遺跡がある。
標高 235m。
北筒式、フレイク、チップ多数
石臼、尖頭器、教育委員会所蔵
7号道路の整備により一部破壊。
12 鹿追町鹿追北5線6 吉田 巌氏(牧野) 縄文中期
続縄文中期
瀬戸川、ペンケビバウシ川、南1線川にはさまれた舌状の段
丘、標高215m。
北筒III式、江別III式
吉田氏所蔵
13 鹿追町笹川北8線10 中野 広(牧野) 不詳
道道本別新得線の向って右側標高240m。小川があり。 石臼
14 鹿追町鹿追北3線11 藤田健治氏(牧野) 縄文中期
然別川の古川左岸標高210mに所在。比高差の小さい微高
地にある。
北筒III式、石臼、石器多数
藤田氏所蔵
15 鹿追町上幌内127 菊池よしあき氏(畑地) 縄文中期
縄文晩期
上幌内川右岸標高300mの段丘、舌状部に所在。 北筒IV式等若干、尖頭器4点
16 鹿追町鹿追南2線4 森内清光氏(畑地) 縄文早期
縄文中期
然別川左岸の段丘、道道音更新得線脇に所在。小川有り。 東釧路III式、北筒式、森内氏所蔵
17 鹿追町鹿追北3線11 山崎 進氏(牧野) 縄文中期
縄文晩期
然別川左岸の古川標高210mに所在。比高差の小さい微高
地にある。No.14遺跡に隣接している。
北筒III式、北筒V式、多数
晩期ヌサマイ式?石器多数
山崎氏所蔵
18 鹿追町瓜幕12線154 武藤 昇氏(畑地) 不詳
パンケチン川とペンケチン川にはさまれた標高260m。 尖頭器、武藤氏所蔵
19 鹿追町ウリマク西31線144 八木 満氏(牧野) 縄文前期
然別川左岸のはんらん原に接する微高地に所在。
標高320m、付近に小川有り。
綱紋式、尖頭器、石鏃(小型三角鏃)石刃 
八木氏所蔵
20 鹿追町ウリマク西25線172 上保政次郎氏(牧野) 不詳
瓜幕川右岸標高380m段丘、舌状に所在。 石器類
21 鹿追町ウリマク西31線140 鹿牧場(牧野) 不詳
然別川左岸標高320mに所在。付近に小川が流れている。 スクレイパー
22 鹿追町上幌内116 伊藤長三氏(畑地) 縄文中期
上幌内川右岸の深く切り込んだ沢に面した標高310mの
段丘に所在。隣接した地域にNo.15遺跡がある。
北筒式、石核
伊藤氏所蔵
23 鹿追町幌内西23線14 小里幸一氏(畑地) 縄文晩期
道道本別新得線の脇、ハギノ川とその支流にはさまれた
標高270mの段丘に所在。
ヌサマイ式
教育委員会所蔵
24 鹿追町北鹿追北6線2 熊崎亮氏(牧野) 不詳
パンケピパウシ川左岸標高220mの段丘に所在。 スクレイパー
熊崎氏所蔵
25 鹿追町鹿追北5線3 相沢芳雄氏(牧野) 不詳
パンケピパウシ川右標高220mの南突出舌状部所在。 フレイク 相沢氏所蔵
26 鹿追町鹿追北5線6 和田博氏(牧野) 縄文中期
瀬戸川、ペンケビバウシ川、南1線川にはさまれた南に
突出した舌状の段丘南縁辺に所在。標高210m
No.10遺跡、No.12遺跡 に川にそって直線的に隣接する。
北筒III式、石鏃、エンド・スクレイパー、
スクレイパー類、フレイク
高野保昌所蔵
27 鹿追町北鹿追北15線2 野尻西太郎氏(牧野) 不詳
瓜幕川右側の標高180mの段丘に所在。遺跡は石状部
にあり川に接近している。
両頭石槍1点
石斧、石核
野尻氏所蔵
28 鹿追町北鹿追北10線5 紺野芳男氏(牧野) 縄文中期
パンケピパウシ川の支流、標高250mの段丘に所在大き
な沢をはさんでNo.9遺跡と隣接している。
北筒式、石鏃、スクレイパー
フレイク 紺野氏所蔵
29 鹿追町鹿追北5線10 加藤友之氏(畑地) 縄文中期
縄文晩期
鹿追町市街地を流れる小川付近に所在。標高215m、
比高差の小さな微高地にある。
北筒III式、晩期の土器、石斧
尖頭器、スクレイパー類
高野保昌氏所蔵
30 鹿追町笹川北8線10 田中 博氏(畑地) 縄文中期
道道本別新得線脇にあり、付近に小川が流れている。
標高235m。No.13遺跡に隣接している。
北筒III式、石斧、石匙、石鍬、スクレイパー類、
フレイク
田中氏所蔵
31 鹿追町美蔓西13線、96 星 安貞氏(畑地) 縄文早期
縄文中期
縄文晩期
美蔓台地南西にあり、ハギノ川に面している。標高190m、
No.3遺跡、No.4遺跡に道路をはさんで隣接している。
中茶路式、北筒式、縄文晩期の土器
石斧、フレイク
高野保昌氏所蔵
32 鹿追町美蔓西17線99 林 熟氏(畑地) 縄文中期
美蔓台地ハギノ川右岸の標高190mに所在する。 北筒式
林氏所蔵

鹿追高校A遺跡

鹿追高校A遺跡は本町1丁目9番地に所在する縄文時代中期の遺跡で、昭和52年(1977)10月25日から同年10月31日に実施した発掘調査で 確認された。

発掘調査に当たったのは石橋次雄を担当者として後藤秀彦・菅訓章・石橋秀哉・堀田誠嗣・石橋範子で、発掘調査の動機は昭和52年に高校教諭黒須隆夫 が花壇造成中に運ばれた土から、北筒式土器を発見したのが端緒となり、同年6月7日、北海道文化財等調査員・石橋次雄が現地調査の結果、遺跡の存在が確認 された。

本格的な調査は前記10月25日からで、場所は然別川より北東に500メートル、北緯43度6分、東経142度59分標高209メートルで、然別湖 河岸との比高差は約9メートルである。

本遺跡の西側は約2メートル低い高校グランド造成予定地の牧草地で鹿追高校B遺跡がある。B遺跡については、先の調査でグランド造成に支障のないこ とが確認されていた。

A遺跡は奥瓜幕(標高約600メートル)を扇頂部とし中音更付近を扇端部に扇状地のほぼ扇央部に位置し、扇状地は主として然別火山群を供給源とする 砂礫によって形成、安山岩を主とする円礫層が地層の基底をなしている。しかし、礫の一部には少数ながらホルンフェンスが見られ、日高山系にその供給源をも つものと考えられるものがある。

発見された遺構

鹿追高校A遺跡出土の石器

鹿追高校A遺跡出土の石器

調査の結果発見されたのは、円形の平面プランをもつ土壙が1基で、人骨はなかったが、石積み・副葬品及び焼土などから土壙墓と考えられるものであっ た。土壙墓は壙口で長径119センチメール、短径107センチメートルのほぼ円形で、深さは掘り込み面の第V層上面から38センチメートルであった。土壙 墓は、第I層腐植土直下の川砂層を切って構築され、壙内にはほぼ中央部に30×19×11センチの石が置かれ、その周辺から土器片及び石器が発見された。

先住民族時代の概要

北海道に和人が生活する以前に居住した民族といえばアイヌ民族で、恵まれた自然の大地で、川や海の魚介類を漁し、野山の植物を採取したり、動物を狩 猟して生活を営んでいたことを頭に描くが、それ以前に石器・土器などの遺物から、先住民族の生活を推定することができるが、どのような民族であったか特定 することはむつかしい。

十勝では昭和44年(1969)に発掘調査をした上士幌町の「嶋木遺跡」(帯広畜産大学・辻秀子、筑波大学・加藤晋平)については先にも述べたが、 この調査報告書には

「石刃技法が未発達で、石器の素材が石刃でなく、剥片と呼ばれる人為的に打ち欠いた石片に簡単な加工を加えた石器」

と記している。この石器を黒曜石の水和層年代(黒曜石にできる水のマクが時間が経つと厚くなる原理を利用して年代を出す方法)から約19,300年 前といわれる。

本町では、わずかであるが縄文早期の遺物が発見され、多くは縄文中期のものが発掘されていることから、約1万年前には人間が生活していたといえる。

アイヌ文化の時代は擦文文化・オホーツク文化のあとで、日本国家の政治が近代化され、新しい文化が確立された時代からといえる。

本町に居住したアイヌ民族は、然別川流域を生活拠点としたが、明治政府の「旧土人保護政策」として特定の場所に土地を与えられ、農耕に従事すること を奨励したため、ほとんどは芽室町の毛根方面と音更町へと去っていったが、その後も定住したのがオソウシ(現在の自然ランド入り口)で生活した平村文太郎 で、昭和41年に他界したのが、本町に在住したアイヌ民族の最後であった。

上幌内西区に居住した久木田作蔵について、父親とともに近所に入植した谷信一は、

「私がまだ少年の頃、久木田は土地十町歩を所有し、馬2頭を飼育して主人は作蔵といった。長男は作太郎、次男は次郎、女の子も2 人いて妹の方はヨシ子と呼んでなかなかの美人であった。芽室の方へ嫁いでいったようだが若死にしたらしい。何でも上幌内に入地したのは大正4年頃と記憶し ているが、よく芽室方面から同族の者が来て宿泊していた。狩猟者たちの宿泊所であったのかも知れない。
 熊祭りも2度ほど記憶しているが、その都度芽室から同族の者が集まって来ていた。おばあちゃんは口にいれずみをしており、おじいさんは3人ほど妻をもっ ていたようだ。この人は芽室の「毛根系統」の者らしく、芽室方面の同族の出入りが多かった。
 死者もあったが、どこか遠くへ運んでいったようだ。住宅の東に下屋をつくり、ここに祭壇を設けて木を削った幣そくを立ててあったことも思い出すが、昭和 8年頃転居していった」

と語り、また、久木田の2女と同級生、西瓜幕の岡本保雄の妻の話によると2女は「サク」といい美しい気立てのよい子で、仲良く遊んだものだと、当時 を偲んでいた。

この2女の名はサクとヨシとの違いが出てきたが、小学校時代の仲良し友達の記憶が正しいと思われる。久木田について役場の戸籍に見当たらないので芽 室町に調査を依頼した結果「昭和のはじめ頃、鹿追から久木田作蔵というアイヌの人(明治31年生)芽室町に移住した形跡あり」と回答が得られた。

瓜幕市街の菊地政喜は、瓜幕・笹川方面について次のよう語った。

「私は明治44年に笹川の東郷農場に、父母とともに入植、小学校へ入学した。その頃私の家では豆腐の製造販売をしており、西瓜幕 方面まで売り歩いたが、瓜幕橋と今の道々との中間あたりに、アイヌの人の通る小道があった。アイヌの人たちはこの道を通って然別湖や然別峡方面に出掛け漁 猟していたようだ。この小道は今でもその跡を見ることができる。
 私の家の隣にアイヌの人の、いわゆる「チセ」が2軒あった。これらの家は漁猟に出掛ける同族者達の宿泊所となっており、1戸は夫婦者、1戸は独身の男世 帯であった。彼ちは非常に温厚で疑うことをせず、義理がたく、物々交換のときなど、獣や鳥の肉や毛皮、或いは篭やロープなど、必ず多少にかかわらず約束の 数よりも多くオマケをしていったものだった。オショロコマ採取の網引きにも頼まれて行ったことがあるが、賃金は現物(オショロコマ)だった。1週間も泊ま りがけになってしまい、父親が心配して迎えに来たことがあった。
 また、彼等の鹿を捕る方法がおもしろい。二またのついている木の先を削って尖らし、これを沢いっぱいに立て並べ、これに鹿を追い込むと、この二またの矢 来を飛び越えようとして、矢来の上にかかり、もがいているところを捕獲するという方法だった」

と語っているが、興味深いものである。そもそも「鹿追」の語源は「クテクウシ」といわれ、仕掛け弓で鹿を捕るところの意味であるといわれるが、昔こ のような鹿捕りもあった。

また、菊地の家はクテクウシ北13線を西へ向って然別川を越え、上幌内高台のすぐ麓にあったことから、当時のアイヌの人たちの住んでいる模様を次の ように語っている。

「東郷農場で小作農をしていた頃、畑の中かち長さ30センチほどの刀のようなものが出てきたが、これはアイヌの人の住居跡であろ う。
 当時すでにアイヌの人たちは、和人の数の数えかた(ヒトツ・フタツ・ミッツ)で数えていた。また北13線の然別川東側、元の伊藤米蔵さん宅の近くに動物 の骨塚が残されていたことを思い出す」

ともいう。

上然別中央区の春日井準一(明治45年生、同年鹿追に入地)は少年の頃の思い出を次のように語っている。場所は上然別川西10線付近のパンケビバウ シ川とペンケビバウシ川及び池戸川が合流して、然別川に注ぐ地点にエモンコと呼ばれる独身で見事な白ひげをもつ、酋長らしい人が住んでいたことを、次のよ うに語り、また「鹿追文芸」にイモンコ物語を残している。

「私の家の裏の然別川の東岸に1人の歳とったアイヌの人が住んでいた。大正10年頃まで住んでいたが、老齢のため身の自由がきか なくなり、音更の息子に連れられて行ったが、鮭や鱒、や小鳥などを捕って生活していたようだ。奥地へ狩猟にいく同族の者の宿舎にもなっていたが、白い豊 かなひげをもった貫禄のある老人だった。兎は針金のワナで、鮭や鱒は川の流れの上に屋根をつくり床板を差出し、この上に1日中座り込んで、魚の上がってく るのを待ち「ヤス」で突いて捕っていた。
 「テン」を捕るには「テンオトシ」をかけた。犬は、家の裏の1段高いところに飼っており、鮭や鱒の頭は干物にして保存していたが、通いアイヌの人たちが 去ったあとでは見られなくなっていた。おそらく犬の餌にして持っていったのであろう。
 この老人はエモンコと言った。ある年、和人が流送した丸太でエモンコの領域が荒らされ、流送人夫と論争になったことがある。結果はどうであったかわから ない。
 エモンコの家は木の皮で葺いた立派なもので、炉かぎやシャクシ、シャモジなどには見事な彫りものが施されていた。機嫌の良い日には、昔の戦争の話をよく 聞かせてくれた。
 私の家へはいつも物々交換にきた。魚を持ってきて、塩や砂糖と交換していた。ここで不思議なことに、エモンコはいつも座るところを自分で決めるのであ る。
 つまり正面の1番上座に座るのだ。おそらく酋長の位をもっていたのかもしれない。エモンコの話によると、塩や砂糖を食べるようになってから、秋冬の水が 手足に冷たく感じるようになったという。
 エモンコの勢力範囲は、パンケビバウシ川とペンケビバウシ川及び基井川の三川を『この川は俺の川だ』と言っていた。数は1から10までをトン・タン・デ ンガラ・モッケ・ター・ゾラ・エッケ・ヤッケ・ダカ・ショーと言った」

と数え方などを語っている。

明治43年、富山県から東士狩を経て両親とともに下鹿追に入植した山田森(明治27年生)はアイヌの人たちとの交流について、次のように語ってい る。

「私の知っているアイヌの人は『エモンコフ・ストンコロン・カケメクル』の3人で、雨が降ると遊びにきた。
アイヌの人といっても友達みたいなもので、イナキビのドブ酒が欲しさに、魚の焼き干しを持ってくるのはいつもエモンコフだった。
 鮭を捕る方法は柳の細い木で作った胴を仕掛けて、産卵に上がってきた魚がこの胴の上に来ると、その重さで、玉石を入れた石油罐が、ガランガランとなるよ うな仕掛けになっていた。この石油罐が鳴ると出掛けていって、魚を取ってくるという方法であった。
 しかしこの内の1人、エモンコフは今の林かおりさん宅のすぐ南隣くらいなところに住んでおり、あとの2人はどこに家があったものか分からなかった。数の 数え方は1をニシップ、2をトップ、3をリップ、4をアシキ、5をアンクルといい6から10までは忘れた。この付近にはアイヌの人の住居跡らしいドスナラ の木の、柱の根がプラオの先で掘り起こされたり、土がめの破片や、タシロと称する刃物なども出土したことがある。
 兎を捕るには、「わなにかかると吊り上がるような仕組みになっていた」

と語り、春日井の「エモンコ」と山田の「エモンコフ」の数の数え方について「町50年史」に意味は不明だが、たとえば、ひとつ・ふたつ・みっつと、 いち・に・さんの相違ではなかろうか。と記されているが「アイヌ語小辞典」(山本多助・昭和516年版)によれば、「アイヌ数詞は44通りあるが、子供の 数詞の遊びはいく通りもあって、子供たちは遊びの内に算数を知るようにできている」とあり、数え方と、数えるときの指の使い方も記されている。

然別湖道路の登り口、菅野温泉道路との3叉路(奥瓜幕)に農業の傍ら駄菓子屋を営んでいた角田誠(明治44年入植)は然別湖のアイヌの人について次 のように語っている。

「上川郡人舞村、今の清水町の上川橋のたもとの南側に山舛という人が立派な家で暮らしていた。この人が毎年季節になると、鉄砲を 持って然別湖へ上っていく。行きは徒歩で、今の白雲橋のところで鉄砲を撃つと、アイヌの人が丸木舟を操って迎えに来るのだった。これに乗って対岸に着きオ ショロコマなどの漁をして、帰りには音更湾をまわり『カモ』などを射ちながら、途中2泊くらいして帰ったものだ」

とあり「町五十年史」には

「これらのアイヌの人は然別湖に住んでいたものではなく、漁の時期がくると、この山舛こと増田に頼まれて出稼ぎに行ったものと考 えられる。丸木舟を使用していたことなどから然別湖は彼等の大切な漁場だったのだろう」

と記されている。

また、下鹿追の平野治吉は

「大正二年に本町字ホロナイの然別川沿岸に移住したが、以前は清水町上熊牛に居住していた。現在は下鹿追中央区の然別川沿岸に居 住している。現在地に移住したのは大正六年であった。その年の暮れ頃の寒い雪の夜だった。開拓小屋のむしろの戸を押しわけて入って来たのは、ビックリする ような一人の大男、顔中ひげだらけ、まぎれもないアイヌ民族の人であった。用件は『マッチを二・三本恵んで下さい』というのだ。聞けば、然別川の沿岸に仮 小屋が設けられており、この小屋に泊まりがけで鮭などを漁に来たのだったが、あいにくマッチを忘れてきて困っていたのだ。
 足には鮭の皮で作った足袋をはいていた。鮭の皮は火に弱いので、とくに足だけは炉から遠ざけて暖をとっていたことを思い出す。マッチや餅などを与えて帰 したことを記憶している。
 私がまだ少年の頃、清水町の上熊牛に父と数年居住していたことがある。その頃上熊牛部落の北端から上幌内に登る坂を千間坂と呼び、この坂の近くに、十勝 川東岸が崖になり、川に沿うて狭い平坦地があった。アイヌの人は毎年芽室方面からドサンコ馬を二十頭ほど曳いてきて、この崖くずれの底の平地に強引に追込 み、春になるとどこからか連れ出していった。また、この頃の「トクサ」は馬の大切な飼料だった。
 そこで、アイヌの人達はこのトクサを刈取り手頃に束ねて、和人が居酒屋でモッキリ酒を呑む間の馬の飼料として売り歩いた。これがまた馬の好物でよく売れ た。
 私はこのようなアイヌの人の仕事を手伝ったものだが、こんなときアイヌの人は『ポンシャモ』(少年のこと)にあげようといって何がしかの小銭をもらって よろこんだものだ。アイヌの人たちは狩猟民族だったから、野山にアマッポ(仕掛け弓)を仕掛けてあった。獲物が餌を引くと自動的に矢が放たれて獲物に刺さ るように出来ているのである。
 アイヌの人はよく私に、この区域内に入ってはいけないと注意するのであるが、子供心にその場の仕掛けを見たくてしょうがなかったことを思い出す。この弓 には十勝石で作った矢じりが使用してあったし、これら石器がいくらも散在していたものだ。
 彼らは狩猟に出歩くとき、行く先の要所要所にごく簡単な仮小屋を作ってあって中には茶わんや鍋、その他最少限度の炊事道具が置かれてあった。こうしてお けば、炊事道具を持ち運ぶ必要がなく、それだけ軽装ですむということだろう。
 彼らはあの大きな足に冬は、獣皮や魚皮で作った足袋をはき、夏は、山野を裸足で歩きまわっていたのには驚かされた」

と、大正2年に本町に移住入植した下鹿追の平野治吉は語っている。(町五十年史)

アイヌの人たちの動静

本町で最初に開拓の鍬が打ちおろされたのは明治35年で、その後鹿追村が誕生したのは大正10年である。

それ以前から、アイヌ民族の人たちが町内の各地で生活を営んでいたので、それらを古老の話からまとめてみると概ね次のようである。

『アイヌ人の生活』

「河東郡には音更という地方があり、そこは利別につぐ温暖の地である。ほかの地方に五尺もの積雪があっても音更は二尺にすぎな い、野兎も冬は利別と音更の二つの地方に集まって寒さをしのぐ」。

これは柿本良平「北の巨人依田勉三」に載せられた「明治十四年十月、大津村で勉三が耳にした噂」である。

そして、そのころは十勝のシカ猟の最盛期でもあったようだ。明治14年の諸物産表によると、1月から6月までの半年間に十勝で約3万頭が捕殺されて おり、音更も820と記録されている。現地で1頭平均1円50銭くらいが売買価格だったという。アイヌの人たちはこれらを大川宇八郎などの和人仲買を介し て取り引きしていた。

また、北海道誌巻一〈開拓編〉によれば、明治2年から同14年までの河東郡の人口は次の通り。

(注・「十勝国広尾外六郡旧土人共有配当金名簿」〈明治13年夏現在〉吉田菊太郎所蔵「諸物産表」明治14年1月から6月まで『北方文化研究所所 蔵』による)

年度 戸数 人口 年度 戸数 人口
2年 9 128 83 45 4年 19 180 94 86
6年 43 219 111 108 8年 35 228 112 116
10年 44 226 111 115 12年 44 221 113 108
14年 40 220 112 108  

しかし、アイヌ人の生活は決して楽ではなかった。殊に、明治16年秋に始まる十勝川サケ漁の禁止などの影響もあって飢餓の線上をさまようまでになっ ていった。

「三月二十日晴、昨冬官ヨリ捕鮭禁止ノ令アリシカバ土人漸次食絶エ飢餓旦タニ迫リ、唯座シテ死ヲ待ツガ如シ、此日積雪尚深キニ土 人部落飢謹ノ由ヲ聞キ、銃太郎、勝ノ両人オトフケプト、モッケナシ方面ヲ巡回シ、親シク其実情ヲ視察シ、米穀ヲ与エテ応急ノ救助ヲナス、又一方当社ハ札幌 県ニ建白シテ、土人ニ農業ヲ教フルコトヲ計画ス、コレ土人教養ノ第一歩タリ」(注・明治17年、渡辺勝日記)

明治18年4月、札幌県勧業課殖民掛栂野四方吉を主任官として、伏古別に土人開墾事務所を開設、栂野みずから総取締役となり、宮崎濁卑を河西郡の世 話人に任命、各地のアイヌ民族の人たちを下音更などに集めて勧農を始めたのも、こうしたことが影響しているという。

散在していた十勝のアイヌ人の居住分布図が大きな集団に変わったのはこのころからである。

旧土人保護法案

北海道開拓が進み、全道の殖民地選定が実施されると、それまでは北海道の主であったアイヌ民族の利益は無視されようとした。未開発地処分法には、願 い出れば平等の権利は認められていたが、土地規則による手続きの複雑さに加えて、自然物の採取生活になれていた人々には、土地を所有する欲望や知識が乏し かった。

明治10年の地券発行条令には、各戸に5町歩以内の旧土人保護地を官有地として存置することにして、将来アイヌの人たちが農耕に利用する土地として 保留した。

しかし、土地所有の観念が薄かったため、土地払下規則による法的所有権を得るものは少なかった。そのため付与された土地も

「一椀ノ酒料ニ換フルヲ厭ハス、終ニ好悪者ノ為ニ横奪セラレ……」『アイヌと日本人』〈更科源蔵〉

という状況であった。

明治26年の第5国会に「北海道土人保護法案」が提出され、9人の特別委員に付託され、明治31年第13回の帝国議会で「北海道旧土人保護法案」が 成立した。

更に明治34年(1901)には保護法の第9条による国費の小学校を毎年3校づつ新設し7力年で21校を開設。貧困児童には奨学資金制度を設けた。 しかし、この旧土人教育規定には差別教育と不評をかい大正11年に廃止され、一般小学校と同様になった。

アイヌの伝説・然別湖

開拓の歴史は浅いが本町に伝わる幾つかの伝説あるいは「言い伝え」として「ヌプカウシヌプリ」や歌詞・文芸作品がある。

然別湖のぬし
 十勝の然別沼はカジカもサルカニも生息しないで、昔からイトウより他にいない沼であり、ここの沼の主は大きなイトウだと伝えられている。昔、狩人が大熊 を見つけて追って行くと、熊は沼に飛び込んで逃げたので、残念に思ってぼんやりと見ていると、熊が沼の中頃まで泳いで行ったと思ったら、急にプクプクと沈 んで見えなくなってしまった。

 そこで急いで丸木舟を漕いで行ってみると、長さが三十間もあるイワオンネチェプカヌイというイトウの主が、大熊を呑んだがあまり大きいので口にはばけ て、大熊の片方の掌を口から出したまま死んでいた。
        (細田カチヤレ談『北海道伝説集・アイヌ編』)

昭和45年に日本出版協会から発刊された「アイヌと日本人」〈更科源蔵〉が昭和26年8月に、河野・知里・永田らと十勝地方の古老を訪ねた とき、夫 婦山(ヌプカウシヌプリ)と然別湖にまつわる伝説を聴取した一文がある。

十勝のアイヌで十勝岳(ポロシリ・現在オプタテシケといっている)に酒をあげないものはない。この山は男山で、釧路の雌 阿寒岳と 夫婦であったが、夫婦喧曄をして阿寒に帰ってしまった。
 晴れた日に見ると喧嘩して別れた十勝岳が見えたので、むかむかした雌阿寒岳は手に持っていた槍を十勝岳に投げつけた。それを途中の音更山が見つけて、こ れは大変と飛び出して、槍をおさえようとしたが間に合わず、耳を削りとばされてしまった。
 しかしそのために、槍は十勝岳をかすって落ちた。それで十勝岳をオプタテシケヌプリ(槍が肩をかすった山)とも呼んだ。怒った十勝岳は槍を拾いとると雌 阿寒岳に投げ返した。それが雌阿寒岳の胴中にあたって、飛び散った血が萱になり、槍のささった傷跡からは、今も膿が硫黄になって流れ、音更山は山の中から 出たっきり帰ることもできず、原野の中に立っているので、ヌプカウシヌプリ(原野にいつもいる山)と呼び、もといたところに水がたまって然別湖になり、飛 ばされた耳のちぎれたのが十勝野の火山弾になった

このY老人が語る大雪山系と阿寒にまたがる、雄大な伝説は、釧路と十勝の人々の婚縁と闘争の歴史に、火山活動が織りまぜられたものであろう かと思わ れた。と記されている。

コロポクウンクルの伝説には次のようなものが『北海道史・〈第一編〉』にあるので記しておく。

アイヌの伝説

 昔アイヌがこの地方にいたコロポックル(蕗の下の人という意味で、1枚の蕗の葉の下に数10人いたと伝えられる小人)を追い払うとき、十勝川で溺らして 殺したことがあった。そのときコロポックルは溺れながら、
 「吾々をこんなに虐殺するお前達も又、魚皮の焼け焦げるような運命に逢うだろう」と叫んで死んだので、トカップというようになったという。トカップとは 魚の皮の意味であるという。
 一説には、昔有珠嶽の麓にカナメという一族であったが、或る年の有珠嶽の噴火のため麓の部落は熔岩のためにあらされ、多くの人々が死傷したが、カナメの 一族だけはその災害からのがれて十勝の国へ移ることになった。そのカナメの一族の落付いたところはシベというところであって、シベとは鮭のことで、鮭の豊 かな土地であったので、彼等はここで豊かな平安な村をつくっていたが、或る時の集りにこの一族の中のサピンノトクという者が、
 『この頃朝になると誰が置いて行くのか、枕元にきっと2、3尾の川魚が置いてあるが……』と不思議そうに話したところ、それは彼の家だけではなく、どこ の家もそうであることがわかった。そこでサピンノトクは或る夜その正体をつきとめるために、眠らずに待っていると、夜中頃に真白い手が戸の隙間から差し入 れられ、3尾の川魚を置いたので、すかさずその手を押えてみたところ、それは身の丈が1尺ほどの唇や手の甲に入墨をしたコロポックルの女であった。サピン ノトクはいやがるその女を酋長の家に連れて行きいろいろと訊ねたが、女は泣くだけで何とも答えなかった。
 一方、コロポックルは酋長の娘がアイヌにさらわれたことを知り、シベ部落に押しかけてその娘を奪い返したが、その時アイヌに向って
 『アイヌ共、呪われて若死しろ、早く歳をとって髪も早く白くなり、鮭の焼け焦げるように苦しんで死ね』
と呪いの言葉を投げつけた。

トカプチというのは鮭の焼け焦げるようにという意味であるというが、それからはコロポックルの呪いのためか、カナメ一族は男も女も年頃にな ると皆若 死し、最後にのこった者もシベ川(十勝川)の氾濫で溺死してしまい、部落の影さえもなくなってしまい、現在の十勝アイヌはその後石狩や北見、釧路方面から 来たものの子孫であるということである。

なお、トカプチという言葉は鮭の焼き焦げるという意味で、コロポックルの呪いに残した言葉であるが、それ以来シベと言わずトカプチというよ うになっ たと いう」(工藤梅次郎『アイヌの民話』、酒井章太郎十勝史』)

他にもトカプチは幽霊ということで、この付近のアイヌ部落は夜になると怪しい魔物に襲われ、その為に気を失ったものもあったのでそのように 名付けら れた ともいい、また昔十勝アイヌが非常に凶悪で付近のアイヌを苦しめたため、これを憎んでトカプチと呼んだともいわれている(中田千畝『アイヌ神話』)。

入植者の経緯

原野開拓

1.はじめに

ビバウシ原野は明治24年(1891)に撰定され次のようにある。「西はシカリベツ川に依りて上川郡の原野と界し東はウリマク川に依りてペ ンケチン 原野と隣しヌプカウシノボリと連なり南はシカリベツ川を距て、シンレラヲマップ原野と相対する地勢北方は高く南方は低きを以て乾燥の地多く北方にあり而し て湿地は多く南方に横たわる、諸川共に皆此原野を通流し南に走りてシカリベツ川に注ぐ」とあり、ペンケチン原野については「西はウリマク川を以てビバウシ 原野と界し東はパンケチン川を以てニブシベツ及びウヲップの両原野と隣し北はヌプカウシノボリの山脈と相連なり南はシカリベツ川に依りてシンレラヲマップ の原野と相接す之をペンケチン原野と名づく」(植民地撰定報文)明治29年(1896)の第1次開放の頃から整理統合されビバウシ原野をクテクウシ植民地 区画、笹川15線以北をウリマク植民地区画とした。

クテクウシ原野に最初に入植したのは、明治35年(1902)山田松次郎で、僅かの畑地に蔬菜を作りヤマベ、鱒などを釣り、乾し魚にして清 水、熊牛 方面に売り歩く生活を送り、東京から来たことから東京山田と呼ぶ者もあった。

明治39年(1906)内閣馬政局が(現駒場)に十勝種馬牧場の開設を決定すると、先にこの地に入植して開拓に従事した富山県江波団体(団 体長西島 要次郎)の一部、西島甚太郎、太田理三郎、山田茂八郎、上島卯三次郎、大上与吉、森内清吉、早坂虎治らが交換地に、再び集団移住したのが、クテクウシ原野 で現在の下鹿追である。この前明治41年、現笹川の中島に飯田源作・勝次郎、翌年には高尾小三郎、加藤小八郎が笹川に入植。上然別に長屋藤兵衛、上重亀 七。クテクウシ1番地に丸山浅太郎が入植。ウリマク原野には、明治43年横山源次郎、福井惣十、桜井宗吉が入植。美蔓に山崎平吉らが入植して各地で開拓が 始まり、清水−鹿追間道路が開削されたのは明治42年であった。

明治44年になると、音更−鹿追間道路が北15線まで測量を終わり開削が始められた。それまでの然別川は丸太で組んだ仮橋を人が渡り、馬、 馬車など は浅瀬を選んで通行していた。

大正2年に25間橋と呼ばれた仮橋が架けられた。木橋であったが本格的な橋が架けられると鹿追橋と名付けられ、初めて鹿追の名称が用いられ た。新 得・鹿追間の道路は大正9年、屈足・瓜幕間大正10年、万年・美蔓間は同12年に開通したが、然別湖まで開通したのは、昭和7年(1932)10月になっ てようやく完成された。

大正2年(1913)にクテクウシ駅逓。大正7年ウリマク駅逓、同12年東瓜幕駅逓、同14年然別湖畔駅逓が開設された。

農場払下げは明治43年(1910)に作田太七郎が199町歩(現鹿追市街)小川平吉が中鹿追に563町歩。同44年、遠野熊次郎 1,021町歩、 東郷実夫134町歩、新田長次郎1,290町歩、大正2年には新田帯革会社が4,801町歩などを払下げて、それぞれ小作入植者を迎えるようになった。

また、団体では大正4年に岩手団体、大正5年鳥取団体、天理教団体、宮城団体、同7年宮城団体、山形団体、佐賀団体、大正8年長野団体、昭 和6年 (1931)福島団体が各地に入植して開拓が始まった。

各地の開拓が始まると鹿追、瓜幕の駅逓を中心に、また笹川にも市街地が構成され、郵便局、医院、各種商店、鍛冶屋、料飲店、巡査駐在所も開 設され、 各地域毎に学校も開校した。さらに神社・説教所なども造営されて、地域の中心的施設が整備されていった。

大正10年(1921)4月1日、音更村から分村(戸数852戸人口4,448人)して役場庁舎が、クテクウシ1番地に開庁し、続いて昭和 3年 (1928)拓殖鉄道が開通すると、これらの市街地は駅周辺に移動を開始、現在では全くその姿を消しクテクウシ駅逓だけが、面影を残すのみとなった。

2.開拓の先駆者

本町の開拓の歴史は十勝管内各町村に比較すると浅い歴史と云える。

明治35年(1902)に山田松次郎がクテクウシ原野に第1歩を踏み入れたのが最初と言われ、それから数えて90年である。

松次郎は明治29年、岩崎鉄太郎が芽室の毛根に共同牧場として、未開地90万坪を出願して270町歩の貸付け許可を受けた。このうち農耕適 地の開拓 調査を依頼されてクテクウシ原野に入地したが、約1町歩ほどを耕し、余暇を利用して「やまべ」を釣り、これを焼き干しにして、熊牛方面の農家に売り歩いて 生活していた。明治の末期になって上然別、笹川、下鹿追の各地に入植者を迎えるようになった。

大正10年(1921)4月、母村音更から分村して70年余の歳月と歴史を築くに至った。

この長い歳月には、幾多の先人が骨肉を削って汗を流し、故郷を偲んで涙を飲んだ人生の喜怒哀楽、紆余曲折の歴史が今日を築いたと言える。

明治の末期から大正の初期にかけて、北海道の開拓に夢を持ち、安住の地を求めて渡道した者、未開の大地に一攫千金の野望に燃えて、津軽海峡 を渡った 者もあったろうが、これを迎えた北海道の大自然は、想像を遥かに越える厳しいものであった。

厳冬期に零下30度を越える酷寒は掘っ建小屋を直撃し、尺余の積雪は吹雪となって舞い込み、布団の上にも雪が積もる有様であった。農繁期に は、夜明 けとともに野良に出て、ハエ、蚊、虻を払い除け、大木を切り倒し笹藪の根を掘って、芋、麦、ソバなどの種を播き、収穫の秋に期待したが、冷害凶作に見舞わ れると、自家用の食料にも事欠く状況の中で開拓は進められた。

明治年間から大正初期に本町の原野開墾に挑み、今日の農業基盤を築いた人々の、想像を絶する辛苦銀難、困苦欠乏に耐えた足跡を辿ると、各地 域の先駆 者は次のようである。

明治35年(1902)山田松次郎が東京から現在の下鹿追紅葉橋下流に定住し、約1町歩の耕作を始めたのが鹿追開拓の始めである。

明治38年渡辺豊吉が美蔓に牧場を開設、後に鹿追郵便局を開設。明治39年、中川才助上然別に無願開墾、2年ほどで帯広神社神官として転出 したが、 同40年代になると各地域に続々と入植が始まった。

明治41年、飯田源作・勝次郎が然別川中島に、松島石太郎、工藤仙太郎が笹川に西島甚太郎、長屋藤兵衛、上重亀七、西島久太郎らが上然別に 入植し た。

明治42年、神山嘉吉(上然別)高尾小三郎、加藤小八郎、一条栄助(笹川)加藤房吉(瓜幕)菊地春吉、伊藤平吉(笹川)

明治43年、丸山浅太郎、太田佐七(鹿追)横山源次郎、福井惣十、桜井宗吉(瓜幕)山崎平吉(美蔓)松村熊吉、松村小市(上然別)及川市蔵 (笹川) 文屋源治、井上勇作(中島)

明治44年、藤原オトラ、岡田銀十、渋川弥平、中谷栄作(笹川)平下権作(上然別)角田助右衛門(奥瓜幕)春日井庄吉(上然別)

明治45年、尾形峰治、斉藤国一、高杉新作、平岡佐吉、山岸俊太郎、吉崎治、猫淵数松、高田宇三郎、吉田勘次、大野利三郎、片桐岩太郎(笹 川)大正 元年、赤間幸蔵(瓜幕)

この間明治43年から44年にかけて下鹿追地区に交換地付与で上嶋、山田、大上らが入地したが別項に記す。

大正2年、高橋鶴松(太田農場管理人として上幌内に入植)辻亀太郎、郡谷留八(上幌内)北川与惣吉(幌内)坪野誓源(笹川)谷川久、七条万 平(北鹿 追)岡本丑太郎(瓜幕)らである。

各地域毎に個人・団体で入植する者相次ぎ、鹿追の開拓の槌音も高くなるとクテクウシ駅逓が開設され、移住者・旅人の便が図られ、また鹿追橋 も完成さ れた。

明治時代から大正の初期に入植した古老の話をまとめると、開拓の基盤を築かれた先駆者の労苦のほどが偲ばれる。

明治41年(1908)に新潟県から大樹を経て笹川の中島にあった千葉農場に小作入植した飯田源作・勝次郎は入植後、間もなく勝次郎が旭川 第7師団 に入隊したが、この問に入植した土地が差し押えられ、競買になったことを新聞で知ったという。また、この地は然別川の中州であったため、増水のたびに水害 にあい、杉本農場の小作となったが、これも地主の都合で転出、現在地に定着したが、ここは三井徳宝の土地で、これも音更の金融会社に買い取られ、更に杉本 合名会社に売却、再び杉本農場の小作人になるという苦難の道と不運が続いたが、戦後の農地改革でようやく自分の土地を得ることが出来たのである。

また勝次郎は或る年、稲黍60俵を収穫したが、これが当時の主食であり1年で食べてしまい、我ながら驚いたという。源作・勝次郎が入植した 当時の 掘っ建て小屋は、大正4年から始まった小区画測量の時、測量班の懇望で一部を貸したり、入植者の仮小屋に利用されたりして、開拓事業に大きな役割を果たし たといわれている。

同年、上然別に入植した長屋藤兵衛は

「岐阜県で代書業をしていたが、先に中士幌に移住成功していた親類を頼って渡道し、ここで1年間北海道農業の指導を受け て、上然 別に土地を求めて移住した。入植当時は、稲黍、麦、馬鈴薯、トーキビ、蕎麦などが主食で、米の飯はお祭りか、お正月、または病人用として大切にした。着る ものは、紺地の衿纒と股引き、刺し子の脚絆に裸足足袋、冬は赤い毛布で素足を包み、藁で編んだ「つまご」を穿き、薪切り、炭焼きなどをした。大正2年は大 凶作、3年は大豊作で、大豆1俵3円、小豆は4円、麦2円50銭、玄米は5円だった。人夫賃は、農家出面で男は30銭、女は25銭であった」と語ってい る。藤兵衛は母村時代の大正3年、第17部の部長をはじめ、初代村会議員、その他の公職を歴任、当時の誉橋が有料であったのを、公共用に陳情して無料化に するなど、地域の発展に労を惜しまなかったといわれる。
 明治42年、静岡県朝比奈に生まれた増田作平は、16才のとき先に渡道して人舞に移住した桜井佐六・宗吉を頼って渡道し、翌年瓜幕原野の開拓を計画した が、生活費稼ぎに鹿追マッチ軸木工場の原木運搬や、桜井家で農事見習いをして資金を貯え、大正3年北鹿追に25町歩の土地を求め開墾許可を得たが、村瀬与 吉に売却大正6年に瓜幕に移転した。
 大正9年には山田重兵衛、引地長次郎、秋庭八五郎、藤井紋蔵らと水田耕作組合を設立、翌年にはビート耕作、乳牛導入など試みるも何れも不成功に終わり、 12年には綿羊飼育を手がけるなど、苦難と模索を続けたパイオニアであった。瓜幕川の沢の中に水田4反を作ったが収穫期には「ねずみ」にやられ、4升か5 升しかとれなかった」

と作平の妻が語っている。

明治43年3月、十勝種馬所が開設されるため、交換地(現下鹿追)に入植した山田茂八郎の5男、森は

「当時然別川の沿岸にはアイヌの人達が木の皮で屋根を葺いたり、壁をつけたりして拝み小屋を作って生活をしていた。年寄 りのアイ ヌの人達とは、時々遊びに行ったり来たりしたが、足には鮭の皮で作った足袋(アイヌの人はケリといった)を穿いており、シナの皮でワラジを作って穿いてい た。鮭や鱒を持ってきて稲黍、その他の食料と交換していった。農産物を売るには、音更まで馬車に7俵か10俵ほど積んで出掛けなければならなかった。米1 升買うにも、醤油1升買うにも音更市街まで出たものだ。それも朝3時に出ても晩には8時か9時頃にならなければ帰れず、人馬共に疲れ果てて帰ったもので す」

と町五十年史に述べている。

同年、瓜幕に入植した桜井宗吉は

「明治40年人舞に移住し、43年瓜幕に開拓地のあることを知り、移転して開墾に従事。宗吉は温暖の地静岡の稲作地帯の 生まれ で、早速水田造成に取りかかったが、惜しくも地質気候の違いで失敗。ハッカ栽培を試み、自家製のハッカ精製もしたが製品販路に難があり成功には至らなかっ た。
 明治45年、ときの音更村長が然別湖探索の折、一夜の宿を提供して大いに感謝された」

と回想している。

明治44年に上然別に入植した春日井庄吉の長男・準一は

「裏の然別川のあたりに『イモンコ』という白髪白髭の年老いたアイヌの人が、大正8年頃まで住んでいた。日本語がわから ず手振り 足まねで、昔アイヌの人達が戦った話を聞かせてくれたり、鳥や魚、兎の捕り方も教えてくれた。また瓜幕地域の人々は、帯広往復は馬車でしたから、1日では 往復できず、帰途多くの人達は、我が家で1泊したものでしたが、その頃道路の両側は鬱蒼とした樹林であった。それが新田製渋事業が始められて、原料になる 柏の皮を剥ぎ取るようになると、立ち木は次第に枯れてから道路も明るくなった」

と当時の模様を語っている。

大正2年、父菊地政吉夫婦に連れられ、6才のとき笹川東郷農場に入地した政喜は

「私がまだ子供の頃、然別川沿岸の東郷農場から西瓜幕にかけて、アイヌの人達がたくさん住んでいたが、このコタンは同族 が遠くか ら然別湖へ行く宿泊所になっていたようだ。和人はこの人達から鱒や鮭の料理や、保存食の作り方などを教えて貰っていた」

と語っている。

明治42年に父小三郎と笹川に入った高尾種太郎は

「大正3年頃のことだが、今の開発建設部鹿追出張所付近に、小川吉三郎という農家があり、この家の馬が肩の肉を大きく剥 ぎ取られ 半死半生でいるのを見て驚いたことがある。小学校へ通うときの朝であった。家が然別川の沿岸であったから、鮭や鱒などはいくらでも釣れたし、干しておくと 年中食べれた。人舞から移住したときは、十勝川を「渡し船」で渡り、然別川は人は丸太橋を渡り、馬は馬車と一緒に川を越えさせた。道はアイヌの人達が歩い たところをたどりながらであった」

という。

明治44年9月、単身で音更村大字東士狩村上然別に入植した渋川弥平は

「未開地10町歩を金150円也で買い求めたが、見渡すかぎりの原始林で直径1メートルを越える老木が多く、この大きな 樹木を毎 日切り倒し、これを積み上げては焼却したり、然別川に流したものだが、こうして漸く太陽が見えるようになった。そこで風鈴を吊して寝たものだが、風鈴でも 熊よけには役立った。また弥平の先代は武家で、禄高1千石であった。渡道の際先祖伝来の鎧・兜は実家に残し、大小の太刀しか持参できなかったのは残念で あった。大正11年(1922)の大水害で耕地が流失し、この時天皇陛下から御下賜金1円20銭下賜されたが、時の村長から伝達には『羽織・袴で出頭せ よ』と通知を受けたことがある。渡道したのは明治39年に宮城県からで、汽車は落合までしかなく、落合からは徒歩で熊牛の十勝開墾会社の農場に入地、44 年に鹿追に移住した」

と武士を捨てて北海道に渡った頃を思い出している。

明治45年笹川に入植した片桐岩太郎の長男友重は

「或る朝、熊が家の前でうろうろしているのを見つけて、恐ろしさも知らず騒いだ。熊は近くの樹林の中に逃げたが1時間も 探しても 見つからない、熊は林の中にあった古い『炭がま』に入って寝ていたので、ハンターはこれを見付けて素早く1発撃ったが、残念ながら流血はあったものの逃げ られてしまった。これは昭和10年ころのことであった」

と開拓当初は熊の被害から守らなければならなかったことを語っている。

明治44年に奥瓜幕に入植した角田助右衛門の3男勝雄は

「秋になると燕麦畑をひどく荒らされたものだ、時には夏にも出ることがあった。熊は利口な動物で燕麦畑には入らず、畑の まわりか ら食べていき、翌日は前日の食べ残しを食べていった。今までに2頭捕った。綿羊を1日おきに2頭やられたことがある。たまりかねて『口ハッパ』で獲ったこ ともある。坊主山の麓にいたので、毎年然別川にオショロコマを釣りに行ったが、面白いほど釣れ、釣り上げるのが忙しいくらいで、石油罐1杯ぐらいは忽ち釣 れた」

と、岩魚釣りの面白さを語っている。


◎本道熊の捕獲数 本廳警察部の調査に係る熊獣捕獲数は明治三十四年乃至大正五年の十六箇年間に於て四千九百四十七頭其最多きは大正元年度 の五百七 頭、少きは昨五年度の百二十一頭なりとす年度別左の如し

明治34年度 375頭 明治40年度 188 大正2年度 382頭
同 35年度 257 同 41年度 503 同 3年度 310
同 36年度 231 同 42年度 206 同 4年度 417
同 37年度 272 同 43年度 399 同 5年度 121
同 38年度 276 同 44年度 190    
同 39年度 303 大正元年度 507    
(殖民公報大正6年)


大正2年に西瓜幕に入植した岡本丑太郎は

「昭和10年頃まで熊は頻繁に出没した。畑を耕作するようになってからは、住宅付近にも現われるようになった。ある夜、 馬の飼料 に作ったトーキビを運びにいくと、確かにあったはずのトーキビがない、不思議に思い探したところ、川原に運んで食べていた。畑を荒らされたり、馬を殺され たりしたことはたびたびであった。この地帯の農産物は新得市街に売りに出たが、上幌内を経て熊牛の通称『千間坂』を馬車に8俵くらいの豆を積んで屈足を 通って新得まで運んだが、農産物を扱う商店は□(ヤマ三)太田勇太郎商店と重田重太郎商店という2軒しかなかった」

と収穫を終えて出荷する苦労を語っている。

大正15年に音更から東瓜幕に入植した高橋兵太郎は

「或る年の秋であった。熊を獲ったので瓜幕の警察に届け出た。褒めてくれると思ったら反対に叱られてしまった。というの は、免許 なしで鉄砲を撃ったのが悪かった。結局、音更役場まで行って指導を受け、手続きをして免許証を貰って解決したが、秋の忙しい収穫時期に1週間もかかったの は打撃であった。また、ペンケチン川には鮭や鱒が産卵にのぼったが、川幅が狭かったのでいくらでもとれた。農産物は馬車で士幌まで運んだが1日がかりで あった」

と入植当時を偲んでいる。

3.団体入植の状況

本町の開拓には、個人で未墾地あるいは特定地払下げで入地した者、及び、大農場の小作人として移住した者のほか団体で集団入植した者があ る。

団体入植した者にあっても、北海道開拓団体を組織して直接クテクウシ原野、またはウリマク原野に移住した者と、別項で述べたように、国の政 策で交換 地付与で集団移住した富山団体などがある。

また、戦中には中心都市の人口疎開と食料増産政策で集団移住した者や、戦後引揚げ者対策で開拓指定地に入地した者などがあった。

それらの概況は次のようである。

山形団体

矢萩藤助が開拓団を結成して渡道したのは、大正7年(1918)5月であった。山形県滝山村はその前2年連続の水害に遭い、浅野専松は酒、 タバコ、 雑貨商を営んだが店も住宅も流失し、周辺の農家も同様な状況で途方に暮れた。この時矢萩は一念発起、移住者を募集すると、田中徳治、浅野卯吉、森谷惣之 助、矢口利吉、渡辺福蔵ら15戸が団体移住したのがウリマク原野21号−23号、24線−28線を中心に入植した。

長野団体

ウリマク原野に最初に入植したのが、大正6年(1917)飛騨の高山から移住した二村徳之助、秋庭八五郎で、次いで柳沢正男が入植調査に入 り、大正 8年(1919)3月、柳沢が団長となって30戸が音更村東士狩字ウリマク原野に移住入植した。〈柳沢日誌〉

この団体の中には文芸に優れた者が多く、大久保運右衛門は芭蕉の流れをくみ、また郷里から神楽一式を持参、春秋の祭りには奉納舞や歌会を開 き、大久 保が選者となって指導に当たった。これらの人々は既になく、神楽装束は現在鹿追社会福祉会館に保存されている。

この団体が残したものに通明小学校の校名がある。小学校開校に当り出身地長野県篠ノ井町の通明校が県下でも優秀校であることから、これにあ やかろう と校名にしたと言われる。現在は姉妹校を結んでいる。

天理教団体

大正5年(1916)にクテクウシ原野と呼ばれた大原始林に、全国各地かち入植した団員は、各地の方言が入り混じり、言葉から解決しなけれ ばならな かった。現地に到着当時は先住者谷川久の馬小屋に、むしろを敷いて仮の住まいとし、翌日から宿舎の建設に取りかかった。

大正7年には営農の見とおしも立ち、掘っ建て小屋を作って家族を迎える事ができたが、芋やトーキビで腹を満たし、忍耐と信仰心で開拓は進め られ、今 日の基盤を築いたのである。

昭和50年(1975)には、天理教信徒66名で「天理教団体開拓記念碑」を建立して開拓の偉業と、苦難の道を歩んだ「生きた証」として後 世に残し たのである。

南部団体

昭和12年発行の鹿追郷土誌には

「明治末期、岩手県より新得町屈足付近に移住した高橋徳之亟・長之助ら幌内三十四号以北新田牧場に至る未払地三〇〇町歩 あるを発 見、同県人団体を組織長之助団長となりて約三十戸を代表し、払下を出願大正二年(一九一三)認可を得、上幌内一二六−一二七番地は大区画なれば分割測量し 三年には小屋掛けに着手す。屈足よりは十勝川ありて渡船なく熊牛を迂回するの不便なれば、屈足より笹川に出ずる道路を作らんとて渡船を出願し、千間坂を開 く。漸く出役にて人馬道を作り、伐木開拓一−二町歩つつを得」

と記されている。

実際の払下は小原久八ほか20名が共有権として許可を受け、大正6年共有権を分割取得に協定した。この時の価格は9町歩で88円26銭で あった。

同県人意識がつよく積極的に開拓を推進し、地域の学校開設、道路開削など住民の労力奉仕と一致協力の開拓者魂で進められた。

鳥取団体

クテクウシ原野(現笹川北9線5号から7号)にかけて、鳥取県八頭郡から移住したのは大正5年(1916)で、保木本棟一を団長に大下林次 郎、石井 栄蔵、白岩林蔵、藤原虎吉、尾崎虎蔵ら5戸で家族を含めて22名であった。各戸10町歩の付与地を5カ年で80%以上を開墾し、成功検査を受けて初めて自 作地となった。

入植当初は共同で5町歩を開墾して、取りあえず自家食料を主として越冬食料の確保に努め、6月中には馬鈴薯4反、稲黍4反、大豆5反、蕎麦 1町5反 などを作付けし、味嗜、醤油、石油や生活用品は清水、帯広に歩いて買いに出かけなければならなかった。こうして開拓が進むとこれを頼りに移住してくる者が 増加、最上繁次郎、石井万治らは白岩の縁者であった。

これらの人々が汗を流して開拓した農地が、現在に引き継がれて豊穣な畑地となり、酪農の基盤となった。

宮城団体

宮城県多賀城の庄屋に生まれた菅野久治郎は、新開地開発に夢をかけて大正3年(1914)、旭川に目を向け1年ほど生活したが、さらに樺 太、千島に も足をのばして土地を探索して帰郷した。

その頃ウリマク原野に国有未墾地のあることを知り、移住者を募り自ら団長となって渡道したのが大正7年(1918)で、高橋鶴太郎、太田民 造、高橋 清助ら12戸であった。

この団体が開拓した地域は、昭和34年(1959)陸上自衛隊演習場に買収(第6次)された。

佐賀団体

明治44年(1911)7月、道庁告示第565号で、ウリマク原野の売払い、または貸付け移住が公表されると、全国各地から移住希望者があ り、遠く は佐賀県杵島郡福富村からの募民があった。

有明海を埋め立てて造成された干拓地が、津波の被害で農地が流失する被害を受けた。

この時、北海道開拓に着目したのが江口弥平で、希望者を募集すると、13戸50名になった。直ちに移民団を結成、団長江口弥平、副団長に稲 富善太郎 がなり、淵上源治、美佐太・丈太郎・熊市、土井初治、正保猪八らが、未知の世界北海道に出発したのが、大正7年(1918)3月で、約5日を要して大雪積 もる新得駅に到着したが下駄か、草鞋の移民達は忽ち鼻緒は切れ、足袋は凍れ足を引きづって辿りついたのが、瓜幕特別教授場(元笹川小学校)で1泊し、翌日 開拓予定地、瓜幕23号−25号、西25線−28線に到着し、開拓に従事した。

熊本団体

大正8年(1919)ウリマク原野(瓜幕西27線−29線、26号−29号)に入植した熊本団体の記録はすこぶる少ない。

その理由のひとつは、団長岩木嘉次郎は入植間もなく帰郷した説と、新得まで来たが急死して、岩木嘉市が団長代行して入植したと語る者があ り、また実 際に嘉次郎の入居地は確認できない。

「眼で見る郷土史」第2集(1982)に、「団長岩木入植間もなく帰郷、川井助次郎、中尾徳蔵と正蔵・辰吉・文蔵の三兄弟のほか、上村万 記、柳沢ら が開拓に従事、上村一族は現在も本町に在住する」と記されているのが唯一の記録である。

宮城団体

ビバウシ原野をクテクウシ原野と改め、殖民地区画が測設されると大正4年(1915)3月、宮城県から団体入植者を迎えた。

団長は今野源之亟で、大槻伊右衛門・一郎、高橋作之亟、今野保之助・宗寿、竹村小太郎ら9戸44名で、入植地は現在の笹川北9線−10線の 7号−8 号であった。入植と同時に草小屋を造り土間に莚を敷いて開拓生活が始まった。

大正11年(1922)になって、斉藤農場(現瓜幕西21線−23線、26号以北)が開放されると、今野源之亟らは斉藤農場に移住して小作 人とな り、産土神社を建てて再び新開地の開拓を始め、大槻らが笹川に定住した。

拓北開拓団(東京集団疎開者)

昭和20年(1945)8月14日、国民の誰しも知る由もなかった終戦の前日に、東京から集団疎開者を迎えた。

東京都は、政府の食料増産と都民の疎開政策に対応して、各区役所毎に昭和20年1月から移住者の募集を開始した。 当時の模様について中山梅太の長男厚は

「板橋区で『拓北開拓団』を募集すると、32戸49名の応募があり7月中に団体を結成した。
 応募した人たちの職業は様々で、魚屋、印刷工、大工、教員、画家、新聞販売店その他で雑居集団であった。
 第1班長大郷喜代治、第2班長は松岡潤一郎がその任に当り、家財を整理し、生活用品を荷造りして発送したのが、8月2日で団員は8月7日に出発となっ た。途中幾度かの空襲と鑑砲射撃を受け、そのたびに列車は止まり、またトンネル内に避難するなど不安と危険な旅であった。
 仙台では4日間の足止めとなり、学校の焼け跡のコンクリート壁を塀にして仮宿生活を送り、津軽海峡を渡ったのは8月12日であった。
 14日に鹿追に到着し中鹿追集会所が仮の住居となったが、神田さん一家などと共同生活であったが、空襲も爆撃もない静かな夜であった」

と当時の記憶を語っている。

函館港には、時の村長黒沢友寿が出迎え、また新得駅には役場書記川染重が出迎えて到着を待った。出迎えを受けた一行が拓殖鉄道で鹿追駅に辿 り着いた のが、奇しくも第2次世界大戦終結の前日8月14日であった。

翌日は予想もしなかった終戦を迎えたが、明日からの食料と生活の場である住宅の問題が控えている。旅の疲れを癒す余裕もなく、早速取りかか らなけれ ばならない。しかし不運にもこの年は大凶作の年で、既存農家にも余裕はなかったが、各部落民、実行組合などの協力を得て、食料の確保と、居小屋造りの作業 は順調に進んだとはいえ、秋の短い北海道は忽ち冬を迎えた。東京育ちの人々には零下20度を越す冬の生活は理解されていなかった。

越冬食料の確保、暖房用の薪づくりもあるが、防寒衣類を持ち合わせない人たちにも寒気は襲った。にわか造りの住宅には雪が舞い込み、布団の 衿には霜 が降りる日が続いた。夜は電灯のない薄暗いランプの下で既存農家の開拓時代の話に耳を傾け、励まされたり慰められたりして、新たな勇気を奮い起こしたので あった。

北海道農業に経験のない人たちでは1年分の食料の確保も容易なものでない。既存農家の指導を受け、また手間代えなどで起耕、播種、肥培管理 などの協 力を得て、稔りの秋を迎えた時の感動は、経験した者でなければ分からないものであった。とはいっても、収穫したものはかつての開拓者が経験した麦、馬鈴 薯、南瓜、そば等食用作物が主で、販売作物にまでは至らなかった。

やがて数年を経て経営基盤も安定に向ったが、朝鮮動乱の影響で景気が上昇すると、東京懐かしさで帰京する者、また転業転職する者がでるよう になり、 徐々に残存者組、離農者組とそれぞれの道を選び、現在では極く僅かに在住するのみとなり、その人たちも代が代わって2代目になっている。

引揚者の入植

戦後、引揚者対策と食料増産を目的に、西上幌内地区が開拓地の指定を受け、入植者を迎えた。昭和21年(1946)日下進が入植すると以来 陸続と引 揚者が入植を始め、30数戸を数えるに至った。

しかし、この地域はかつて新田農場を開放して小作者を迎えたが、本町で最も高丘地帯で、連続的冷害に悩まされ殆ど離農した跡地であった。更 に高地の ため地下水位が深く、飲料水の不便と家畜飼養に困難な地域であった。そうした悪条件の地域であったが、引揚者入植指定地ということもあって、夢と希望に燃 えて入植した人々は、懸命に安定営農を目指して、辛苦艱難と戦って開拓に従事した。

こうして戦後の混乱期を乗り越え、食料増産と安住の地を求めて、相互扶助の精神で営農に励んだが、山麓高台の自然現象は厳しく、地域の団結 と精神力 では抗しきれず、高度成長期になると遂に集団離農となり、昭和40年(1965)には町営乳牛牧場となった。

復員軍人集団入植

一般的な団体移住とは異なり、戦後間もなく復員軍人が集団入植したのは昭和21年(1946)2月であった。

戦時中は旭川26連隊に属した熊部隊が音更町木野(現蓬莱高台)で終戦を迎え、武装解除になった隊員は、それぞれの故郷に復員することに なったが、 このとき大西利春中尉が中心になり、大友治助少佐を相談役に「十勝開拓団」を結成して開拓地を求めることになった。

最初は大樹町に開拓適地を物色したが見当らず、瓜幕の国有林払下げを申請して許可を受けたのが、瓜幕15線(OK道路付近)15町歩と然別 湖北岸か ら山田温泉にかけて60町歩の払下げと、更に然別湖の漁業認可の申請を提出。許可を受けて入植した元隊員は9名であった。

開拓事務所兼住宅には「高地農業研究所」と看板をあげ、農事班・漁業班に分かれて事業は開始された。

農事班には薬師繁雄、富田清、国井鉄郎。漁業班には諸橋淳三、高岡英夫、木元英二郎らであった。

漁業班は、手売島から船大工を呼んで船を造りオショロコマ釣りと、払下地の伐採に当ったが材木販路に難があり、経験のない者の集団では計画 通り にならず、翌年には落伍する者があって解散した。

その後も定住しているのは薬師繁雄のみで、この住宅が「高地農業研究所」の事務所である。

4.住宅と生活環境

開拓入植と同時に必要なのが生活の場であり食料である。入植当時の住宅は、現在では想像も及ばないもので、家屋または住宅というイメージと は程遠い 状況であった。先住者に親戚友人のある者は一時物置か、馬小屋を借りて仮住まいしながら、住宅を造る余裕もあったが、縁故者のない者は、俗に開墾着手小屋 あるいは開拓居小屋と呼ばれるもので、すべては自分の手で造らなければならなかった。まず最初に入植地に密生する手ごろな立ち木を切り倒し、「おがみ小 屋」といわれる掘立小屋で、最も原始的な家であった。

9尺に2間か、大きいもので2間に3間ぐらいの合掌づくりで、周囲の壁と屋根を萱や熊笹、雑草で囲んだもので、入口はむしろを下げ、内部の 一部は土 間のままにして、踏み込み炉を造った。寝室は土の上に枯草や笹を敷きつめ、その上にむしろを敷いて寝起きするようにした。家の片隅には炊事道具の桶や鍋 2、3個と僅かな食器が置かれて台所に使われた。

特殊の団体として入植した天理教団体の場合は、先住者長谷川の馬小屋を一夜の宿に借り、萱を敷きむしろを広げて布団を敷いて第1夜を過ご し、翌日か ら大工、樵夫の心得のある者を先頭に宿舎の建設にかかったが、2、3日で完成し、次々と4号宿舎まで建てたが、宿舎1棟に30人が入居できる建物が、2、 3日で出来たというから、およその想像はつくものである。

こうして開墾小屋ができ、馬を飼養するようになると、馬小屋が必要になるが、当初、馬は屋外の立ち木に綱でつないでおいたが、やがて開墾小 屋から住 宅を建て替えると、住宅の棟続きに馬小屋を建てるようになった。4間か5間くらいの母屋に、馬小屋が棟続きの建物は昭和初期まで見られたが、その後は住宅 事情も改善され、家畜小屋も分離し、馬小屋、牛舎、綿羊小屋と独立して建てられるようになった。

暖 房

十勝、特に鹿追の真冬の寒さは厳しい。開拓時代はなおさらであった。入り口は莚を下げる程度であったから、吹雪が吹き込み、寒気がしのび込 む。布団 の衿は吐く息で白く凍りついていた。

勿論ストーブなどは使わず、土間の一部を囲炉裏にして、直径1尺もの丸太をたて割りにして燃やし、夜は照明代わりにもしたが、吹雪になると 雪が舞い 込みしゅん、しゅんと音をたてて消えていく状況であった。美蔓に入植した内海吉蔵は

「住宅は勿論掘っ建て小屋に草葺きで、隙間だらけのあばら屋が多く、大正初期まではストーブなど聞いたこともなかった。 いろりに 長い薪をくべて暖をとるのが普通であった。大正の中期になってようやくストーブが用いられるようになったが、開拓者には高嶺の花であった」

と語り、増田作平は「炉にくべた丸太があまりに大きいので人の手ではどうにもならず、ツルハシを使って動かして燃やした」という。

こうした暖房設備の不備は、開拓農家の子供たちに大きな悲劇を生んだ。夜中に寝呆け眼で小便に起き、薪につまづいて大やけどをしたり、家族 の留守に 囲炉裏に落ちて両手を焼き、生涯、身の不自由に耐えなければならない者も少なくなかった。また、冬期間寝るときは小児の頭くらいの石を暖め布にくるんだ り、湯タンポ、コタツで寒さを凌いだ。

照 明

照明用具には「ことぼし」といわれるカンテラが主で、直径7センチほどのブリキ罐に石油を入れ、上ぶたの真ん中から灯芯を引き出すように なってい た。灯油は1リットルもあれば1年くらい使えた。次にランプが使用されるようになったが、カンテラに比較して明るいことと、風が吹きこんでも消えることな く、また安全な事からも喜ばれた。

ランプには、2分芯、3分芯、5分芯などがあり、家庭の事情と経済にあわせて用いられた。ランプの構造は下に灯油を入れる壷があり、その上 にホヤと 呼ばれるガラスで、なかほどに脹らみがあり、更に上部には笠があった。このホヤは1晩で煤けて暗くなるので、ホヤ磨きは子供の仕事とされていた。

それ以前から提灯も用いられたが、これは足元を照らして夜道を歩く程度で、農作業や雨降りには不便であった。

次いで、安全燈が普及した。これはランプと構造は似たもので携帯用に改良され、夜の農作業や家畜の飼育管理にも利用されて喜ばれた。

飲料水

本町の開拓は、然別川周辺と小川の近くから始められたが、それには飲料水と家畜の飼養に水が欠かせなかったからである。

しかし、小川の水は融雪期になると、泥水となり到底飲み水や炊飯用には使用できなかった。そのため井戸を掘るようになったが、地下の水位が 深く、井 戸を掘り当てるのは容易でなかった。笹川に入植した鎌田庄七は

「大正14年5月開拓小屋を作ったが隣もなければ、水もでないところで妻に泣かれた。私は水汲み仕事を引き受けるといっ て妻をな だめた。水汲みは600メートルぐらいのところから醤油樽で2個づつ毎日2回運んだ。
 井戸は妻と2人で掘った。私が井戸の穴に入り、上で妻が綱を操作してくれた。25尺掘ったところで水が出た時はとても嬉しかった」

と語り、また幌内に入植した金田清吉は

「父、次郎兵衛が熊牛から、美蔓に珠玖農場が57戸分あってそこに入った。村上捨吉が34戸分を、また次郎兵衛が23戸 分、それ ぞれ買い求めて経営することになったが、井戸水が出なくて5箇所も掘り直したが遂に出なかった。ある時、人の話で盃に水を入れ、晴れた夜空の星が3つ映れ ば、そこには必ず水が出ると教えられ、迷信とも言い切れず、藁をもつかむ思いで、教えられた通り盃に水を入れ星のある夜、試してみたところ、確かに星が3 つ映る所があり、そこに印をつけておき、翌日から掘り始めたが、約12メートルほど掘ったところで奇跡的に水が出た。しかもその水は今だに涸れることもな く、使用している」

と、開拓時代は自給自足の生活が続いたことを語っている。

このほか、幌内小学校の井戸掘り、然美中学校の井戸掘りなどでも非常に苦労した記録が残されている。中でも然美中学校の場合は井戸掘り作 業中に生 き埋めになるという大きな犠牲者も出した。

食 料

本町の開拓時代には水田がなく、米は他の町村から購入するか、出身地から送って貰うほか手立てはなかった。明治41年に入植した長屋藤兵衛 は

「主食は麦や、稲黍でこれを精米するには、臼で手つきするか、足踏みでついたものだ」

と語っている。また明治41年岩手県から幕別、新得を経て大正4年に上幌内に入植した菅原幸之亟の娘タカは

「粗末な草小屋で、米など買えるはずもなく、稲黍、馬鈴薯、トーキビ、南瓜、蕎麦が主食で、魚は毎日のように小川でカジ カを釣っ て食べた。馬鈴薯は毎日で新芋から翌年の新芋まで年間通じて食べれるように保存した。芋団子、蕎麦団子も毎日飯台にならんだ。エゴマを作り、これを鍋で妙 り、摺り鉢で摺って芋団子やそば団子を入れると、最高のご馳走であった。また蓬を茄で芋と混ぜて団子もつくった。そのほか大豆を石臼で挽いて黄粉を作り、 団子にまぶしたりご飯にかけて食べた」

と語り、鳥取団体で入植した白岩キミは

「当時クテクウシの加藤宇吉が水車を回していたので出面(仕事)に行き、帰りにソバ粉や、稲黍の精穀したのを賃金代わり に貰って きた」

と語っているように、開拓地の食事といえば、想像も及ばないものであった。3度の食事に、麦か稲黍めしがあれば満足し、おかずには山菜の 蕗、わら び、ぜんまいなどを塩漬けにして保存して年間を通じて利用した。ご馳走といえばお正月の3カ日くらいの「白い米のご飯」で、来客や会合の時に、手打ちそば か稲黍餅で満腹になれば最高のもてなしであり、最大の楽しみであった。

味噌汁には、生鮮食品の入手は困難で鶏類(野兎など)塩魚、芋、野菜、山菜などをいれた「三平汁」が主流をなし、放し飼いされた鶏の卵など は貴重な 栄養源とされた。

春の融雪期には自家製の味噌づくりをした。大豆を煮て臼でついて、それを味噌玉にして、軒先に吊るし、頃合をみて味噌を作った。

秋には自家栽培の大根で沢庵を漬けたが、庭先に簾のように大根が干された情景も最近は姿を消したが、どこの家庭でも、味噌と沢庵漬けは4斗 樽に2・ 3本は用意されたものである。

「十勝産業史話」には、十勝の開拓時代には、『白いおまんま食べたいな』という、子守唄があったと記されている。

〈ねんねの寝た間に 何せよいの あずき餅の とち餅や 赤い山へ 持ってゆけば 赤い鳥がつつく
青い山へ持ってゆけば 青い鳥 白い山へ 持ってゆけば 白い鳥がつつくよ〉

その昔、十勝地方にはやった「赤い山青い山」という山本露滴の子守歌・寝かせ歌なのだ。こんなあやし歌にも食べ物が飛び出すのだった。落合 直文の流 れをくむ山本は、放浪詩人で、帯広の新聞記者もやり、明治41年に詩歌集「金盃」を刊行した。

このように、開拓農民たちにとって白米は縁遠く、まったく食べれなかった。と当時の模様を書いている。開拓者の主食になった稲黍や稗は、最 近小鳥の 餌になり、店頭には食料品が豊富に並び、飽食時代といわれる現在とは隔世の感がある。

衣 服

当時の着物は国元から持参したものに、つぎはぎした「着たきり雀」であった。男は筒袖に半纒、股引きをはき、冬は綿入れの半袖に袖の細い下 着を着る のが一般で、厳冬期になると頭から首にかけてネル布をまきつけ、手には綿入れの「てっかえし」と足には毛布(ケット)や、南京袋をさいて爪先まで巻きつ け、つまごを履いた。

履くもの、着るもの、被るものの全ては手作りで、耳かけなどは野兎を捕獲して毛皮をとり、円筒状に縫って耳に合わせてドーナツ型にして使 い、また上 着の内側に縫いつけて背中を暖めた。つまごは、わりに暖かいが、雪に濡れたまま一晩おくとコチコチに凍って翌日の履物にはならないので、夜は「つまご」や 「足まき」に使ったものを囲炉裏のまわりに乾かしておくが、汗臭い匂いが部屋中にたちこめたといわれる。女は筒袖の長着の袖をはしょるか、短着の下に腰巻 をまき、手甲脚袢をつけるのが普通で、後になってモンペと呼ばれる股割れ袴の裾を短くしたものをはくようになった。

外出するときは、つまごを穿き、お高祖頭巾や綿ネルを被り、角巻を着た。角巻は各家庭の必需品で、婦人の防寒用のほか、子供の昼寝に使われ たり、厳 冬期には食物の凍れを防ぐのにも利用されるなどその範囲は広く、便利なものであった。

主婦や女の仕事として雨の日や冬になると、開墾足袋(はだしたびといわれた)自家製の足袋を作った。これは、ぼろ布を厚く重ねて刺して丹念 に縫い上 げたもので、荒地を歩いても大丈夫なように「刺しこ」にして作られた。当時は欠かせない履物とされ、主婦たちは夜なべして、一夏履けるだけ作った。

大正時代に入って乗馬ズボン、ゴム靴も入るようになったが、開拓者には高嶺の花で、一般に普及するようになったのは大正末期から昭和になっ てからで ある。

開拓が進むにつれ、マント、タコ帽子、地下足袋などが普及するようになり、また各商店、農場、事業所などの名入りの印半纒や、名入りの前掛 けなどを 見かけるようになった。

5.初期農業とことば

入植地が決まり着手小屋ができると、開墾作業に取りかかった。明治の末期から大正の初期には、隣の清水町や新得町では、かなりの開墾が進ん でいた が、本町の場合はまだまだ遅れていた。

この事について、元新得町長平野栄次の「九十三年の足あと」には次のように記されている。

「・鹿追方面・当時の鹿追方面は開拓が進まず、然別川沿いに丸山渋工場があり、その他クテクウシに数十戸の農家があった が、大正 五年瓜幕駅逓が開設され、当村の竹俣紀勝(二十二区)が、鹿追市街の駅逓には藤井九助(屈足二十九区)の両氏が管理人として転出したのを始め上・下幌内に は大正五年六年と屈足二十五区、二十七区、二十八区から高橋鶴松、菊地由松、小原春松、小原久八ら二〇数戸(岩手団体)その他屈足地区より二十数戸、福山 地区より高地貞吉ら十数戸、大正七年には藤野清之助らを始め、多くの人々が鹿追、瓜幕方面に移住した」

とあり、また十勝開墾会社に一旦小作入植した者が、鹿追に払下げ地を求めて移住した者が多かった。

新開地の開墾は、楢や柏の大木を切り倒すことから始めなければならなかった。しかし切り倒した大木と、その根っこは馬耕には大変な邪魔物で あり、木 は適当に切って山に積んで燃やしたが、木の根っ株の処理は苦労も多く、昭和の初めまで畑の中に点々と残されていた。

伐木の始末が終わっても、一面の萩と笹、萱が生い茂る原野では馬耕も出来ず、春先に火を入れて焼き払ったが、強靱に張り巡らせた笹の根は鍬 もプラオ も簡単には受け付けなかった。そこで俗に新墾プラオといわれる、プラオの中間にナタ(ノの字型の鋼鉄製の刃物)をつけ、馬2頭あるいは3頭に曳かせて耕し た。

こうして耕した畑は土が固く、種を播くには棒で穴をあけ、また芋などは、さらに鍬「さくきり鍬」〈高野モツ談〉などで深くして播いたといわ れる。

やがて鬼ハローと呼ばれた砕土機が出来、土を砕くようになると、畝たても馬でするようになった。それまでは30間くらいの縄を張り、鍬で畝 をつけて 種を播いた〈菅原五郎談〉

鬼ハロー、ナタハローといわれた砕土機も新墾では、笹や萩の根に妨げられ容易に受け付けなかったが、2年、3年と繰り返し起耕すると、どう にか畝た ても馬でできるようになり、畝たて機では1度に3畝つつ切ることができるようになった。

開墾作業について、上然別の松村忠太郎は

「ヤチ坊主が多くて苦労した。労働者を頼んでみたが思うようにはできず、湿地も多く見切りをつけようとしたが、父親の昔 気質で押 し切られ、遂にヤチ坊主との戦いを続けた」と語りまた、佐賀団体で入植した正保猪八は「開墾の仕事は本州から移住したばかりの者には無理があったので、経 験のある者や専門家を頼んだりして、賃金もほとんど手間がえ(労働力提供)で返した。それでも1年に5反くらいは手で耕した」

と語っている。

また笹川の鎌田庄七は

「新墾の耕し賃は1反当り1円50銭くらいで秋払いにすると1円80銭くらい、何しろ開墾は、自分の土地になるかどうか の重大問 題であったから、冬には出稼ぎをした金をその費用に当てたものだ」

という。

大正2年に入植した植田佐市は

「自分の開墾作業のほか余暇を利用して新墾耕しを引き受けたが、1反当り90銭から1円と、土地条件によって差をつけ た。ハロー かけは3回かけて1円20銭から1円30銭までだった」

と、当時の畑起こしの賃金を語っている。

大正7年に瓜幕に山形団体で入植した浅野彦治の長女ふじのは

「入植したときは馬がいなかったので、笹川の飯田さんに頼んで新墾耕しをしてもらった」

と語っているように、開墾成功検査に合格すれば、5町歩の土地が自分の農地になるので、希望に燃えて新開地を求めて渡道した開拓者たちは、 北海道の 大自然の厳しい試練を克服しなければならなかった。

農耕馬

開拓移民と同時に農耕に馬を使用した者は極めて少なく、前記のように、先に入植した者に依頼したり、手間がえで作業は進められたが、馬の飼 育管理 も、馬を使う方法も知らない者が多かった。大正8年に鹿追に入植した蓑口佐一郎もその1人で、思いもよらないエピソードもある。

「兄夫婦と一緒に鹿追に入植したが、付近の農家を見ると広い畑に2頭立てのプラオを曳かせて畑を起こしている。こんな風 景は今ま で見たこともなかった。そこで早速小さな妊娠馬1頭を買い求めて農耕に使うことにしたが、その日に限りときどき立ち止まり歩こうとしない、どうも変だと 思っていると突然倒れてしまった。分娩が始まったのである。何しろ初めてみる馬の分娩であり、どう処理するかも分からず、本当に驚いた」

という。

馬の分娩は農繁期が多く、分娩直前まで農作業に使用するが、そのため大きな腹に胴曳きという馬具で、横腹の毛を擦り切らしている馬が多かっ た。近年 に至っては春耕から整地、畝きり、刈り取りに至るまでトラクターに代わり、こんな光景も見られなくなったが、開拓時代の馬の功績は大きく、また、馬は家族 同様に大切にしていたのも頷ける。

馬の越冬飼料に農作物の落とし殻も用いられたが、原野の雑草を刈り馬草にして乾燥させて保存した。これを「押し切り」で5分から1寸くらい に切って 与えたが、この時押し切りで指まで切り落とす子供も多く、今でいう農作業事故は子供たちの中にもあった。

枝打ちと抜根

製渋工場ができると、その原料に柏の木は、柄の長い皮はぎ専用の「カッチャ」という刃物を使って手の届くかぎり、木の皮を剥ぎ取り、これを 売って現 金収入にしていた。そのため木の下の方は丸裸になって立ち枯れになったものもあったが、小柏や雑木はまだまだあった。これを切り倒し山積みにして燃やした が、やがてストーブが普及すると、燃料用の薪にして保存するようになり、冬の農閑期を利用して薪切りをした。長さ2尺くらいに切り、太さは3方を6寸くら いの3角に割ったものを、家の周辺に積み、風よけの役目にもした。これを半分に切り、小割りにするのは子供たちの仕事であり、家まで運び入れるのも子供た ちであった。

この薪の量を表わす単位に「敷」が用いられた。5尺の高さで6尺に積んで1敷と呼び、普通の家庭では家族構成で違いもあったが、6敷から 10敷くら いを年間の暖房用燃料にした。

また畑にある立ち木の下は作物の生育が悪いので、枝払いもした。

腰に手ごろの斧や、鋸を用意して木に登り、枝を払うことも慣れない者には危険な作業であった。

伊藤惣次郎は

「下鹿追の森内豊次郎はアダナをブンマと呼び、相撲好きと枝打ちの名人で有名であった。よく頼まれて出掛けたものだが、 ブンマの 枝打ちといえば近辺では知らぬ者はなかった」

と語っている。

立ち木を切り倒す作業も大変であった。慣れない者は、倒れてくる大木の下敷きになって死亡する事故もあった。この切り残された木の株を掘り 起こすの が、また大きな労力を要した。鍬やスコップで周囲を掘るのは、ほとんど女の仕事とされ1日がかりで、やっと1本か2本であった。深く食い込んだ根は鋸や斧 で切り取り、テコで揺り動かしたり、馬に曳かせるなどして年々僅かつつ掘り取ったが、それも今では全く見当らなくなった。

奉公人

農作業に年間を通じて住みこみで雇われた者を奉公人と呼んで、雇い主の家族と同様に生活をしていた。なかには4月から11月までと期間をき めた者も あって、一定の賃金や衣類が支給された。

小学校を卒業したばかりの女の子は、主に子守とご飯支度であり、男の子は、一人前に畑仕事に従事するのが通例であった。

青年学校の制度ができると、これら奉公人は雇い主の家から軍事教練や夜学に通い、なかには徴兵で入隊するときも雇用した家から出立する者も あり、女 子では裁縫などを習う者もあった。

奉公人は、お盆と秋祭りくらいしか休む日がなく、畑仕事のない雨降りが何よりの骨休めになったといわれる。これを、当時は「他人の飯を食 う」といわ れ、他人の家で苦労した者でなければ、一人前でないといって、小学校を卒業したばかりの少年少女が、親を離れ、歯を食いしばって他家で働いたが、これも、 開拓時代の子供たちが自然に身につけた生きることの術であり、健気な自覚でもあった。

肥 料

開拓当時の作物は自家食用に重点がおかれ麦、稲黍、馬鈴薯、トーキビ、そば、南瓜等であったが、無肥料で作付けされていた。

それでも然別川の周辺は収穫もあったが、開拓が奥に進むに従って肥料が必要になってきた。その頃、化学肥料の販売を始めたのが、帯広の高倉 安次郎で 明治39年(1906)であった。

鹿追で肥料を使用するようになったのは、大正8年(1919)頃からで、美蔓に入植した山崎金次郎は

「大日本肥料というのを初めて使用したのが、大正8年で7貫目1袋が1円50銭で、1袋を3反歩にいれた」

と語っている。長屋藤兵衛は

「肥料といっても過燐酸くらいなもので、1俵が28キロで1円50銭、これを20アールに施肥した。それでも10アール 当り3俵 くらいの収穫はあった」

という。

営農資金

開拓当初は営農資金といっても現在のように、大型農業でなく、肥料も無肥料が多かったので生活費は少なくて済んだが問題は農地を買い取る資 金にあっ た。

開墾付与地に入ったものは、成功検査が通れば、付与の指令が出て所有者になれたが、その他の開放地入植者は容易でなかった。今のように補助 金や奨励 金、低利資金の貸付け制度のない時代であったから、土地を自分のものにするまでは、希望と辛抱で耐えぬいたのである。

そのため、冬は山稼ぎに行く者や炭焼きで資金を得ながら開墾した者もいる。なかには隣接町村で開拓を始め、その小作権を売って得た金を資本 にして新 しい土地を求めた者もある。

とにかく自分の土地を得るまでは、家族も、また子供たちも含めて、辛抱と労働の毎日であった。道庁の開拓指導といっても、勤倹貯蓄、労働第 一という 精神主義であったが、幸いにして現在のような生活水準ではないのと、営農資本はほとんどかからなかったことである。

厳寒の冬を越すため必要な暖房用燃料は、立ち木を切り倒した薪があり、主食の麦稲黍、芋も自家生産、蛋白源は、放し飼いにされた鶏とその 卵、小川で 釣った魚類で、豆腐、味噌も自家製であり、履物も「つまご、わらじ」の手製であるから、現金を必要としたのは、塩、砂糖、縫針、家庭常備薬と病人の出たと きのために備蓄した米くらいのもので、その他はすべて自給自足の状況であった。

こうして辛酸困苦を舐めて勝ちとった農地が現在3代あるいは4代目にと引き継がれ、営農が続けられている。

山稼ぎ、あるいは出稼ぎは昭和30年代まで続けられた。主な作業は国有林払下げの伐採と原木の搬出で、これを藪出しといって、樹間を原木の まま馬に 曳かせて、一定の場所まで運搬する作業で、馬橇や「タマ橇」または「バチ」などが使われたが、これも今では昔ばなしとなって風化しつつあるので、冬山造材 について少し触れておく。

俗にいう山子が使う7つ道具には、刃広(マサカリの一種)サッテ(斧の一種)節切り(刃の厚い小型マサカリ)天王鋸(大木を切り倒す大鋸) 腰鋸(枝 切り用)差し金、墨壷、角回し(ガンタともいう)目たてヤスリ、矢(鉄製のものは金矢という、鋸目の通りを良くするクサビ)などである。

冬山造材の期間は冬期間で、地元農民の農閑期を利用して行われた。現場が決まると、雪深い山奥に作業員の仮の宿泊施設、つまり飯場ができ、 そこに全 員が宿泊して作業についた。現場の責任者を山頭といって総責任を持ち、きわめて強い権限を持っていた。

組織は現場によって違うが、帳場、飯場人、小屋頭、組頭(杣夫頭)馬頭、藪出し頭などあって、その下に人夫として杣夫、馬追い、土場積み (巻き立て ともいう)などに別れて専門に働く者が大勢いた。

こうして飯場に入った人達は、怪我をしないように、事故に合わないように新暦の12月12日は山の神のお祭りとして全員作業を休み、餅をつ いて供物 やお神酒、灯明を上げて安全祈願をした。

「十勝産業史話」によると、昭和7年(1932)当時の模様について次のように書かれている。

「玉曳きは十勝で発達した雪上運搬法なのだ。しかも、丸太を環鎖で一本つつ長く連結する環曳きだった。賃金は地形と距離 で一様な らざるも、調査した際の賃金(地形は険峻なる坂路傾斜四十度に及ぶところありて、距離は一七〇〇間)十石を搬出して三円八十銭にして、一日平均六円位の収 入あり。最も多く稼ぎたる者は四十一石を搬出し、約六十円の収入を得たる者あり」

とあるから、農閑期の大きな収入となった。

この他に、現金収入には炭焼きをする者もあった。上然別の松田市太郎は

「大正8年は9月から大雨が降りつづいた。翌9年春には晴天が続いたと思ったら間もなく、燕麦、麦の収穫期になって大雨 にやら れ、肥料代や小作料が全部借金になった。そこで、山田牧場の残木を買って炭焼きすることになった。高倉定助さんからも買い受け、12月から始めたが、これ でどうにか生活を支えることができた」

と語っている。

現在では家庭用燃料は、灯油、電気、ガスが使用されるようになったが、戦前は薪炭など木質系燃料が主であった。本道で木炭製造が始められた のは、明 治の中ごろからで、農山村民の農閑期の副業が多く専業者の倍くらいはあったといわれ、大正末期から昭和初期にかけては道東が主産地といわれた。

木炭の種類は、黒炭と白炭の2種類で、本道では主に黒炭であった。

木炭を焼くのに炭窯が造られた。簡単に木炭の製造に触れると窯内に原木(長さ3尺太さ3寸位)を立てこむ(木立て)これを乾燥させ(口炊 き)をし て、木炭にするための処置として(炭化)させる。さらに木炭の硬度を高めるのに一定量の空気を送り(精練)してから、空気を遮断して(消火)するというも のであった開拓当初は本町でも、各自の持ち山に炭窯を設けて、炭焼きをする者が多かった。

また、原木運搬を経験した増田作平は

「冬は原木運搬に出たが西26線31号の沢から、ドロの木の丸太運搬で苦労した。人のあとになると、馬橇が転覆したとき など手 伝ってもらえないから、なるべく早く出るように頑張った。夜明けと同時に出掛けるが、馬も人も吐く息で顔は真っ白になる。新得まで行ってくると、短い冬の 日は夜も遅くなる。馬は疲れているが、それでも帰りの足は軽かった」

と当時の思い出を語っている。

病苦と負債

開拓時代の苦労も、体力があれば乗り越えたが、現在のように、国民健康保険や農産物の保険もない時代に、凶作と病気は最も大きな災厄であっ た。病人 や妊婦の難産のときは、本人の苦痛はもちろん、家族にとっても辛い思いと大変な出費になって、家計に大きくのしかかった。

東瓜幕に入植した乗久直吉は

「父彦三は、明治28年広尾に入植したが潮風が強くて収穫がない。16年間も凶作に泣かされた。それでも宮川農場で10 年を経て 鹿追に来たが、昭和7・8年の連続凶作にあい、この年東瓜幕から3戸が夜逃げ同様にして離農して炭坑へ行った。このとき兄は不慮の死を遂げた。それより前 に父を亡くし、打ちつづく凶作と家族を失い、悲運というか泣くにも泣けない状態であった」

と語っている。

下幌内に入植した竹原西右は

「大正9年には畑地40町歩を耕作したが、運悪くこの年は未曽有の大凶作となってしまった。そのため2千円もの肥料を使 いなが ら、売り上げは僅かに350円、止むなく拓殖銀行から土地40町歩を抵当に3千円を借りて負債を整理したが、翌年の経営資金がないので、当時の慣例で年末 返済の約束で必要物資を借用して文字通り新規まきなおしとなり、昼夜の別なく働いたが、それは必死でした」

と町五十年史に述べている。

大正15年4月、十勝開墾会社の農場から中鹿追の小川農場に入植した吉田勘三郎は

「昭和5年頃から小川農場は水田に変わっていったが、造田補助など1銭もない。鍬下年限4年が命の綱、開田2年位は反収 2俵から 2俵半くらい取れたが、そのあと4年間は3分作くらい、しかもその内の1年は収穫皆無だった。その時の水田農家の生活は実に悲惨を極めた。特に今でも忘れ られないことは、お正月になっても餅ひとつつく事が出来なかった。麦でもいいから餅をついてくれ。と子供たちにせがまれたときは本当に辛かった。水田凶作 の大きな要因は、気候もさることながら、土地に保水力がなかったのが致命的なものであった。そのため畑に切り替える者が続出、遂に水田は姿を消した」

と語っている。

上然別に入植した松田市太郎・俊二兄弟は

「大正8年、母親が病床につき翌年の9月にこの世を去った。その時私は16才で、2才違いで弟が5人いた。母親の治療費 と生活 費、父親1人の働きではどうにもならず、農業経営では大変な苦労をした」

また弟俊二は

「この時兄市太郎が病気の母を帯広の病院まで送るのに、隣近所のお手伝いを受けて、母親を戸板に乗せて行くために、ぶど う蔓を 切ってきて、これを戸板にとりつけ病人用の担架を作ったことを記憶している。母の看病に12才の私が付き添いに当たらせられたが、重病のため身体も動かせ ない母親の看病人に私では間に合わないと院長にいわれ、父と交替したが、畑仕事は父親1人であったから、それは大変なものであった。それだけに病人に充分 に手の届かなかったのは、今でも残念に思っている。この時肥料代と小作料が払えず1,600円の負債を背負い込み、年額380円の利息を払うだけでも容易 でなかった」

という。

笹川の鎌田庄七は

「大正9年の流行性感冒には一家5人が寝込んでしまった。看病してくれる者もいなくなったので、私は風邪を我慢して、熊 牛の叔父 の家に看病を頼みに行くことになったが、風邪をひいている上、草深い山道を片道約20キロも往復するのは容易でなかった。幸い途中で高橋伝吉さんに出会 い、事情を話して、叔父の家まで行ってもらったときは本当にうれしかった」

と語っている。

開拓時代に凶作に見舞われたとしても、家族が健康であればこれも乗り越えることが出来たが、病人の出たときの苦労は、1番辛かったといわれ る。第1 に病院が遠かったことと、看病に手がとられ農作業に大きく影響したこと。医療費の支出で家計を圧迫したことがあげられる。

従って仕方なく家庭で「置き薬」で間に合わすことが多かった。

置き薬とは、開拓当初から、富山県から各家庭を訪問して、常備薬として風邪薬、痛み止め、あるいは傷薬、霜やけ、赤切れなどの配置薬で、毎 年巡回し て使用した分を支払えばよいので、どこの家庭でも重宝にしていたが、これで治ればよいが、運悪く悪化したときは、馬車か馬橇で出掛けるか、それが無理なと きは、隣近所の人たちが集まって、戸板を担架代わりにして交替で担いで行くことになった。病人の呻き声を聞きながら付いていく家族の心情と、担架を担いで 行く人達の苦労は大変なものであった。

また、往診を依頼しても、徒歩か乗馬で医師が到着したときは、既に病人の息は切れていたこともあったといわれる。

今では国民皆保険となり、病気も早期発見と健康管理の徹底した時代からは想像も及ばない医療貧困の時代を過ごしたのが、先駆者の歩んだ道で ある。

言葉の違い

最近では新聞・ラジオ・テレビなどで標準語が普及し、北海道特有のものは、北海道方言と言われるようになったが、そのほとんどは、各移住者 の出身地 から持ち込まれたもので、入植当時は言葉で出身地が分かるほどの違いがあり、そのため意志の疎通、用談にも不自由があった。同県人の団体入植はよかった が、天理教団体のように全国各地から組織された者が同じ宿舎で生活すると、意外なことからトラブルが起きることもあった。東北と関西では発音も、表現も 違っていた。特に語尾の「す」と「し」の発音の違いや(イ)と(エ)また(ヒ)と(シ)など、お互い区別するのに苦労したと言われる。

うす(臼)が、うし(牛)に聞こえたり、いし(石)が、いす(椅子)になったり、塩をいれるが酢を入れると聞こえては、料理の味付けも容易 ではな い。すしが、すすになったりもする。

「芋が煮えたらす(しお)を入れる」といわれても、知らない者には判断がむつかしかったのである。

東北人には「コワイ」といえば、疲れたことで通じるが、関西では、恐ろしいことを意味している。投げる、放る、捨てる、は現在でも混用され ているよ うにその名残がある。また北海道特有なものに、語尾のべ、ナ、レがあり「そうだべ」の下にさらに「ナ」もある。いわゆる「そうだベナ・そうだベサ」とな る。

命令語には「見レ・しレ・起きレ・あれをヤレ」等であるが、ヤレの意味には「仕事をもっとやれ・子供にお菓子をやれ」と2通りがある。

こうして開拓時代には不自由を感じた言葉も、現在は共通化して、ほとんど使用されなくなったが、一部を記すと次の言葉がある。


●日常用語など
ハンカクサイ =薄ばかの代名詞。椰楡。「ハンクサイこと言うな・あれハンカクサイ奴だ」などと用いる
シバレル =気温が低い。水や物が凍る「今朝はシバレタ」
オッカナイ =恐ろしいこと。「夜道はオッカナイ・犬がオッカナイ」
カラッポヤミ =怠け者。あまり仕事をしない者をいう
ゴッペカエス =失敗した。台無しにしてしまう
ミッタクナイ =美人でない。行儀が悪いこと「ミッタクナイことするな」
メンコイ =可愛い。小さい物。「メンコイ子だ」
ヘコタレル =疲れた。参った。(力をいれたら屁がでるの意)
ハッチャキ =夢中になる。おおいに頑張る
ユルクナイ =大変だ。楽でない。「今日の仕事はユルクナカッタ」
ガオル =大変疲れた。「馬がずいぶんガオッテル」など
バクル =交換する。取りかえっこする。「これとバクルか」
チョス =触る。大切な物にいたずらした時「それチョスなよ」
カテル・カゼル・カセル =仲間にする。一緒に遊ぶ
オガル =大きくなる。成長した。「ずいぶんオガッタな」など
アズマシイ =気持ちが良い。気分がゆったりする状態。
ゲレッパ・ゲッパ =徒競走の最下位のとき。成績が一番悪い。
イタマシイ =惜しいこと。もったいない。イタマシイからとっておく
イズイ =目にゴミがはいってイズイ。着物が合わなくてイズイ
ダハンコク =子供が駄々をこねる。「この子はダハンコキで困る」
ワヤダ =メヤクチャにする。どうしようもない
マカナウ =家事のやりくり。身なりを整える。「寒いからよくマカナッテ行け」
マカタシナイ =採算が合わない。あまりトクにならない
●食べ物・味など
イゴイ =いが辛い、青みがかった馬鈴薯の特異な味
カイベツ =野菜の名でキャベツのこと
ゴンボ =野菜の名で牛蒡(ゴボー)。または駄々っこを「ゴンボ掘る」ともいう
オツユ・オツケ =味噌汁、おみおつけ
アメル =古くなったご飯、酸っぱくなって糸を引くようになった食べもの
サンペ汁 =魚や野菜をたくさん入れた味噌汁。サンペ皿もあった
ゴショイモ =馬鈴薯、開拓時代の主食になった芋
●器具・合図など
ガンタ =材木土場で丸太を動かす用具。角まわしなど
バイキ =馬への合図。馬や馬車をうしろへさげる時に使う
オーヨオーヨ =馬への合図。止める、静かにさせる時
●行事・習慣など
ススハライ =すす掃き、大掃除ともいう。年末に棚や天井神棚などの掃除をすること
モチツキ =お正月用に大量に搗く餅。「苦日餅は避ける」といって29日にはつかない。
なかには「苦をつぶす」といって29日にする家もある。
 各家庭で2斗から4斗くらい夜明け前について外で凍らせて保存していた。
オソナエ =神棚・仏壇・床の間に飾るのが「オカガミ」その他井戸、馬小屋、倉庫、便所などのは
「オソナエ」で大小2段重ねにつくり、みかん・ するめなどを添える。
トシトリ =トオツゴモリ・オオトシ・オオミソカとも言われ、昆布巻き・数の子・うま煮・黒豆など、
トシトリ膳が用意され、家族全員が仏前・神 前で1年間の無病息災に感謝した。
トシトリそばを用意する家庭が多かった。