清水町史 その他の産業

林業

入植当初は喬木の、うっそうとした森林がいたるところに群生しており、1度も斧の入れたことのない原始林が多かった。

こうした自然の森林資源も、開拓者には開墾に非常な障害であるため、大木を伐り、焼き払いながら、農耕地の造成に懸命であった。

このほか、道路の開さくも大樹を伐り倒し、焼却して建設し開発が進められた。そして明治38年(1905)ごろ、建設列車が通るようになり枕木の需要が盛んになって、農家の副業収入源になった。

開拓のため伐採された木材は木炭、製渋用木(かしわの皮を煮つめた液を漁網などの防水に使用)、マッチ軸木の材料になり、一方、市街地の建設が進むにつれ建築用材、下駄材など大小工業加工に向けられ、需要が開かれていった。特に鉄道開通後開拓が一層活発になると、木材の利用価値はあがり生産額も大きく増加し、林産業もようやく本格的な発展をみることができた。しかし森林は屈足地域に多く分布されており、大正4年(1915)屈足村を分村することにより森林資源は減少した。

こうして開拓が進むにつれ、自然林の伐採が過伐となり、十勝特有の風による農作物の被害が続出した。播種した馬鈴薯が風によって飛ばされ、収穫皆無になることも珍しいことではなかった。こうしたことから風害による農作物の保護が必要となり、昭和10年以降耕地防風林の施業が奨励され、農事組合単位によるものと個人による植樹が実施されていった。

防風林造成事業は農地の保護のほかに、開拓の進展による林地の減少を防ぎ、また薪炭供給の造成も加味された計画であった。

昭和10年(1935)には、第1回の防風林造成事業が実施された施業地域ほ風害の多い地域の20箇所に延べ18万3485間(333,575m)に、落葉松、ポプラ、ヤチダモ、ヤマハンノキ、白樺の苗木など5万55本を、副員4mごとに3列千鳥植とし、昭和11年度は16箇所6055間(11,007m)に1万6918本を植樹し、以後計画的に実施されていった。

これらの営林行政は、鉄道の開通に伴い、明治40年北海道官制が1部改正され、林区制に基づき釧路営林区河西分署人舞村保護員駐在所を設置、昭和16年清水営林区署が新設され、同22年林政機構の改革により清水営林署と改称帯広営林局管轄となった。

昭和10年法律第15号をもって森林法の改正、同15年9月にはさらに勅令によって森林組合法が公布された。これに基づき本町においても昭和17年9月17日設立認可を受け、南3条2丁目1番地に追補責任清水町森林組合が設立され、同19年5月民有林の造成推進を目的に、町有地を借り受け直営の苗圃を経営、同26年(1951)8月1日森林法改正により清水町森林組合と改称し、さらに同31年9月30日清水町と御影村の合併により本町に清水、御影森林組合が存在することになったが、同43年(1968)4月1日森林組合合併措置法に基づき2組合が合併し、清水町森林組合を設立、事務所を御影東1条4丁目に開所した。

しかし、戦後開拓政策の実施によって林地の開拓入植、既存農家の農地拡張による伐採、また町有林にあっては町財政を充足するための売払などによって、町内の森林資源は減少の一路をたどった。さらに残存の資源も経済復興に必要な用材等に供給するため過伐、濫伐され、文字通り荒廃林となった。

そのため国では、打開策として森林施業計画をたて、森林造成が推進され造林が計画的に実施されて来たが「野ねずみ」の猛威により大きな被害を受け、この実施に熱意を矢なう結果となった。

しかし、国の民有林施業計画により国土の緑化を目標に、森林組合が事業主体となって計画的に進められており、今後の森林造成に大きな期待がよせられている。

町有林

清水町有林分布図

町有林の概要

昭和4年(1929)清水、新得両村にまたがる字清水475番地原野287町7反7畝20歩(約285ha)及び新得町字新得60番地234町9反7畝15歩(約233ha)合計529町8反5畝5歩(約525ha)の国有未開地を1万6160円16銭で売払を受け、薪炭備林地としたが、昭和8年に共同放牧地拡張のため、この備林地のうち329町8反6畝5歩(約327ha)を分割し、共同放牧地に変更し、199町1反6畝3歩(約197ha)を道の指導により、清水村有林施業計画を樹立して施業に当った。

また、昭和28年(1953)、29年の2ヵ年にわたり国有林野整備臨時措置法に基づき、次の国有林を取得したことによって、町有基本財産が倍増され、本格的な植伐事業が施業された。

これらのうち薪炭備林は町民に対する薪炭の供給源としてまた、採草地と原野は、牛・馬の放牧地として畜産の振興に役立って来た。

こうした国有林野整備臨時措置法によって取得された林地のうち、伐期にあるものは公共施設の建設などにあてられ、苦しい財政事情のなかにあって少なからず貢献して来た。

造成計画

昭和32年(1957)からは、町基本財産造成のため、毎年20haの植林を計画実施して来たが、さらに昭和46年度(1971)より5カ年計画をもって施業計画をたて完成をみたため、昭和51年度からは5カ年計画により清水町有林森林計画が樹立された。

耕地防風林

防風林造成事業は、大正10年(1921)以降開発の伸張による林地の減少を防止、農地・農作物を保護し、成林後は建築用材・薪炭の自給、売却による農業収入の増加を目的として奨励されていった。

昭和25年(1950)防風林土砂流出防備林などの制限林に指定されて、制限林が481ha余となったが、大部分は防風保安林で、その他は段丘地帯の崩壊を防止する土砂流出防備保安林である。

土砂流出防備保安林は、段丘地の崩壊により山地荒廃地及び谷頭の崩れ、下流の土砂流出を防止するため、昭和25年より道が治山事業を施行し山地崩壊の復旧と防止にあたっているものである。

近年農業基盤整備により、経営面積の拡大、さらに農作業の効率化推進のための機械化の普及、また飼料作物などの作付面積の増加による風害の減少もあって、新設防風林は少なくなり、更新も減少の傾向にある。

羽帯地帯の耕地防風林

羽帯地帯の耕地防風林

昭和48年(1973)、本町耕地防風林の施業状況視察のため、中華人民共和国から、日本の林業経営状況調査団として、同政府の技術員が派遣された。その調査団の調査対象として、道内でも耕地防風林が整備された地域として「清水町」が指定され、同年10月3日、11名で構成された調査団と、道及び十勝支庁の関係担当者が案内して来町し、町内中羽帯地区で整然と配備されたカラマツの大木防風林を見て感嘆し、また同地内の門木一夫よりこの地帯の気象条件、営農状況幹線防風林と耕地防風林の造成について説明を受けたのち話し合ったが、「1戸当りの経営面積は、作業力は自家労働なのか、家畜の飼育頭数は、耕地防風林の必要性は、耕地防風林造成に伴う国などの助成措置は」などと防風林配備の問題点がおもなテーマとなった。しかし、総合的な農業経営と近代的大型機械による集約農業のあり方については深い感銘を覚えたようであった。

民有林

本町の民有林は895戸の林業経営者によって所有されているが、このうち町内の所有者は820戸で、町外所有者75戸である。林地の保有面積は5〜10haが145戸で最も多く、ほとんどが20ha未満の所有であって、林業は小規模な経営である。民有林は国有林と比較すると交通が便利でそのほか諸条件に恵まれ、土地も肥沃なため林業経営面からも有利で、耕地防風林として部分的に施業されて来た。

特に戦後は木材の需要が高まり、民有林の造成も森林組合の指導により年ごとに増加して来たが、まだまだ人工林率は低いのが現状で、荒廃した民有林を林業基本法の趣旨により、林業総生産の増大と生産性の向上を目的に昭和46年(1971)から48年にわたり林業構造改善事業をとり入れ、経営基盤の充実、生産基盤の整備、資本の効率運営、協業運営を積極的に推進され、次第にその成果を挙げつつある。

ことに木材の不況の中にあっても造林面積は伸び、昭和51年度にあっては130ha余の造林実績である。

これらの森林所有者は大半が森林組合員であって、森林の造成・伐採等は組合の計画と併せて実施されているが、施業に対する補助は事業費の40%で苗木費がまかなえる程度である。

森林組合

旧清水町森林組合

昭和15年(1940)9月、勅令第561号公布に伴ない、改正森林法による組合設立のため長谷義孝外10名が発起人となり、同17年9月17日設立認可を受け、第1回総会を10月14日開催、名称を追補責任清水町森林組合と称し、事務所を清水町役場内に置き、事業を開始した。

事業としては、森林所有者の協同組織による経営指導、委託事業を通じ、民有林業の経済的発展と戦時下における資源確保、供給を主体として推進して来た。昭和19年5月町有地(東清水)4町2反歩を借受け、直営苗圃を設け、カラマツ常の生産に主力をおき、耕地防風林などの造成に供給した。昭和22年(1947)出資金1口10円を20円に増額、さらに同23年出資基準1口面積2町歩を1町歩に変更、また同24年には出資金を1口30円に、1口面積を5反歩にそれぞれ変更した。

昭和19年以降は、樹苗養成事業(床替播種)、素材、薪、坑木の生産並びに買取委託販売事業を業務とし、同22年より委託造林事業、同24年よりは木炭生産買取り販売事業などを経営してきたが、坑木などの委託販売で一部業者への貸倒れによる損害、分支林事業における負債を生じ組合員よりの信用が失われ、これの対策に役員は苦慮した。その後町村合併によって、清水・御影両組合の合併について検討されて来たが未解決のまま合併の協議に入ったが、両組合とも大乗的な立場から相互理解により、この負債を新組合に引き継ぐことに合意ができ、昭和43年3月31日御影森林組合と合併のため解散することに決議された。

清水・御影組合の合併

清水町森林組合

清水町森林組合

昭和31年(1956)9月30日町村合併が実施されたが、森林組合はそれぞれ存続して経営されてきた。両組合ともそれぞれ特殊の問題を抱えていたこともあって合併は進まなかった。ことに合併を推進するうえで負債などの処理について幾多の論争があって順調に進まなかったが、十勝支庁、清水町の適切な行政指導もあって、昭和42年12月12日合併設立委員会を設け、御影森林風合長藤本国夫を委員長に推し、討議の結果合併を決議し、清水森林組合長生本半三郎、御影森林組合長藤本国夫において合併予備契約書を取交し、同42年12月25日御影森林組合が、同年12月26日清水森林組合が、それぞれ総会を開き、合併が議決された。

事業

昭和43年(1968)合併以降、約3ヵ年で組合の基礎も整い、事業も漸く進展の方向に向かったが、林業諸機械設備がなく素材生産と造林事業については特に改善を必要とされ、総会の承認を得て、同46年2月3日第1次林業構造改善事業の指定を知事に申請、6月24日北海道森林第369号指令により認可された。

事業計画は、昭和47年より向う3ヵ年間に総事業費8,000万円をもって組合の近代化を図り、民有林の経済的発展を達成しようとするもので、第1年度は素材生産の大型機械と、これらの保管倉庫及び造材用チェンソー、刈払機などで2,597万円を投入して機械を導入した。事業費は約70%が国と道の補助金によるもので、残り30%約240万円は自己資金で充当する計画であり、この負担については、昭和46年6月3日の総会において出資増口によるほか、林道については受益者負担にて処理することになった。

一方、昭和19年以来東清水において町有地を借受けカラマツ、山行苗を年産40万本生産していたが、地力減退のため良質苗の生産に適さなくなり、昭和47年6月御影桜ケ丘(字御影南1線49番地)に95,419m2の土地を借り受け、一部を林業構造改善事業による林業機械保管倉庫を建設し、残りを苗圃としてカラマツ養苗年産50万本育苗のほか、町民よりの委託販売用地に使用されている。

林道工事修抜式

林道工事修抜式


伐採作業

伐採作業

清水営林署

清水営林署

清水営林署

明治40年(1907)北海道庁官制の一部が改正され林区制に基づき釧路営林区署河西分署と称し、昭和3年官制の改正により帯広営林区署と改称され十勝国一円を統括して来たが、昭和16年十勝、上川、然別川西第1の3経営区を分割し清水営林区署の新設となった。昭和22年(1947)林政機構の改革に伴ない農林省所管に移され、清水営林署と改称帯広営林局の管轄となった。昭和29年新得営林署の新設により、佐幌の一部と十勝団地に分割し今日に至っている。

この清水営林署の事業の概要は次の通りである。

収穫 清水営林署における平均伐採量は昭和50年以前は58,000m3で昭和50年以降は52,000m3で漸減の傾向にあって処分の割合は立木処分75%、製品(素材)25%となっている。

造林 直営及び請負によって造林を実施しており、主な樹種はトドマツ、アカエゾマツで事業実施にあたっては、未立木地の解消と低生産林分の早期改良につとめている。昭和50年度の造林面積は160haで、造林保有面積は2,793haに及んでいる。

種苗 清水営林署管内には3カ所の種苗事業所があり、新得種苗所は昭和4年、鹿追種苗所は昭和18年、御影種苗所は昭和25年育苗事業を経営し、主としてトドマツ、アカエゾマツの育苗で昭和50年度の種苗面積22haで、床替133万本、処分72万本に達し、大型種苗の育成と生産原価の低減を目標としている。

販売 昭和50年度の立木販売は53,000m32億4000万円、製品販売(然別製品事業所)11,000m31億6300万円、一般材が主でその他パルプ、チップ材にも販売されている。

機構 4課・8担当区事務所、2造林事業所、1製品事業所、3種苗事業所で職員数83名である。

清水営林署御影苗圃

清水営林署御影苗圃

林業改良指導事務所

昭和26年森林法の改正に伴ない、北海道林業経営指導要領が定められ、民有林(町有林も含まれる)の植伐・保有普及事業の指導を目的として、同28年4月1日より指導員制度が設けられ、十勝支庁林務課内に配置発足した。そして昭和29年4月1日新得森林区が設定され、初代指導事務所所長として真鍋真三郎が着任した。その林業指導行政を一層強力に推進するため新得地区森林経営振興会を新得、鹿追、清水の3町で設立、指導事務所の所在地である新得町に事務所を置いた。

昭和33年10月1日森林区が清水、芽室の2町に変更され、近江五男が発令され本町に駐在した。区域の2町では清水林業指導事務所運営協議会を置き、指導の運営に協力、事務所を町内南2条3丁目(元警察官駐在所跡)に設けた。昭和35年4月1日林業改良普及指導要領が定められ、林業経営指導員が林業改良指導員と改称された。

昭和44年4月1日、森林区が再び新得森林区に変更され新得、鹿追、清水の3町の広域管轄となり、林業指導事務所も指導員が3名に増員され、運営協議会事務所を新得町役場内に置き、今日に至っている。

十勝支庁清水林産物検査員駐在所

昭和9年(1934)4月1日、木材道営検査実施について農林大臣より認可されて北海道林産物検査所規程が公布され、同11年4月1日北海道林産物検査所帯広支所清水林産物検査員駐在所の新設をみて、製材・吋材の検査業務を開始することになった。しかし昭和20年(1945)6月1日戦時応急措置として支所が廃止され、十勝支庁清水林産物検査員駐在所となる。

その後昭和45年(1970)3月31日北海道林産物検査条例が廃止され、道営検査業務も廃止となって、十勝支庁清水林産物検査事務所は閉鎖された。道営検査の廃止に伴ない、民間機関として社団法人北海道林産物検査会が設立され、本町は帯広林産物検査会の区域となっている。

商工業

清水の商業

開拓当時の商業

明治32年(1899)官設駅適所が開設された当時、ペケレべツ国道筋には玉川市書、村山ナヲなどが掘立小屋に等しい、形ばかりの店舗を張り、商業を営んだのが当地方における商業の初めで、戸長役場開庁の明治36年頃には、生木ハナ、鈴木信次、清野平次郎、桑島トキ、白田栄次郎、岩渕長大らが相次いで居を構えるようになり、小さな宿場の形ができた。

鉄道開通前の状況(旧国道沿い)

鉄道開通前の状況(旧国道沿い)

商売の相手は、讃岐部落そのほか移住者、旅人を相手として米、麦、雑貨、石油、衣服、売薬に至るまでの生活必需品を取りそろえ、役場、駅逓、郵便扱所を中心に集っての商いで、これはまさに新開地の風景でもあった。明治36年(1903)11月決議された総代人の商業第1課税表には、村山ナヲ、玉川市害、生本ハナ、桑島トキ、岩渕長大、折目倉太郎、木下トク、村上助松、中尾喜作、山内仁平、蟹江常吉など、その頃の商業者草分けとしての顔触れであった。入植初期は自給農業ではあったが、農産物の移出、生活物資の移入もあって、一つの集団から街らしい様相に変化していった。農産物の移出は帯広経由釧路または大津から舟によるものと、さらに狩勝峠を越し落合に出て旭川、小樽、室蘭に移出された。農産物のうち大豆は旭川町下村、井内両しょう油店をおもな取引先とし、農家売値1俵(16貫・60kg)2円80銭から3円20銭で、清水、落合間の駄賃一駄(馬の背に乗せ運搬する)2俵1円程度で、工藤礼造が運搬を請負ったと、伝えられている。

鉄道開通時の清水市街

鉄道開通時の清水市街

当時住民の生活必濡品は、地元生産品以外は移入によるもので、落合経由は旭川を仕入先としたが、同38年(1905)釧路線が帯広に開通してからは鉄道による釧路からの移入が盛んとなった。同40年帯広、旭川間の鉄道開通により札幌、小樽方面の商業圏に入って価額も安くなり、取り引きも活発となって、釧路方向からの移入は運賃が高く閑散になっていった。

明治39年(1906)には鉄道工事によって人の往来が活発になり、必需品の消費も増加し、商家も29戸に増えたが、同40年の鉄道開通後駅所在地に市街が区画割りされてからは、将来の発展に大きな期待をかけて商家は早々に移転し、鈴木信次、生本昇、清野平次郎、田村銀蔵、伊藤文助、岩渕長太の6戸は後年の地盤を築いていった。

大正元年、本通り2丁目、中田商店

大正元年、本通り2丁目、中田商店

発展時代の商業

大正4年(1915)屈足村との分割時の商家戸数は100戸であったが、同9年の日本甜菜製糖清水工場の建設操業時には当然ながら人口の増加を招き、これに関連して商況は活発となり、同14年(1925)には商家戸数165戸と増加し商店街の形が出来てきた。しかしこの新興状態は経済の安定につながらないようであった。すなわち、第1次世界大戦後の不況、冷害凶作などの原因もあって商家の掛売金の回収が悪く、金融機関の資金も渋滞固定化する傾向にあったため、業界としても非常に困難な時代であった。

経済逼迫の危機に対処する対策として、農家を対象とした産業組合の設立があって、活発な活動を開始し、市街地商家の経済的に受ける影響も大きかった。この産業組合の事業目的である薄利多売の影響によって、商業者内に物資の共同購入が計画されたが、道庁は各町村に商工会設立を奨励し、その事業内容が地元業者の対策に合うところが多いため、次第に商工会設立に傾き共同購入など取り引き改善を目標としたが、当時の経済の疲弊と金融界の援助が十分得られず、この共同購入計画は実現を見なかった。

しかし、大正15年(1926)4月北海道庁の指導もあって商工会が設立され、中小商工業者の協調機関としての任務をもったが、昭和に入って戦争の長期化により、物資のほとんどが統制された社会情勢下で商工会は企業防衛につとめたが、時代の流れに対処すべくもなく商工会は解散し、新たに商業協同組合が発足し、終戦を迎えた。

戦後の動向は統制経済の混乱などもあって、商工業者による住民への生活必需品の供給体制は余りにも弱く、消費者は配給だけでは生活の維持が出来ず、物々交換による方法、やみ価格による入手など非合法的な取り引きが浸透し、かろうじて生活を維持する家庭が多かった。

大正初期の本通り(手前生本商店)

大正初期の本通り(手前生本商店)


 昭和初期の市街、駅前本通り

昭和初期の市街、駅前本通り


昭和初期の市街、現在の銀座通り

昭和初期の市街、現在の銀座通り

戦後の商業

清水町本通り 御影市街本通り

清水町本通り、御影市街本通り

終戦によって海外から本町への引き揚げた者の数は611名(御影地区を含む)にも及び、生活に手だてのない家庭が多くあった中で、塙(高に尻の字)らが中心となって南1条2丁目から3丁目(元清水座横)に8軒のバラック建てマーケットを昭和22年(1947)から店開きをした。

おもに食料品、青果、衣類を取り扱っていたが、漸次生活物資の流通が正常になり、市街地の環境、交通上の問題もあって、昭和26年には全店閉鎖し、それぞれ転業転出した。

こうして国の経済が次第に回復し、統制物資は解除され、自由経済への移行によって流通は順調となり、商業活動も活発となって消費者サービス、営業システムの近代化へと、対策が着実に進められ実行されていった。

また、同35年(1960)頃には、セルフサービス方式によるスーパーマーケットが全国的に波及し、本町でも同37年西出富雄がこの方式をとり、相次いで農協を含め数店が開店し、薄利多売をモットーに消費者の支持を得たのも時代の特徴であろう。

一方、昭和24年(1949)本町は都市計画区域の指定を受け、「清水町の街の形はどうあるべきか」を基本に補助事業、町単独事業の増加によって、街路は逐次整備され、街路燈の増設、環境整備が推進され、さらに店舗住宅の新改築は年を追って増加し、近代農村市街地としての姿を呈してきた。

商業機関

商工会

明治40年(1907)9月鉄道の開通により人口は急激に増し、大正9年(1920)4月、日本甜菜製糖清水工場が創業されると人口はさらに増加し、市街地戸数160余戸になり街の形態が出来てきたが、商工業者の間には横の連絡はなく、わずか2、3の同業者による素人無尽的なものだけであった。

大正15年(1926)4月北海道庁により市に商工会議所、町村に商工会を設けることが指導された。中小商工業者と販売小売業者の連携機関として当地方でも同年4月1日設立され清水商工会と称された。事務所を本通4丁目2番地に置き、初代会頭に生本半三郎が就任した。そして商工会は管外との相互均衡を保持するために不安定な経済状況に対処して絶えず研修と研究を重ね、商工業者の発展に力を注いでいった。創立当時の収支決算は119円50銭の黒字でわずかではあったが、事業面では相当な効果をあげていった。

その後、日華事変の長期化により物資の流通は統制経済に移行され、生活用品は配給制度となっていった。昭和13年(1938)3月21日国家総動員法公布、同14年9月18日価格停止令施行、さらに太平洋戦争のばつ発により、物資の動員計画の公布によって統制はいよいよきびしくなり、生産の低下、品質粗悪、経済警察の活動などによって極端な耐乏生活の世相となった。こんな中にあって商工会は企業防衛につとめてきたが、戦争のか烈により企業整備、小売業者の整理統合、さらに転廃業が出るに至っては商工会の業務を遂行することが困難となり、同年解散し、新たに清水商業組合を設立した。

商工会設立総会(大正15年4月)

商工会設立総会(大正15年4月)

終戦後も、見込課税による過重な負担に耐え兼ねた商工業者は、この調整と正常化を自主的に解決するための組織結成の気運が高まり、生木半三郎、清野清、南金作、芦沢惣吉、岡本貞夫、熊谷正平、木村美佐男、児玉一覚、五十嵐安三、大山口太、増田徳太郎、山本健一、宮井泰雄を発起人並びに設立準備委員として、昭和22年(1947)7月10日清水小学校体育館を会場として設立大会を開催し、商工会復活が満場一致をもって決議され、再生商工会が出発した。

当時、町村税として町村議会において課税率を定めていた事業税の軽減を大会決議として採択し、町長松平信介に陳情を行った。当時としては悲壮なものであったがさらに、所得税の課税不均衡を叫ぶ一部業者は帯広税務署に押しかけ、座り込み戦術の一幕などがあって、税に対する苦労はかなりなものがあった。一方会員の中からは、対税問題だけが商工会本来の業務ではないとの意見も出始め、会頭清野清は退任し、戦前会長の職にあった生木半三郎が会頭に就任した。

その後、税対策のほか商工会本来の事業である経営相談、法律相談、金融労務対策、各種講習会、信用事業が次第に取り入れられ、商工会活動はようやく軌道に乗っていった。そして昭和27年度から熊谷正平が会頭となり、さらに同30年大江惣二郎が就任し、事業範囲も広め、街燈の設置、公会堂の整備、公園建設の協力、日勝道路早期開さくへの協力、また十勝管内にさきがけて毎月第2日曜日を一斉休日とした。

清水町商工会館

清水町商工会館

町村合併促進法により同31年9月御影村と合併したが、同35年「商工会の組織等に関する法律」の公布に伴ない、1町村1商工会の趣旨に添ってそれぞれの商工会は発展的に解散し、法人格をもった新商工会が設立され、同年12月20日登記完了、初代会長(この法律により従来の会頭制が会長制となる)に大江惣二郎が就任した。昭和36年より経営指導員として清光稔が着任常駐し、商工会の運営・指導に当たり会員の信頼を得たが、その後、帯広商工会議所に転出し、後任に山本浄が同44年4月着任常駐した。

昭和34年(1959)南1条3丁目に、町費により工費70万円をもって建面積231m2の商工会館を建設したが、その後、これを勤労者会館に転用し、同45年(1970)町費1,000万円、道費1,000万円、計2,000万円の工費で近代的な会館(1階239.8m2、2階207.2m2、計447m2)が建設され、6月26日盛大に落成式が行われた。

同47年7月には、事務局長として海津武二が就任し、経営指導員は2名となり、さらに経営指導補助員1名、記帳指導専任職員2名が配置され、商工業者の窓口事務が一層充実した。

なお、同50年度の同商工会の総合的な事業計画は次の通りである。

さらに部門別として、金融、税務、経理、労務、技術指導を行い、一般事業では総合振興、商業振興、工業振興、観光振興事業のほか労務福利厚生、青年婦人部対策事業と広報事業を意欲的に推進する計画が持たれ、また行政の施策に対しても積極的に協力参加する計画が持たれている。町においても、当商工会の発展を助長するため助成金の継続を実施 しその額は次のように毎年増額されてきた。

商工会の協力組織

清水商工婦人部

清水商工婦人部は、「奉仕とふるさとづくり」をテーマに、婦人の社会的地位の向上、さらに、その特性をいかし地域商工業の振興発展に協力することを目的として、昭和44年(1969)4月会員209名をもって結成され、初代部長に有沢カツエが就任した。気楽に話し合え、勉強も出来る楽しい会として商工会行事に積極的に参加協力、研修(講習、講演会、研修旅行)をもち、連合会の婦人部大会への参加をし、さらに社会奉仕として御影学園に毎年多くの衣料品を寄贈している。

昭和51年現在、矢地とみ子が2代目部長で昭和46年から就任している。会員は107名で、月100円の会費と商工会より年20万円の助成をもって活動費に充てられている。

御影商工青年婦人部

御影商工青年婦人部は、商工婦人の親ぼくを図り商工婦人としての地位を高めることを目的として昭和44年4月発足した。加入条件は商工業者の妻であって、夫は青年会に加入し、夫が40歳になれは夫婦は自動的に脱会し、OB会に加入するとされている。

おもな行事としては、地域づくりの植樹作業、遊園地の清掃、研修、商工会行事への参加協力、町民スケート大会の協力などで、地域活動に積極的に参加している。

清水商工青年会

全道商工青年野球大会優勝、清水商工青年会

全道商工青年野球大会優勝、清水商工青年会

商工業者の次代を背負う青年が「1人の100歩より100人の一歩」の精神のもとに特性をいかし、創造性、連帯性をつちかい時代の進展に対応できる活力に満ちた郷土づくりを目指す目的をもって、清水商工青年会は経営指導員清光稔の指導のもとに昭和38年35名をもって結成された。

専業としては、商工会行事の協力、推進、研修、体力づくり、親ぼくなどで、特に野球は昭和48年に全道商工青年野球大会で優勝の偉業をなし遂げている。会への加入は自由であるが、40歳になると自動的に脱会することになっている。




御影商工青年会

現OB会々長河井修が発起人となって、御影商工業者の青年15名をもって昭和42年(1967)4月13日、御影商工青年会を設立した。

おもな事業としては、商工会行事の積極的参加と推進のほか、地域づくりに対しても協力的であり、公園の清掃、植樹、体育行事などには率先参加し、地域より信望を集めている。

会への加入は自由で、40歳で自動的に脱退する規約は清水青年会と同様である。

清水工業クラブ

聖徳太子堂

聖徳太子堂

昭和22年(1947)商工会が再建され、会員の一致協力により軌道に乗ってきた中で、手工業者17名をもって工業クラブを結成し、初代会長に笹川和之助が選ばれ、親ぼくがおもな目的ではあったが、その後共済制度も取り入れ、その団結力は堅く、会員70名余を数える時もあった。大正11年(1922)6月15日工匠佐々木由蔵によって建立された聖徳太子堂は、三井徳次郎のもとで祭典を行って来たが、昭和31年より工業クラブがお守りすることになり、毎年8月15日は技術職人の安全を祈願して盛大な祭典が催され、その費用も商工会によってまかなわれ商工会の行事の一つとなっている。

聖徳太子堂は当初清泉寺の納骨堂のところにあったが、納骨堂の建設により現在地に昭和46年(1971)8月移転した。たまたま昭和46年は聖徳太子没後1350年目に当たり、会員は改めて「清水町工業文化祭である太子祭に当って、今こそすべての日本人が、札束の上の肖像画を越えて、太子の精神と理想を求め始める絶好の機会である」ことを確認し合った。会長には山本健一が当たり、活躍している。

清水卸売市場抹式会社

大正の末ごろ市街地人口の増加とともに生活物資の消費は当然ながら増加したが、鮮魚など海産物については帯広、新得より仕入れていたので、時間と労力を費す状態にあったため、野口小平が少しでも安く新鮮な鮮魚介類を供給するための市場開設の必要を痛感し、大正15年(1926)3月南1条3丁目5番地に敷地81坪(267.3m2)平家建18坪(59.4m2)資本5,000円をもって同年8月1日より事業を開始した。開設当時は、野口小平個人の経営で仲買人8名、初年度(大正15年〜昭和2年12月)の総売上高は3万1000余円で利益金は2,700円が計上された。

昭和8年(1933)9月1日株式会社に改革し、資本金1万2000円で代表に生木半三郎、専務に野口小平が就任した。しかし昭和10年には仲買人18名を数えたが、取引額3万8000円、利益金160円に過ぎなかった。このことは市場の規模が小さく、帯広、新得市場に比べ入荷の状態が悪く、さらに不良貸し付けなどによるものであった。昭和18年1月1日鮮魚介類の統制により、市場の取り引きも一層減少し経営もむずかしくなってきたため新得市場に併合し、新得鮮魚介配給統制株式会社清水支店と改称、代表取締役社長今井啓治、専務取締役佐藤蔵吉が就任し事業を継承したが、戦後鮮魚介類の統制が全面的に解除になり、昭和25年5月社名を新得卸売市場株式会社清水支店に変更、自由経済による本来の「セリ市場」の姿に返った。しかし清水支店の営業成績は相変らず好転しないため、昭和27年3月31日清水支店の廃止となった。

そのため、町においても流通機構の充実強化を図るために町議会、商工業者と協力してこの解決に当たり、資本金200万円をもって昭和27年(1952)3月31目27漁第366号知事指令をもって清水卸売株式会社として発足、代表取締役社長に生木半三郎、専務取締役に佐藤蔵吉が就任したが、許可条件が3年で、その間の業績の発展が期待されたのであるが、経営方針の意に反し経営不振に陥り更新不可能となって昭和30年3月廃業した。

清水商業組合

昭和初期は世界的な経済の不況下にあり、特に十勝は数年間に3度の冷害凶作を受け、農村の購買力は激減し、商業者の経営不振を招いたのであるが、昭和7年(1932)9月「商業組合法」の公布があり、さらに商工会の解散、産業組合の急激な発展による対策に、商業者の団結と相互の利益確保を目標に商業組合設立の気運が高まり、生木半三郎ら17名が発起人となって昭和10年10月5日設立の申請を行った。昭和11年6月15日商工省指令第527号をもって設立が認可され、同14年8月11日登記完了し、清水商業組合が設立された。そのおもな事業は次の通りであった。

その発足時には、理事に生木半三郎、及川重次郎、海野末吉、松山金次郎、清野清、熊谷正平、鈴木信次、監事には藤田弥重八、五十嵐安三、野口小平が選ばれ、理事長に生木半三郎が就任した。創立当初、出資口数1,151口、払込額5,755円(1口20円払込5円)であった。同年9月25日野田勝太郎は理事に、監事に西出岩松が選ばれ、理事海野末吉が専務理事に就任し、専業の運営に当たった。昭和16年日華事変がいよいよか烈になり、さらに太平洋戦争への突入により北海道庁は商業組合の整備統合に当たり、地区別に改組して小売業者全部をその対象とした。同時に、新体制に即応する商業報国会を結成し、職域奉公の実践を達成するよう強制的に指導され、戦時一色の様相であった。

清水商業組合は、昭和17年12月18目第4回の臨時総会を招集、小売業者の整備、長期抗戦に対応するための新体制の強化を一層推進するため、機構を刷新して戦時経済確立に対処する配給機関の新発足が提案された。そして小売業整備委員会を設立し、委員17名を選び、増資額を1口20円を25円に決め、同年の組合員数91名、出資口数1170口、払込額1万1700円となった。

昭和18年には太平洋戦争はいよいよきびしさを増し、国内物資の統制は、ますます強化され、これとともに北海道経済会十勝支部の設置により、清水連絡所が開設された。そして昭和19年に生活必需品の統制が規定され、商業組合に代って清水統制組合が設立、5月には食糧品(主食)の統制取扱機構(主食の配給)として食糧営団が元商業組合事務所に出来た。こうして配給統制機構は終戦の翌21年(1946)から次第に自由経済に移り、昭和22年2月28日統制組合は解散した。

商業協同組合

商業協同組合

商業協同組合

経済統制下から逐次自由経済に移っていく中で、昭和21年(1946)12月1日商業協同組合法が公布され、自由な組織結成が可能となった。しかし自由経済になりつつあるとはいえ混乱は続いていたため、善後策として生木半三郎を設立準備委員長に選び、昭和22年2月21日設立総会を開き、商業協同組合を設立した。当時の理事には、生木半三郎、及川重次郎、熊谷正平、木村美佐男、竹中惨吾が、際事には五十嵐安三、清野清が選任され、理事長に生木半三郎が互選されたが、一方において、昭和22年商工会の設立があり事業において競合する面が多くあって、新商工会の下に事業が移管された。

運送・倉庫

明治40年(1907)、鉄道の開通により物資の移出入が盛んとなり、大正初期生本半三郎、吉岡源次郎らが運送業を始めたが、雑穀雑貨が野積みで品質の低下が著しく経済的損失が大きかったため、大正7年中田兼蔵らが中心となって人舞倉庫株式会社を設立した。

その後、大正10年(1921)人舞倉庫株式会社と帯広の曽根原浜造が三立運送社を設立したが、昭和2年(1927)株式会社清水運送社に改組し、生木半三郎が社長に就任、野口小平、高橋熊蔵、山貫彦作が協力した。

昭和4年(1929)より人舞倉庫株式会社の営業一切を借受け倉庫、運送の一体化を図った。昭和17年(1942)7月10日十勝通運株式会社に合併、清水営業所と改めた。昭和19年10月1日日本通運株式会社に合併、清水営業所となり、昭和29年(1954)10月運送業の複数制が認められ、同29年11月芽室通運株式会社が設立され同年11月御影に、同37年(1962)9月清水に営業所を設けた。昭和51年(1976)4月日本通運の企業合理化促進により、西十勝通運作業会社を設立、日本通運営業所はもっぱら窓口営業を、西十勝通運作業会社は作業関係全般を営業することになった。

工業

本町の工業

本町における工業(製造業)の推移は開拓の進捗とともにあって、明治37、8年(1904、1905)当時は開拓した家内的手工業で、蹄鉄(村上)、鍛治(諌山)、菓子(清野)などが工業らしいものとして記録されている。明治末期の頃は、鉄道の敷設用の枕木製材工場、開拓農業の副業としての柏(かしわ)樹皮から「タンニン」を採取する染料用搾渋業、さらに須田市十郎が経営するマッチ軸木製造(小林川下流に所在当時芽室村)などがあった。鉄道工事によっておこった一時的関係工業は鉄道の開通によって縮小または閉鎖されたが、開拓が進み人口の増加もあって農産加工業(澱粉、製麦粉、製麺、醸造等)の開業が目立ち、農機具馬車馬橇、耕転機)の製造、修理工場の進出もあり42の業種に及んだ。

大正9年(1920)日甜製糖清水工場の建設、操業は町の各分野に影響を与え、本町にとっては画期的な出来事で、農産加工業の基礎がこの時代につくられたといっても過言ではなかろう。

日甜清水工場、大正10年操業当時の内部

日甜清水工場、大正10年操業当時の内部

製糖期は農閑期となるため、農村の青年が臨時工員として200余名が毎年就業し、農家にとっては副収入の道がひらけ、また商店街は購買力の増加となり、当時としてはそれぞれ大きな恩恵を受けた。

さらにビートの耕作面積の増加により、葉も飼料としての乳牛飼育が奨励され有畜農業に発展し、製酪工場の進出となって昭和5年(1930)明治製菓が製乳工場を建設したため西部十勝唯一の農畜産物加工業の町としての基徒を一層固めた。

また、本町に適した馬鈴薯は水利に恵まれていることもあって、大正末期から昭和の初期にかけ随所に澱粉工場が建設された。

しかし、戦時中は企業の整備統合にあって、経営の転換を余儀なくされた工場も多くあった。その後軍需中心の産業から平和産業に切り替えられたが電力、原材料の不足で生産活動も遅々として進まなかった。それでも、いわゆる造れば売れる時代であったため、それなりの活況があった。しかし、戦後の復興も日を追って回復し、農畜産物の増産、需要の伸長、エネルギー源の充足が順調となって、諸工場の生産も軌道にのってきたのは昭和30年(1955)以降であった。

昭和31年集約酪農地域の指定を受け、酪農の振興が町の大きな指標となり、農業経営には大きな変革と飛躍が期待され、乳牛の増殖、ビートの増反増産、野菜の適地適作による増産は、プリマハム北海道工場、ホクレン清水製糖工場、マルマス十勝工場の誘致となり、さらに雪印乳業清水工場の増改築となって、農畜産物加工場の町として栄えていくことが約束されていった。

一方、近年食生活の変化によって麺類の需要が急速に伸び、これに伴ない製麺工場も活発で、国内にも移出され、町の特産品として高く評価されている。

町においては「低開発地域促進法・法律第216号・昭和36年11月13日公布」により、「清水町低開発地域工業開発促進のための固定資産税免除に関する条例第28号・昭和39年7月3日」を制定して工場の誘致を計るとともに、既存工場の整備についても促進することとなった。適用された工場は次の12企業に及び、昭和52年度までの免除額は3,200余万円に達している。

成井農林株式会社、森種鶏ふ化場、ホクレン清水製糖工場、坪井木材、白老チップ工場、日甜清水工場、高橋木材、十勝砂利、清水生コン、榊建材、田村製麺、マルマス十勝工場

こうして本町の工業は、農畜産物の資源を背景とした加工業が主体で、比較的女子型工業が発展している。これからの企業誘致については都市型工業、男子就労の工場確保のため積極的に推進する必要があろう。工業用地については現在御影地区に、桜ヶ丘工業用地として20ha確保されているが、男子型企業の進出は現下の経済不況下では極めて難しい状態にある。また清水地区については、都市計画用途地域の指定の関係から、既存工場移転用地の確保が必要されている。

また国道274号線(日勝道路)の整備によって、札幌、苫小牧、旭川、釧路のいずれの都市とも3時間以内で結ばれることが可能であり、さらに将来北海道横断自動車道路の開通も考えられることから、本町の工業的条件が高く評価され、今後の発展が期待されている。

日本甜菜製糖株式会社

日本甜菜製糖(旧)清水工場開設

日甜(旧)の清水工場は、会社創立早々最適な製糖工場の敷地として、大正9年(1920)7月字清水第2線53番地に658,350m2(19万9500坪、65町歩)を購入した。当工場の建設にあっては、その機械主要建物は北海道製糖の帯広工場に同じくアメリカに発注し、大正10年10月までに本工場及び付帯事業として製酪工場をも完成した。また敷地内に寄宿舎、各倉庫など27棟を建設し、原料資材および製品輸送のための総延長48kmの鉄道岐線を敷設し、大正11年12月から操業を開始した。製糖機械は1日裁断能力600tの最新式のものであったが、産糖高は少なく、創業2年目にして経営困難となった。

日甜清水工場旧事務所全景 日甜清水工場全景

日甜清水工場旧事務所全景、日甜清水工場全景

明治製糖と日本甜菜製糖(旧)の合併

現日甜清水工場の前身明治製糖清水工場

現日甜清水工場の前身明治製糖清水工場

日甜(旧)は創業2年目に第1次大戦が終り、平和の回復とともに砂糖価格の暴落の要素もあって経営困難となり、大正11年4月明治製糖との間に吸収合併の協議が成立した。明治製糖の相馬社長は台湾の甘蔗事業の経営に当たっていたが、北海道の拓殖上甜菜と畜産は関連農業として開発・発展するとの熱意を持ち、また、たまたま傍系会社の明治製菓は千葉県に製乳業を経営していた関係もあり、北海道の畜産に大きな夢をもっていた折でもあって、合併は急速に成立した。大正12年6月明治製糖株式会社清水工場として新発足した。

甜菜運搬線として敷設した鉄道は大正13年11月河西鉄道株式会社として独立、製酪工場は昭和4年傍系の明治製菓に移した。

創業当時熊牛には十勝開墾株式会社があり、同社は明治31年2月に設立され、十勝管内に農場を有し、開墾、農場、牧場などを経営していたが、大正13年4月、明治製糖が資本の大半を譲り受け独立経営に移し、模範農場としてその真価を高めていたが、時勢の進展に伴ない、耕作者に自作農創設を実施し、昭和10年4月解散した。

明治製糖株式会社清水工場

明治製糖は日甜(旧)と合併すると同時に、清水工場を明治製糖株式会社清水工場と改め再建に着手した。

台湾の甘蔗糖業の指導に活躍した中堅幹部を導入してその指導に当らせるとともに、社員を欧米に派遣して甜菜糖業を研究、直営農場、鉄道の経営、甜菜作付区域の拡張、採種圃の設置など増産対策を推進し努力したが経営は困難であった。しかし、大正12年度には甜菜耕作十勝、上川、留萌、石狩、胆振支庁管内にわたり2、806haとなり産糖高は4,257tとなり創業時の2倍になった。

清水工場の損益は大正12年から15年までコスト高の影響により赤字経営を続け、台湾甘蔗糖業より補充されていたが、昭和2年(1937)には耕作面積4,787ha増反、産糖高も10,861tとなって、昭和初期に入ってようやく経営が軌道にのっていった。

昭和19年の要請により清水工場は航空機用燃料ブタノール製造工場に転用することになり甜菜糖の製造に終止符がうたれた。

北海道興産工業と改称(企業体の一元化)

昭和7年糖況が好転してからは甜菜糖業は一応軌道に乗ったが、日華事変以後は戦時下の悪条件のため振わず、昭和20年(1945)には作付面積、収量ともにはなはだしく低下した。昭和19年北海道庁は、甜菜製糖業経営の打開策として、企業統合して新機構に改組する方針を決定しこれに基づき、当時道内に併存していた北海道製糖は明治製糖の翼下に統合され、社名を北海道興農工業と改められ、清水工場は航空機用ブタノール工場に転換を命ぜられ、昭和19年産業設備営団に譲渡された

日本甜菜製糖株式会社と改称

終戦後、甜菜糖業の回復は遅々として進まず、甜菜用配給肥料は主食作物に転用され、昭和23年の作付面積、産糖高は近来の最低を記録した。なおこの前年の同22年社名を日本甜菜製糖に改め、ブタノール工場転換の清水工場を産業設備営団から買い戻している。

なお日本甜菜製糖は、主力生産物である甜菜製糖のほかに、次のような多様な事業を取扱った。

雪印乳業株式会社清水工場

本町における製乳工場は、会社経営の事情により幾多の変遷があったが、基本的には酪農振興に対する積極的な行政の施策「企業の健土・健人・健産」の精神が貫かれて来た。大正10年(1921)日甜(旧)の付帯事業として、日甜(旧)工場敷地内に製酪工場を建設操業したが、大正12年日甜(旧)が明治製糖に合併したことによって、傍系の明治製菓に経営が移され、清水工場としてバターの製造を継承して来たが、牛乳の生産量の増加に伴ない昭和5年(1930)11月字清水第1線54番地(現在地南6条4丁目)に移転し、煉乳・バターを中心に製造が行われてきた。

北海道製酪販売組合連合会当時の清水工場事務所

北海道製酪販売組合連合会当時の清水工場事務所

一方、昭和8年3月北海道製酪販売組合連合会が、生乳の一元集荷を行うことになり、事務所を字清水第1線54番地(現在地南6条3丁目)に設けた。昭和10年当時として、1日最高の集荷量75石(37.5t)の記録がある。

昭和12年7月前述の清水工場は極東煉乳株式会社清水工場と改称され、煉乳製造事業を継承した。また同年北海道製酪販売組合連合会は、清水工場を現在地に新築、バター、カゼインの製造と市乳の加工を開始した。

昭和14年「酪農調整法」の公布により乳製品の製造・販売が統制され、戦争の拡大に伴なった経済新体制に即応して、道内製乳事業一元化の総合経営を目指し、有限会社北海道興農公社が設立、清水工場となった。同15年5月19日同工場は全焼したが、17年新築再建し、粉乳製造を再開した。

昭和22年(1947)株式の民主化をはかって北海道酪農協同株式会社として新発足、清水工場はその事業をそのまま引き継いだ。

昭和25年過度経済集中排除法により雪印乳業と北海道バター(のちにクローバーバターとなる)に分離され、清水工場は北海道バター清水工場となり、26年よりビタミン入り粉ミルク、27年よりベドーフードミルクの製造を開始した。

さらに昭和30年11月28日過度経済集中排除法の緩和により、雪印乳業と北海道クロバーは合併され、社名は雪印乳業株式会社となった。

その後同35年バターの製造を中止し、育粉専門工場となるが、39年工場集中合理化によって粉乳専門工場となった。

昭和48年酪農振興法の認可を得て、工場の増改築を計画、昭和52年6月事務所完成(鉄骨2階建延べ600m2)、引き続き粉乳製造棟改築工事建設中で、昭和53年春完成の予定である。

雪印工場の前身明治製菓清水製乳工場 雪印乳業清水工場

雪印工場の前身明治製菓清水製乳工場、雪印乳業清水工場

プリマハム北海道工場

北海化学工業株式会社から北販連十勝缶詰工場まで

昭和16年(1941)6月軍需産業の一環として、松山金次郎らが発起人となって、海藻、マオラン麻、植物性繊維、紡織、製網、製紐、乾燥野菜を目的とし、資本18万円をもって北海化学工業株式会社を設立、工場を字清水第2線60番地(現本通西2丁目)に建設し、昭和17年より操業した。軍需工場の指定を受け、電力、石炭、苛性ソーダーなどの特別配給もあり、その任務を果たしてきたが、終戦により平和産業に切りかえて事業を縮小し、おもに野菜乾燥工場として継続して来たが、電力、燃料、輸送などの悪条件が重なり経営不振が続き、昭和22年4月をもって閉鎖した。

この施設の処分について、各方面において検討されてきたが、清水農業協同組合が主体となり西部5ヵ町村の農業協同組合に呼びかけ、農協経営による農村工業振興と、輸出を目的とした農畜産物加工場を計画、その事業主体を北海道販売協同組合連合会とすることにし、昭和23年10月13日北販連十勝缶詰工場の設立を決定した。

既設工場6棟1,570m2を買収、敷地15,381m2を松山護より借受け、増改築を加えて昭和24年7月21日落成操業を開始した。操業に当り疏菜反別500町歩(495ha)を計画目標としたが、農家の思惑もあって計画面積の確保はできなかった。そのため畜産加工に重点がおかれ畜産加工品85%、農産物加工品15%の生産割合となった。畜産缶詰の増産により屠畜数も増加、最盛期には年間2万5000頭を屠畜した。

3年目の昭和26年は売上収入1億円に達し基幹工場としての指定を受けた。

しかし、北海道販売協同組合連合会は、道内関係食品工場を、整理することになり、昭和28年9月30日をもって閉鎖し、工場は清水農業協同組合の倉庫に転用された。

操業の工場長は波岡正治で、従業員数101名であった。

プリマハム北海道工場

プリマハム工場

プリマハム工場

昭和31年(1956)9月清水地域(清水町、新得町、鹿追町)は集約酪農地域の指定を受け、乳牛の増殖、導入が計画され、一方馬の改良、増殖にも力が注がれた。こうした背景のなか、牡犢、牡馬などの処理のため屠場の整備と畜産加工場を設けることに着眼した斎藤健吉、原口善雄ら畜産関係者が町理事社、町議会、商工会に働きかけ、竹岸畜産工業株式会社(本社高岡市、社長竹岸政則)の誘致を行った。

工場設置場所としては、地理的条件が整った北海道販売協同組合連合会の旧十勝缶詰工場が予定され、土地は町が松山護より14,823m2を155万円で購入の上会社に提供し、建物は会社側において買収、さらに町内より資本投資300万円の協力などにより、昭和32年3月増改築の着工、9月21日工場の完成をみるに至った。一方、原口善雄経営の屠場は、同会社が買収、工場数地内に設けた。

初代工場長として金城徳助が職員とともに着任し、同年10月より操業を開始した。

なお竹岸畜産工業は、昭和40年5月プリマハムに社名変更をしている。

北海道工場の特質は次の点とされている。

ホクレン清水製糖工場

昭和28年(1953)「てん菜生産振興臨時措置法」の施行により、原料価格の維持とてん菜糖の政府買上げの措置が行われることになり、国の甘味資源確保と寒地農業確立の立場から、積極的な指導によって農民の耕作意欲が高まり、てん菜の作付が大巾に伸びる気運が醸成され、国内の精製糖企業の北海道進出の計画のすう勢が起こってきた。そのため「ホクレン」も中斜里工場に続き十勝に第2工場建設が計画されることになり、本町はもともと糖業の企業誘致に熱意を示していた関係もあって本町が主体となって新得、上士幌、鹿追、士幌の西部5力町をもって誘致期成会を結成し、強力な運動を展開の結果、昭和35年3月19日「ホクレン」の総会において本町に建設することが決議された。翌36年7月22日農林省より農地転用が許可され、工場の設置が認可された。そして同年8月より工事に着工、37年10月に完成し、11月27日落成式が挙行され、操業が始まった。

ホクレン清水製糖工場落成式

ホクレン清水製糖工場落成式


ホクレン清水製糖工場

ホクレン清水製糖工場

株式会社マルマス十勝清水工場

町の企業誘致計画に沿って、株式会社マルマス(社長佐藤昌、資本金4,500万円、本社茅部郡森町)が字清水基線44番地に昭和49年(1974)8月12日開設操業を開始した。

農産物加工を主としての工場であるが、農産物の場合期間操業になって経営上冗費が多くなるため、海産物の加工も取入れて年間操業を維持している。

マルマス十勝清水工場

マルマス十勝清水工場

澱粉工場

本町における澱粉工場の歴史は古く、明治37年(1904)ごろ熊牛元村で製造したのが最初と伝えられ、さらに明治40年小林川下流において須田市十郎が工場を建設、製造を行った。規模は幼稚で、水車を利用したものや手回し機械で擦るものであった。原料の馬鈴薯は、冷害に強い寒地作物として本町に適した特産物であって、澱粉の利用価値が高く、水利に恵まれた地帯では個人又は共同で工場が建設された。その後、第1次世界大戦では消費量が急増し、澱粉成金が生まれた。

さらに清洲事変、太平洋戦争と戦時体制のなかで、食糧政策の一環として馬鈴薯澱粉の増産が要求され、各地にエ場が次々と建設された。戦後も澱粉の需要は強く、工場の活況が続いた。当時の工場の作業員は、漁師が季節工として製造に当り、製造期間中は100余名が道南方面の漁村より来町従事した。昭和33年(1958)清水農業協同組合の合理化工場の操業によって、農協さん下の個人、共同経営の工場は閉鎖された。

しかし、昭和38年には最新式の合理化されたホクレン芽室澱粉工場の操業によって、町内の原料薯はすべてその集荷の中に入ることになって、50余年の歴史をもった澱粉工場は町内から姿を消した。

西岡富蔵澱粉工場(明治末) 林澱粉工場

西岡富蔵澱粉工場(明治末)、林澱粉工場

成井農林株式会社帯広出張所清水工場

成井農林清水工場

成井農林清水工場

成井農林株式会社の北海道への進出は、北海道でのチップ生産並びに製材生産の有望性に基づいて、原木の資源調査と工場立地調査から始められた。資源調査の結果、各地で有望な森林を見つけたが、その中で日高山系、裏大雪山系に原木に適する材木の蓄積が極めて大きいことを確認、さらに近辺の民有林にも材木が豊富であることから原木供給の将来に展望が開け、さらに本町の工場誘致政策に基づく工場敷地の提供と地元の協力によって現在地に工場建設が決定、昭和36年(1961)2月から操業を始めている。

白老チップ株式会社十勝工場

昭和35年(1960)大昭和製紙株式会社白老工場が建設されると同時に、白老チップ株式会社が設立され、道東地区のチップ集荷を主とし、十勝地区一円の小経木加工工場として南3条西2丁目に十勝工場が建設された。

高橋木材株式会社

木材関係ではかねてから老舗であった清水製材株式会社が昭和29年(1954)火災の悲運に合い再建が困難になったため、昭和30年高橋高治が継承し、昭和48年3月死去後高橋賢治が社長となっている。

山畑農機具有限会社

大正3年(1914)山畑久治が21歳で宮城県より来町し、すでに鍛治業を経営していた高橋忠平方に身を寄せ鍛治を修得し、25歳で独立した。研究力が旺盛で、双耕プラウを開発し、特許庁に実用新案登録され、耕転作業の能率増進に寄与した。

その後昭和15年(1940)元関東州大連に渡り、日系開拓農民の農機具技術指導に当たった。戦後再び帰国し、山畑農機具有限会社を創立、プラウ、いも掘機、ビート採掘機、デスクハローなど、数々の農磯具の改良につとめ、実用新案登録10種にも及び、この努力が認められて昭和27年には北海道知事より表彰を受けた。

昭和43年(1968)4月1日、帯広市東洋農機株式会社に合併し、常任監査役に就任した。

山畑久治考案、除草機

山畑久治考案、除草機


山畑久治考案、ビート採堀機

山畑久治考案、ビート採堀機

松山酒造株式会社

大正初期の十勝管内の酒造業者は、酒造史によれば新得、芽室、止若(札内)、広尾、本別の各地に1業者と、帯広に3業者の8業者が営業していた。本町では大正11年(1922)に松山金次郎、今中助五郎、生木昇、及川与兵衛、桑島冬治、清原治平、桑島文市、山本金作、村瀬繁信、寺島徳重ら14名が株主となって、清水酒造珠式会社を創立、字清水第1線66番地(現北2条4丁目)に貯蔵倉庫、仕入倉庫、仕事場、住宅建設、地酒の製造を始めた。初代社長は芽室の清原治平が当たり、専務取締役に松山金次郎が就任した。

銘柄は清酒では「きよ泉」「天津」「蝦夷自慢」の3銘柄で、かすとり焼酎では「剣山」「金鶴」の2銘柄があった。清水酒造株式会社は、昭和8年に解散し松山酒造店と改組、松山金次郎の経営となり昭和29年に再び法人組織に改組された。現在は金次郎の子息護が経営に当っている。

丸合清水醸造合資会社

九号醸造の先代平尾勇太郎は、大正13年(1924)香川県より渡道、鹿追美蔓に入植、3年間で農業をやめ清水市街に出て商業を始めたが、当時、本州の油業者が十勝の豊富な大豆を買いあさる状況をみて、「原料を持って行かれて、十勝は単なる原料の供給地に過ぎない」と、昭和6年(1931)に田村常平、丸尾芳太と共同で、資本金6,000円をもって醸造工場を設立した。現在は2代目平尾勝好が継いでいる。その銘柄である「大平原味噌汁のだし」「白こうじ」はテレビでもよく宣伝されている。

昭和43年より養鶏業を併せて経営、成鶏18万羽、青すう10万羽を飼育し、道東一の飼育数を誇っている。

昭和初期の醸造工場全景

昭和初期の醸造工場全景

製麺事業

本町の製麺事業は、昭和16年(1941)中西金一によって製造されたのが最初で、機械など設備は幼椎なもので、文字通り家内工業的なものであった。当時は戦時中で主食は配給制度転よってまかなわれており、特に米については窮屈な状態が続き、食生活は止むなく代用食を取入れなければならないのが実状であった。

その当時農家では、生産された小麦を乾麺として製麺工場に委託加工し、保有して貴重な食糧としていた。戦後も、戦前同様委託加工場として操業を続けたが、次第に主要食塩の需給度が高くなった反面、食生活の変化は米食漸減となり、パン、麺類の需要が漸増する状況となって、昭和28年中村博、昭和32年田村昇が製麺工場を設立、近代設備を設けて操業を開始した。近年その消費が増加するとともに、質の向上に研究が行われ、「日勝十勝うどん」「日勝十勝そば」として本町の特産物となり、道内各地はもとより国内にも移出されている。

昭和51年の生産は、そば450t(7,900万円)、うどん類2,700t(4億5000万円)、計3,150t(5億2900万円)に及んでいる。

田村製麺製品中村製麺製品中谷製麺商標
田村製麺製品中村製麺製品中谷製麺商標

自動車整備工業

自動車の普及はめざましいものがあり、本町の保有台数をみると昭和51年(1976)には約3500台となり、1戸当り0.95台となる。これに伴い、自動車の取扱い業者と修理工湯が続々と開業して次の9企業が営業している。

松田整備工場、清水自動車工業、北海道マツダ、佐々木自動車整備工場、山本自動車整備工場、大橋自動車整備工場、佐藤モータース、新井自工、東進物産

清水製材株式会社・清水木材工業株式会社

清水製材株式会社は、大正4年(1915)4月創立、字清水第2線60番地に製材工場を建設した。創立者及川重次郎の先代及川与兵衛が明治末期から大正初期まで製材販売と土木建築請負業を町内における先達として営業し、現在の役場庁舎、旧清水小学校々舎、十勝開墾合資会社の事務所、農場関係建物など多くの実績を残したが、清水製材株式会社が創立され、その営業権を同社に継承した。

昭和19年(1944)9月、新得町屈足町第2製材工場を建設、国有林の特売を受けて、道東における有力工場として盛業を続けた。しかし、昭和29年2月9日清水工場が全焼したため、40年にわたる同社を閉鎖し、経営を高橋高治に譲渡した。

歴代社長 初代鴨川千代蔵、2代海野末吉、3代及川重次郎、田代及川盛

また、清水木材工業株式会社は昭和22年9月10日、資本金19万5000円をもって、清水製材株式会社の姉妹会社として設立され、木材加工、床板腕木、家具建具の製造販売をおもな事業とした。

昭和28年10月1日清水町の会社を閉鎖し、札幌に移設して清水勧業株式会社と改めている。設立当時の社長は及川重次郎、専務土屋二四夫であった。

鉱業

本町は、鉱物資源に乏しいが、日高山系の花崗岩は大正初期より採掘され、その歴史も古く良質でその評価も高い。御影地域に埋蔵の火山灰は、コンクリートブロックとして工業化され、建築用材として各方面に移出され、地元産業の発展に貢献している。

また太平洋戦争時代、熊牛地帯で採掘されたマンガンも、平和時には利用価値も少なく、今日では農地として復元されている。

さらに、近年公共事業による建設、企業の増改築、住宅建築、農業設備の新増設の増加によって、骨材としての砂利、砂の需要が急増しているが、この資源の大半は十勝川で採掘されたもので、砂利、砂の採掘業者、コンクリート製造業者によって活用されている。

花崗岩

採石場現場

採石場現場

本町唯一の鉱産物としての花崗岩は(兵庫県六甲山から産出する花崗岩を御影石と称している)、大正2年(1913)滋賀県出身の森安次郎が北海道視察の途上、日高山系に優良な花崗岩の鉱床を発見し、大正3年上清水に入植後、石材業を志して熊の出没する未開地石山の山奥(現在の日勝峠第1展望台近辺)で採掘にあたり、森石材店を経営した。森石材店の2代目森孝三郎の家は、南1条2丁目に石造作りの家として永く親しまれていた。現在は山本化粧品店となっている。

さらに大正3年には、新得町新内の関新太郎も伊藤市蔵とともに石山において採掘業を始めた。この花崗岩は、酸アルカリ性に強く、風化、腐蝕、凍結などがなく良質なものとして評価され、墓石、標識、装飾用材として広く利用された。

最盛時の昭和8年(1933)には、採掘量55,600m3(2万立方尺、2万切)、生産額4万円にも達した。

昭和40年(1965)10月国道274号線(日勝道路)の開通は、特に採石場付近の様相をかえ交通量は年ごとに増加し、採掘することによって通行者に危険を及ぼすことが予想され、さらに国有林の造林計画、採掘工の減少などもあって、昭和45年頃より採掘を中止している。

3代目の森泰孝、2代目の 伊藤重次は現在茨城県、福島県、韓国、南アメリカ、アフリカなどより輸入し加工しており、森泰孝は南1条西1丁目に加工場を持ち、帯広市西1条南1丁目で販売している。伊藤重次は南2条6丁月で加工、販売を経営している。

マンガン鉱

日華事変が進行し、太平洋戦争がか烈となり鉄資源が求められはじめられるようになって、各地で埋蔵の調査が行われたが、本町でも札幌市の村上某による探鉱が行われている。その結果、熊牛東1線〜東4線零号〜2号間の芽室町に至る地帯(東高台)、熊牛基線〜西2線9号〜15号間の地帯(更生)、清水大橋の人舞例の地帯で、軟マンガン鉱の埋蔵されていることが発見され、昭和15年(1940)頃より終戦の年まで採掘された。採掘は手掘りで30cm〜1mの表土を取り除き「つるはし」をもって鉱床を砕いて掘り出し、冬期間馬橇で当時の河西鉄道零号駅に集積、一部は御影駅に搬出した。

採掘の従事者はおもに近辺の青年で冬期間農閑期を利用して従事した。当時としては高賃金であったが労働条件が厳しく、衣類、ゴム靴の入手がむずかしく苦労をした。この軟マンガンは室蘭の製鉄所に送られ、鉄と合わせレールなどの材料となった。

(註 軟マンガンは鉄より堅く化学性も強い)

採掘量の記録はないが、約30haの農地が採掘されていたと伝えられている。戦後この土地は埋戻し、農地として復活して当時の様相は見られていない。

太陽コンクリート株式会社清水工場

富良野市山部町でブロックの工場、重機、ガソリンスタソド、修理工場を経営している太陽コンクリート株式会社(代表荒田重男)は、昭和49年7月25日字清水基線781番地(ペケレべツ川清美橋沿い)に清水工場を設立し、生コンクリートの製造を操業、昭和51年現在ミキサー車7台を有し、月産12、000m3を生産している。

太陽コンクリート株式会社清水工場

太陽コンクリート株式会社清水工場

清水生コンクリート株式会社

清水生コンクリート株式会社は、昭和44年(1969)6月5日資本金340万円をもって有限会社として設立され、同46年8月6日資本金800万円に増資、事業を拡張し、50年8月20日株式会社に組織変更をして、年間60,000m3を生産、関係業界に提供している。

清水生コンクリート工場

清水生コンクリート工場

御影ブロック産業株式会社

耐寒住宅の普及、公営住宅の建設、畜舎の改善などで火山灰を原料としたブロックの需要が戦後まもなく漸増し、御影常盤地帯に火山灰の埋蔵が豊富なところから、竹田謙二らが中心となりブロック製造工場を建設し、建築産業の振興を図っている。

御影ブロック産業株式会社工場全景

御影ブロック産業株式会社工場全景

田中ブロック工業所

戦後、耐寒・耐火の建築用材として火山灰ブロックの使用が.奨励され、需要の伸張に著しいものがあり、十勝管内でも火山灰の埋蔵地帯ではブロック工場が随所に建設された。田中幸一は字御影北1線56番地(常盤)で農業を経営していたが、近辺に火山灰の埋蔵豊富なこともあって、昭和28年(1953)製造工場を建設、農業と兼業した。

需要の増加もあって、昭和33年離農し、ブロック製造に専念している。