大樹町史 概要

役場所在地 北海道広尾郡大樹町東本通33
郵便番号 089−2195
電話番号 (01558)6−2111
FAX (01558)6−2495
ホームページ http://www.town.taiki.hokkaido.jp/
Eメール mailmaster@town.taiki.hokkaido.jp
市町村コード番号 01641−1

位置

北海道の支庁別地図

大樹町は、北海道の南東部・十勝支庁管内の南部に位置する。

北は中札内・更別・忠類・豊頃の四町村と隣接し、南は広尾町と隣接する。

東は太平洋に面し、西は日高山脈を隔てて、日高支庁管内の静内・浦河の両町に隣接する。








地名の由来

タイキ・タイキウシ・大喜・大樹

大樹という地名はアイヌ語に由来し、タイキ、タイキウシと呼ばれていたものである。古くは、大喜とも記された。 吉田東伍は、著書「大日本地名辞書続篇第八巻」(明治42年=1909=12月28日・冨山房)のなかで、次のように記述している。

「大喜(タイキ)元、タイキウシといふ處にして、蠶多き處の義なり。今、大樹(タイキ)村といひ、歴舟村の北西四里、歴舟川の左岸に在り、廣尾郡茂 寄村より、中川郡帯廣に通ずる徑路に当る。」

松浦武四郎の「竹四郎廻浦日記」(安政3年=1856)には「タイキ、此處土人1軒、サツナイより引移り来りし」とあり、「戊午日誌」(安政5年= 1858)では「タイキ村、今は人家なし」、「東蝦夷日誌」(文久3―慶応元年=1863―1865)では「アシリコタン(東岸平地)、新村の儀(人家2 軒)、タイキより近頃移りしが故に號く」と記している。「十勝日誌」の地理にもタイキ、ヘルフ子エ、トウブイエなどの名が見える。

「北海道拓殖報文」(明治36年=1903)によると、安政2年(1855)のトカチ場所のアイヌ戸口としてタイキ3戸(男14人、女8人、計22 人)、ペルプネ5戸(男8人、女8人、計16人)と記録されている。

明治2年(1869)8月15日、蝦夷地を改めて、北海道とし、11国86郡が置かれた。十勝国は7郡51村で、このうち当縁郡は辺留舟村・当縁 村・大樹村の3村とされ、漢字名で登場する。

地名考

大樹の語源には、諸説がある。

吉田東伍は「蠶多き庭」、野生のカイコの多い所と説く。

これに対して、永田方正は著書「北海道蝦夷語地名解」(明治24年=1891=3月・北海道庁)のなかで、当縁郡ペルプネイ川筋の「Taiki ushi タイキ ウシ 蚤多キ處 大樹村」、ノミの多い所と記述。

安田巌城の「十勝地名解」(大正3年=1914)にも「タイキ『蚤といふ事なり』」とある。

更科源蔵の「アイヌ語地名解」(昭和57年7月30日・みやま書房)は「タイキは蚤のことで、タイキウシ(蚤の多いところ)に漢字を当てたという。 この町の市街を貫流している日方川の川原は、昔よく野宿をしたところであるが、どうしたわけか川原の砂の中に蚤が多いので名付けられたという。」と記して いる。

山田秀三の「北海道の地名」(昭和59年10月31日・北海道新聞社)は「永田地名解は『タイキ・ウシ。蚤・多き処』と書いた。宿泊の旅人が蚤で 困ったからの名か。今は明るい街である。」としている。

吉田巌の「北海道あいぬ方言語彙集成」(平成元年5月20日・小学館)も「taikiのみ」と解釈する。

知里真志保の「地名アイヌ語小辞典」(昭和31年9月30日・楡書房)によると「taykiノミ(蚤)」である。しかし、この小辞典には「tayた い(1)林:森。=ni-tay。(2)物の林立:群立。(3)[チカブミ]川のそばの木原。」「-usiウシ(a)『……が・そこに群在(生、居)す る・処』。(5)……が・そこにいつもある(いる)・所』。」とあり、「角川日本地名大辞典」(昭和62年10月8日・角川書店)では、タイキウシ(森林 がそこにたくさんあるところの意)、タイキウシ(蚤の多いところの意)の両説を紹介している。

説の分かれるところであるが、大樹町の景観に照応するものを採るということになれば、「森林が繁茂するところ」に意義が求められる。

先住民族

蝦夷ケ島

北海道が文献に初見されるのは日本書紀の斉明天皇四年(658)阿部臣の遠征といわれる。当時、北海道は「越渡島」「渡島」「度島」などと呼ばれて いる。この島に居住する住民を「蝦夷」と呼んでいたので、平安時代末には「蝦夷ヶ千島」と呼ばれていた。このあと「蝦夷ヶ島」の呼称が一般化したとみられ る。この蝦夷ヶ島に人が住むようになったのはいつごろであろうか。北海道がまだ島国でなく、大陸と地続きであったころ、シベリヤから渡来したと思われる。 私たちが住む北海道の東部、十勝では、上士幌町の嶋木遺跡、更別村の勢雄遺跡は北海道でも有名な旧石器時代のもので、今から約1万3,000年から2万年 前と考えられている。新石器時代、縄文時代には全道的に広がり、大樹町では縄文時代でも最も古い縄文早期の遺跡が発掘されている。

縄文文化時代は本州の弥生時代の文化につながらず、続縄文文化時代に移っていく。前代からの狩猟、採取経済で農耕は行われていない。鉄器の渡来も東 北地方の宮城県辺りまで交流があったとみられる。大和国家と蝦夷ヶ島の境界もほぼその辺りと考えられる。阿倍臣の遠征もこの時代であった。

古代国家の東北進出はまず柵を築き、移民をつけ、その周りで農耕を行い、征服を続けるものであった。平安時代、北海道は土器に刷毛をこすったような 文様をもつ擦文土器が見られ、土師器の影響を受けている。この時期、北方からのオホーツク文化の影響を受けた北海道の東部、北部に独特の文化を繰り広げて いくのである。大樹町でも、オホーツク文化の遺物が数多く出土している。

和人の渡島

蝦夷ヶ島に住む人を蝦夷(えぞ・えみし)という。蝦夷は、初め日本全国に住んでいたが、征服されて次第に東北部に圧迫されたとみられる。中央政権に よる討伐、懐柔、同化によって次第に姿を少なくしていった異民族ということになる。江戸時代には蝦夷ヶ島を蝦夷地、そこに住む人を蝦夷(アイヌ)と呼んで いる。

蝦夷とはもともと朝廷に服さない「化外の民」を意味し、必ずしも人種をさす言葉でない。また古代の蝦夷をアイヌという根拠もない。しかし中世、鎌倉 時代以後は、蝦夷はアイヌと考えられている。

和人とは蝦夷に対する本州人、大和人をさし、アイヌ語でシサム=シャモ=隣人という。またアイヌ語でアイヌというのは「人間」の意である。

鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』によると、建保四年(1216)京の東寺の凶賊や強盗、海賊を蝦夷ヶ島へ流したとあるのが、和人渡島の最初の記録である。 蝦夷地は犯罪人の“島流し”の地であった。伝説であるが、義経の渡島は大樹町にもある。

コシャマインの蜂起

和人の進出は、当然のことながら蝦夷との同居となり、和人は次第に支配を強め、アイヌの狩猟圏を脅かし、一方的な交易を押しつけ、アイヌの不満や不 信を買い、その憤まんは次第にアイヌ社会全体に波及していった。康正二年(1456)アイヌは蜂起し、東は鵡川、西は余市に至る間の和人が殺害され、長禄 元年(1457)東部の指導者コシャマインが決起した。その勢いは和人の諸館を相次いで陥れ、わずかに二館を残すだけとなった。上ノ国の花沢館にいた武田 信広は、コシャマイン父子を射殺して、大勢を挽回した。このアイヌとの衝突はその後、約100年、天文19年(1550)戦国時代の初期まで安定をみるこ とがなかった。武田信広は和人滅亡の危機を救い、蠣崎氏の後を継ぎ、他の館主を抑えて事実上蝦夷地の占領となった。

松前氏の支配

蠣崎氏は上ノ国から大館(後の福山=松前)へ移り、蝦夷地の南部を支配する封建的な領主となり、文禄2年(1593)、蠣崎氏五代慶広は豊臣秀吉か ら蝦夷島守と認められ、姓を松前氏と改めて一藩を形成し、松前氏はアイヌ政策を進めることになった。慶長九年(1604)、征夷大將軍徳川家康から、「黒 印状」が与えられ、秀吉からの朱印状に勝る権限を与えられたのである。

蝦夷地では、おおむねアイヌの長が支配する区域を「商場」とした。商場はその後「場所」と称した。

場所は、藩主の直領と上級藩士の知行地に分けられ、十勝は東蝦夷地のトカチ場所といい、代々、松前藩家老の知行地として世襲されていた。蝦夷地はさ らに口蝦夷と奥蝦夷に分けられ、トカチ場所は奥蝦夷にあたる。

東蝦夷地とシャクシャイン

東蝦夷地は汐首岬以東の太平洋側をいい、下蝦夷地とも呼んだ。襟裳岬以東を奥蝦夷といったが、西蝦夷地は神威岬から日本海側、オホーツク海側で、東 西の境界は知床岬となる。和人とアイヌとの交易は、知行主が本州から船でアイヌの必要物資を運び、アイヌから蝦夷地で生産される狩猟産品や海産物を交易 し、これを再び本州に運び、売り渡すという方式であったが、商業資本が入るに及んで交易手段はアイヌを搾取するようになり、アイヌの不満を大きくした。場 所請負制度の功罪はともかく、アイヌは和人に対し蜂起した。寛文九年(1669)のシャクシャインの乱といわれるもので、273人の和人が犠牲になったと いわれる。この蜂起には、松前藩ばかりでなく幕府軍も動員された。この蜂起もシャクシャインの敗北で、アイヌの和人への従属化が決定づけられたのである。 このシャクシャインの乱でトカチの犠牲者は鉱夫17人、鷹師三人(東蝦夷地212人)の20人といわれる。(「津軽一統志」)。鉱夫とは砂金採取の鉱夫 で、鷹師はトカチに鷹狩りの場があったことを示している。

入植者の経緯

開拓使の開拓

明治二年(1869)、北海道と改称し、北海道を11国86郡とし、十勝は七郡となった。十勝の開拓は、それまで場所請負制度、漁場持ち時代の踏襲 で、産業としても漁業、狩猟などで、農業としては見るべきものはなかった。十勝の分領支配で静岡藩が大津に数戸の移民を入植させたが、播種七反九畝という 状態であり、開拓といえるものではなかった。分領支配もわずか二年で終わった。

殖民地選定

明治19年(1886)北海道庁が設置され、20年5月、岩村通俊長官が殖民地選定をあげている。22年(1889)まで全道主要原野の選定を行 い、23年以降は小原野を行い、調査内容も自然条件から社会的環境にも配慮するなど詳細にわたった。十勝国は22年の測定であった。小原野は25年以降の 測定で、広尾郡は茂寄、野塚、紋別の三原野で総面積23,432,891坪。当縁郡は下歴舟、上歴舟、モイワ、下当縁、上当縁、オイカマナイ湧洞、チオ ブシの8原野で総面積81,110,864坪である。

総面積のうち十勝は平野部が比較的多いことから直ちに開墾に適し、大部の高原は牧畜と一部農耕に適している。このことは十勝が他の国に比べ無願開墾 が可能で、若干手を加えれば開墾可能な面積が多いことからもうなずける。

殖民地区画選定により国有未開地は、土地払下規則と国有未開地処分法により処分されていった。

殖民状況報文

明治29年(1896)から殖民地選定調査項目をさらに詳しく、社会事項の調査を行い、官庁の公文書、旧記などを参照して編さん、34年 (1901)6月刊行された。

現在の大樹町は当縁郡の歴舟村、大樹村、当縁村に含まれている。当縁郡の主な入植者、団体は次ぎのようになっている。

下歴舟原野

単独小農 紋別川右岸に鳥取、福井、富山の諸県から移住した小農10余戸、1戸当たり1万5,000坪から3万坪の貸し付けを受ける。歴舟川右岸に 数戸の農家、マッチの製軸工場の職工から転職した農民もいた。このほか、明治31年数戸の移民があり、貸し付けを受けたが、資力に乏しく、小作をしながら 開墾に当たった。

石坂農場 胆振国西紋別の石坂善七が明治30年(1897)、112万余坪の貸し付けを受け、上歴舟原野にまたがるソーカ川が貫流する地に翌年石 川県から23戸の小作人を募り移住させ、農具一そろい、種子、米噌を貸し付け、一戸当たり1万5,000坪を配当、五年で墾成させ、終わった場合は半分を 給する。

阿部惣平治貸付地 新潟県人阿部惣平治は明治30年(1897)、下歴舟原野メム川沿岸に32万4,000余坪の貸し付けを得て、小作人、現在四 戸。渡航費、農具費、家具費、米噌を一年限り給する。一戸五町歩、5年で墾成のあとは一町歩を給し、4町歩は小作させる。

アイヌ保護地 歴舟川の左岸に二カ所、12万5,680坪、明治31年、5戸のアイヌが移住し、平均5、6反歩を耕す。

上歴舟原野

単独小農 紋別川沿岸に単独小農60余戸あり、明治28年(1895)、兵庫県人来海宇平、大阪府人馬野熊吉ら30余戸の移民とともに入植、馬野は 利別太に転住、その後、徳島、岩手諸県人貸し付けを得て開墾する。先着は五町歩を墾成、プラオ、ハローを用い、農作物は大豆を主とし、馬鈴薯澱粉を製造 する者二戸、1俵の価22銭、数戸は小作をする。

川口トメ貸付地 明治30年(1897)、広尾郡茂寄村の川口トメが牧場の目的で10万5,000余坪の貸し付けを受ける。フレベツ(振別)川の両 岸にまたがる。600間の牧さくを建設したが、野火で200間焼失、牧場内に小作三戸を移して、開墾させる。米噌を一年貸与、鍬下年季三年とした。

吉村重治郎貸付地 明治31年(1898)、若狭国の人、39万3,800余坪の貸し付けを受け、歴舟川の右岸に小作人一戸を移住させ、穀菜を試作 させる。

下当縁原野

珠玖清左衛門貸付地 明治31年、滋賀県から小作人を入れ、当縁川の両岸にまたがる101万余坪の貸し付けを受ける。小作人を甲乙二種とし、甲は貸 費、乙は給費とし、甲は3万坪、乙は1万5,000坪を配当し、5年で墾成し、成功後は二分を開墾費相当の代価で買い上げ、2分は道路、排水の開削費とし て清左衛門の所有とする。同年、13人が無願開墾であった。30年に八戸の移住あり。広尾郡茂寄村の須田某に農場管理を任せたが、小作人との争いも起き た。31年、清左衛門と小作人が共同して澱粉製造に着手した。

田中清助貸付地 明治30年、新潟県人田中清助(輔)、当縁川にまたがる23万余坪の貸し付けを受け、小作人7戸を移住させる。1戸1万5,000 坪を配当、渡航費、小屋掛料、食費、種子、農具として1戸117円50銭を給与する。3年間収穫物の10分の2分5厘を徴収し、4年目から一反歩につき大 豆、稲、大麦のうち精製品二斗を標準として徴収することを定めた。管理人鈴木某(久太郎)は熱心篤実で、小作人は服従した。

モイワ原野

区画数10有余、農民数戸あって、開墾に従事した。

オイカマナイ原野

晩成社農業地明治19年(1886)、晩成社社員依田勉三、牧場を開設、社員2戸を移し、牧草穀寂の播種を行う。21年(1888)、試みに藍(あ い)作りをし、製藍所を建てる。結果はよくなく、廃止となる。24、5年(1891〜92)に小作人5戸があったが、現在、3戸に減り、付与地40町歩 で、そのうち自作地20余町歩は雇い人に牧草を播種させる。その余を小作人に貸しているが、別に規定はない。

単独小農 明治30年に移住した農民もあり、各1万5,000坪の貸し付けを得て、プラオ、ハローで開墾し、4戸は全地成功し、31年には約10戸 の単独小農があり、各々開墾に従事している。

池本国平等貸付地 明治30年に兵庫県人池本国平、堺徳三郎の両人が共同で、51万坪の貸し付けを得て、隣接地の小作人2戸を移し、単独小農として 開墾させ、成功の後は土地の半ばを給する約束で、一切の保護をしないので、小作人不足を来たしている。

湧洞原野

単独小農 明治30年、和歌山県人山本繁次郎が主唱者となって、同郷人20余戸とともに移住し、開墾に着手する。

チオブシ原野

千葉県団体 明治30年1月、千葉県人津田禎二郎ほか38名が65万余坪の予定存置を得ている。同年、10戸が移住したが、余裕なく、他に転ずる。 翌年、同県から六戸移住、1町歩内外を開墾したが、団体の一貫性がなく、取り消され、個人貸し付けとなる。

当縁牧場 明治19年、晩成社が湧洞に牧場地を出願する。依田勉三、12戸の農民とともに移住して、牧畜を計画する。同年八月、牡牛四頭、牝牛10 頭を陸奥国から購入する。当時、当地方では初めてのことであったが、成績がよく、12月に牧場地10万坪の貸し付けを受け、21年9月、牝牛40頭、陸奥 国から馬五頭、官から種牛一頭を借りて繁殖を図る。22年(1889)4月に、雪で母仔牡牛20余頭が死ぬ。23年、馬11頭を購入し、牧場地50万余坪 の貸し付けを受ける。

同年五月、失火で居宅、物置、畜舎、倉庫を焼失する。11月ホリカヤニに200万坪の貸し付けを出願、さらに耕地40余町歩の払い下げを受ける。 26年、畜牛が繁殖して330頭を数え、冬季、日高国幌泉に送って放牧するが、積雪多く、70頭が死ぬ。28年、先に出願したホリカヤニの140万坪の貸 し付けを受け、放牧地207万余坪、牧草畑12万8,000余坪、普通畑3万余坪、合計224万坪に達する。同年、勉三自ら函館に牛肉店を開業するが、収 支償わず、30年(1897)末に閉店する。その後は委託販売とした。平均1頭30円内外であったが、販売した頭数は130頭、2,860円で、支出金額 は1,500円で、1,300円の益金を出した。現在まで投入した資本は2万3,000円になっている。

佐藤嘉兵衛貸付地 湧洞駅逓取扱人佐藤嘉兵衛は明治31年(1898)、牧場開設の目的で56万坪の貸し付けを受け、牧舎、牧さくを建築する。佐藤 は明治15年(1882)6月、岩手県人が率いて来た牛二頭を購入、放牧中に当縁牧場の牛と交配させ、繁殖を図った。25年以降、年々、2、30頭を販売 し、31年現在、馬と合わせて143頭を飼育する。これによると当縁郡の畜牛飼育は明治15年で、晩成社よりも早いことになる。

堺千代吉貸付地 十勝郡大津村の堺千代吉が32万坪の貸し付けを受け、チオブシに農民三戸を移し、乗用雑種と農用を合わせて60余頭の馬を飼育し た。

区画測定と角倉三郎

当縁郡、十勝郡の殖民地区画測定は明治29年(1896)5月から行われた。作業員の一人に京都府出身の角倉三郎がいた。道庁殖民課、永田安太郎の 下で作業に従事、作業が終わると当縁郡に入植した。角倉は明治29年から昭和17年に至る46年間にわたる33冊の日記を残している。大部分が鉛筆書きで あるが、中には矢立を用いたもの、赤ペンの部分もある。

明治29年の日記は測定日記ともいうべきもので、当縁郡の区画測定を知る貴重なものである。

角倉三郎については、明治39年(1906)5月から九月にかけて北海道庁第五部殖民課が本道の移住者の経歴と成功の一班を世に知らせ、新しい移住 者の参考に記した「移住者成績調査」にも詳細に記されている。それによると、明治28年、郷里を発し、翌年に区画測量の作業員となり、当縁郡の地の利が有 望であることを知り、30年に起業する。函館の柴田某の依頼ででんぷんを製造したが、失敗に終わり、31年に国有未開地二戸分の貸し付けを受け、小屋掛け し、家族を呼び、営農に当たった。39年現在、作付け反数165反、畜馬13頭、豚8頭、鶏30羽とある。

移住者の保護と奨励

北海道の開拓に移民政策をとったが、初めの移民は資本の移住という形で資本家保護、大地積無償付与制をとった。小作人募集の便宜を図り、20戸以上 の小作人を移住させる者には貸付地の予定存置の便を図った。団体移住の奨励もあった。移住者が郷里を同じくする場合、団結、協力して開拓に当たることから 30戸以上の団体移住者にも貸付予定地存置の特権を与えたのである。後に20戸以上とした。

明治26年(1893)には官民合同で「北海道協会」を設立し、東京に本部、札幌に支部を置き、(1)移住すべき土地の実況(2)移住の手続きなら びに着業の順序(3)農業に関する事業(4)(5)略(6)北海道全般の状況(7)北海道の諸物産に関する事項の調査を実施するため、新聞掲載、公開演 説、問い合わせに応ずる、関係書面、図の閲覧―など北海道の事情紹介に当たった。

さらに府県の移民事務の取扱に吏員を嘱託として置いた。移住者の招来に最も効果があったのは、移住者本人の成功談を郷里で話させることであった。派 遣は大正元年(1912)から始まり、同11年まで行われた。一般に20日間で200円が日当として支払われた。

土地処分法も一期から三期へと土地政策を自作農小農扶殖に移行していったのが特色に挙げられる。

成功付与

明治41年(1908)改正の国有未開地処分法では、従来の無償貸付の制を廃し、売払制をとったが、除外例として自作農の移民保護と扶殖のため無償 貸付を伴う無償付与の制を残した「成功付与」制がある。貸付面積は地方により異なるが、1戸10町歩を貸し付け、成功期間を五年間とした。

十勝の大正10年(1921)1月募集条件は次ぎの通りであった。

大正十年(1921)の500円といえば大金である。この募集は失敗に終わり、その後、大幅に緩和して1、4、7項とした。

渡道保護として、十勝への移住には広尾・大津の函館からの乗船賃は五割引とし、移住民に対する開墾、農事の指導を行った。

大樹移住者世話所

移住者乗船割引券

昭和三年に設置された「大樹北海道庁移住者世話所」の全景写真がある。写真にはまだ雪が見えるので、翌四年のものであろう。

立て看板に次ぎの文字が見える。

「何事に依らず遠慮なく御申出下さい、移住者の世話を致します」とある。移住者世話所は今の大樹営林署の官舎の所にあった。建物は木造平屋建40坪 (133.3平方メートル)。当時としては立派な建物であった。初代所長は星野修二であった。

移住者世話所の仕事は、管内を巡回し、移住者の日常生活に関する注意を払い、町村理事者、農会、部落会長、移住者世話嘱託員と連絡をとりながら移住 者の面倒をみる。

大樹世話所は、昭和五年の鉄道開業で移民が増加したことから十勝では上士幌とともに昭和12年以降も事務をとっていた。

大樹への許可移民は昭和二年から始まっている。紋別原野22戸、上歴舟原野33戸、上当縁原野62戸、3年にも17戸が入り、4年以降に上トヨイ、 下トヨイ、野塚原野へと続く。

大樹移住者世話所