豊頃町史 概要

役場所在地 北海道中川郡豊頃町茂岩本町125番地
郵便番号 089−5392
電話番号 (01557)4−2211
ホームページ http://www.hokkai.or.jp/toyokoro/
Eメール toyokoro@hokkai.or.jp
市町村コード番号 01645−4

位置

十勝国豊頃町の位置を示す図

十勝国豊頃町の位置を示す図

豊頃町は、十勝の南東に位置する一帯の地域である。東は十勝川および丘陵を境にして浦幌町と接し、南は北東から南西に延びる直線的な海岸線をもって太平洋に臨み、西は低い分水嶺によって幕別、大樹の2町および忠類村に隣接し、北は十勝川岸の平地を横切って池田町に隣接している。豊頃町の位置を経度、経度で示すと

地勢

十勝は、石狩平野や、根釧原野に匹敵する1大平野を形成し、いわゆる十勝平野といわれている。が、地形上は一つの盆地状地形をしている。すなわち、十勝の西方は、北海道の骨格である日高山脈が南北に尾根を連らね、北は大雪山系の新しい火山群が標高を競い、東は白糠丘陵と呼ばれる比較的標高の低い丘陵性の地形が発達し、これらに囲まれた平野部は帯広市を中心に、十勝川、札内川、音更川に添って広い扇状地や数段の段丘を形成し、中央部は、数10キロメートルの幅をもった広い谷底地形として南に開き、十勝川河口と歴舟川河口付近にやや広い海岸平野をもって太平洋に臨み、この両河川の河口の間に豊頃丘陵が発達し、十勝平野の盆地状地形をつくっている。

地名の由来

アイヌ語地名解

本町のアイヌ語地名は、寛政年間に探検に入地した松浦武四郎の記録によると十勝川筋だけでも42カ所を数えているが、ここでは今日なお残っているアイヌ語の地名を解明するにとどめておくことにする。

また上図の地名記入も、今日的な発音(和人の一般的呼称)によって地図中に記入しておいたものである。(図1)

トカチ(十勝) 「トカチ」という地名の由来については諸説があるので次にそれぞれの立場を解説しておく。

(イ) 吉田厳によると元来「トカブ」と発音するとし、「ト」は「乳」、「カプ」は「こぶし」 の意味で、要するに十勝川沿岸に両乳房の形をした岩が有ったので、「トカチ」の名が生まれたとするものである。

(ロ) 明治2年7月26日開拓使御触書で公布し8月15日付で蝦夷を北海道とし、11国86郡名称を実施したが名付親は地勢踏査に当った、松浦武四郎であった。

「国名之儀ニ付申上侯書付」によると、

「元1ケ場所ニテ、海岸22里、23丁、水源60余里、川筋村多シ、元名トウカプ、訳両乳之儀此川口東西ニ国ニ分レ、乳ノ出ル如ク絶セヌカ、故ニ号シテトカチト申伝へ侯……」 (ハ 又一説ニ、「トウカチ」ニシテ、「トウ」トハ「沼」之事、「カツ」トハ「辺り」之事、「チ」ハ「枯ル」儀、共辺ノ樹等水風ニテ早ク枯ルニヨリ号ストモ言ヘリ、然ルニ此川筋如此処ナシ、左候ハハ乳之故事相応之事卜奉存候」

とあって、(イ)の「乳ノ岩」説と、(ハ)の「沼の辺の樹木の枯れる地」という2説を否定し、「国名之儀申上書」には「川口二国ニ分カレ乳ノ出ル如シ」という説からトカチの名がつけられたものと解すべきであろう。

またアイヌの古老の一説には「トカリペツ」の意であり、「トカリ」とは「海豹」すなわち「トド」の意味で昔この大川にトドが群来したことから「トカリユツ」と呼ばれ、それがトカチに転じたものであるという。

モイワ(茂岩)

「モ・イワ」と発音する。「モ」は「子」、「イワ」は「山・丘」の意味で、「モ・イワ」とは「小山、小さな丘」の意味をもつ地名で、北海道各地(北見、常呂郡、室蘭、宗谷)に同様の地名が見れらる。

ノヤウシ(農野牛)

「ノヤウシ」と発音する。

「ノヤ」は「よもぎ」、「ウシ」は「……の群在(群生)するところ」の意味で、「ノヤ・ウシ」とは 「よもぎの群生するところ」の意味であろう。他に「ノヤサル」、すなわち「よもぎ原」の地名もある。

タビコライ(旅来

「タプ・コプ・ライ」と発音すると「タプ・コプ」は「丸山」、「ライ」は「死んだ」、すなわち「丸山で死んだ」となる。

しかし別に「タプカル・ライ」と発音したものとすると「タプカル」とは「踏舞する」の意で、地名解にも「夷婦ノ踊舞ヲタプカルトイフ」……とある。

「ライ」は「死んだ」の意味で、「タプカル・ライ」とは「踏舞して死んだ(ところ)」の意味になる。

当地には旅来コタンのアイヌと日高アイヌとが戦った折りに、戦に傷つき死にのぞんで踏舞した酋長の伝説がある。

地名と伝説の時間的前後関係は正確には不明である。

トヨコロ(豊頃)

「トエコロ」と発音すると「大きなフキ」のあるところの意味もあるが、別に

「トピオカル」または「トプヨカオロ」と発音し「人死して住まはざる所」の意味ともされている。

語源は、昔カシピラ(常室)の酋長がコタノロ(池田町と豊頃町の境界をなしている沢)を襲撃した時、コタノロ軍の伏兵に要撃されてコシピラ軍が惨敗し、遂に退却して豊頃町の小沼に身を投じ全滅し、豊頃コタンが無人の地となったという伝説から生まれた地名であるという。

また「トイ・コロ」といい「土多く礫少ない所」の意もあるという。

チャシコツ(今日の安骨)

「チャシ」は「砦(とりで)」、「コツ」は「谷間」の意味で、要するに「砦の谷」の意味の地名である。

現地は旧大津街道からオタコスベ川に沿って約100メートル程右折して行くと今日安骨神社の建てられている所で、神社建立の折に石鏃や土器片の出土があったという。(安骨在住石田定信談)

トーフツ(十弗)

「トー・プト」と発音する。

「トー」は「沼」、「プト」は「川口」の意味で「トープト」とは「沼の川口」すなわち 「沼の口」という意味の地名である。なお、今日の十弗駅ではなく古くは池田郊外のトーフツ川の川口付近を指したものである。

オオツ(大津)

「オオホツナイ」と発音するが明治前後の古文献や呼称では、もっぱら「オオツナイ」または「オオツナ井」として記されている。「深い川」とか「川尻がそこにある川」の意味がある。

オサウス(長臼)

「オ・サル・ウシ」と発音する。

「オ」は「川尻」、「サル」は「やぶ、湿原、よし原」、「ウシ」は「…‥・の群生(群来)する」の意味であり、「オサルウシ」とは「川尻によし(原)が群生するところ」の意味をもつ地名である。

また別に、「オ・サッ・ウシ」と発音すると「サッ」とは「乾いている、水の涸れている」の意であり、「ウシ」は「いつも……するところ」の意味をもつから、「川尻がいつも乾いている(水の涸れている)ところ」の意味にも解される。

チョーブシ(長節)

「チップ・ウシ」と発音する地名であろう。

「チップ」は「魚、(すなわち鮭)」の意味で、「ウシ」は……の群来(群在)するところ」 であるから、「チップウシ」とは「魚(鮭)の群在(来)するところ」の意味の地名である。

なお「ウシ」の発音は「午」または「石」と表記されている地名が北海道には非常に多い。

ホロオカ(幌岡)

「ポロ・オ・カ」という発音である。

「ポロ」は「大きな、親なる」、「オ」は「川尻」、「カ」は「……の上……、のかみて、……のほとり」の意味で、「ホロ・オ・カ」とは「大きな川尻の上、(ほとり)」の意味をもつ地名でこれも北海道には非常に多い。なお「ホロカ」、「ホルカ」と発音して「後戻りする」という意味もある。

「後戻りする」といぅのは、川が、その上流で流路の方向を変えて、逆に海の方向から山に向って流れているような川の地域につけられる場合である。

レブンナイ(礼文内)

「レプ・ウン・ナイ」と発音する。

「レプ」とは「沖の方にいる、部落から遠い方の…‥」の意味であり、「ウン」は「そこにある、そこに入る」の意味で「ナイ」は「川」、すなわち「レプ・ウン・ナイ」とは「部落から遠い方のそこに入る(そこにある)川」という地名で、ここで「部落」とはどこのコタンを指すものか不明ではある。

また「ナイ」を「ライ」とした場合「死んだ川(川を生物と見ている)」を意味し、アイヌはしばしば「古川」にこうした名を付けることがある。

トーナイ(統内)

「トー・ナイ」で、「トー」は「沼」、「ナイ」は「川」すなわち、「沼の川」という地である。また「沼から出る川」の意。地名解には「沼流レテ川トナルヲ云フ」とあって、日高沙流にも同じ地名がある。

現地は今日でこそ十勝川の護岸工事で立派な農地に生れ変っているが、昔は「十弗村記録」が伝えているように、

「十勝川川向いには、広漢たる芦原原野際限なきを見、人声絶えて無く、時に鹿、狐の鳴声を聞くの外淋しさのきわめり……」

とあり、一帯は無数の河跡、沼が有ったことがうかがわれるのである。

カンカンビラ

「カンカン・ビラ」と発音する。

「カンカン」とは「腸」の意味で普通は「腸のように幾重にも屈曲して流れている川」と訳される。

「ピラ」は「崖」で、「カンカン・ピラ」とは「曲りくねって流れている川の崖」という意味となる。

トイトッキ

「トー・エトク」と発音する。

「トー」は「沼」、「エトク」は「……のきわめ……のきわまるところ」の意味で、「沼のきわ(はて)」「沼に突端」の意味をもつ地名である。

発音を「トー・ライ・エトク」とすると「湿の水たまりの突端」、地名解にいう「沼水の腐りて黒くなりたるきわめ処」となる。現地はいずれの解訳もなりたつ湿地帯である。

アイウシ(愛牛)

「アイ」は「いらくさ」、「ウシ」は「……の群生するところ」の意味で、「アイウシ」とは「いら草の群生するところ」という地名の所である。

トシベッブト(利別太

「トシ・べツ・プト」と発音したもので、「トシ」とは「縄の(ような)」、「ペツ」は「川」、「プト」は「……の川口」の意味で「トシ・べツ・プト」とは「縄のような川の川口」という意味の地名で、蛇行する利別川が十勝川に合流する今日の川合周辺をさすものである。なお、「トシ」は「蛇」の忌詞で ある。

ウシシュベツ(牛音別)

「ウシ・シュツ・ペツ」で、「ウシ」とは「いつも……そこにある」、「シュツ」とは「根もと、山裾、ふもと」等の意味をもち、「ぺツ」は「川」要するに「いつも山裾にある川」、すなわち「いつも山裾を流れる川」の意味となる地名である。この川は上流に大川と小川の支流をもち、その流域は町内でも有数 の水稲農耕地を形成している。また松浦武四郎の「十勝日誌」には「ウシ・シべツ」とあって、「いつもそこにある大きな(自分の)川の意味をもっている。

コロモトー

「コロ・モ・トー」と発音され、「コロ」とは「浜」、「モ」は「静かである」 または「子、小」の意味で「トー」は「沼」の意味で「コロ・モ・トー」とは「浜の静かである(小さな)沼」の意味となる。

オイカモナイ(生花苗)

「オ・イ・カマ・オ・ナイ」と発音する。

「オ」は」川尻、川口」、「イ」は「所」、「カマ」は「岩、扁盤」、「オ」は「そこにある、群在する「ナイ」は「川、沢、谷」の意味で、要するに「川尻の所に扁盤(岩)がそこにある川、(沢)」の意味であり、アイヌ語入門の著者、知里氏は「オ」「そこにある」動詞の語頭や後出の名詞との間の種々の 関係を示す重要な役割をもつものなので見逃がさないようにと注意している。

先住民族

 アイヌ民族の伝説

(図1)

(図1)

旅来砦趾(ちゃし)の口碑

この砦趾はその昔カムイの作ったものであるという。

ある年、好戦的な日高アイヌがこの地を改めて来たとき、十勝アイヌは旅来にこの砦趾を作った。

攻め来る日高アイヌを防ぎ激しく対陣すること数10日、遂に十勝アイヌは日高勢を敗り、十勝を守ることに成功した。

しかし、十勝アイヌの酋長は不幸にして敵の矢に当り、深い傷を負ったのである。

酋長は傷にもめげずこの砦域に四肢を踏張って立ち、日高をにらみながらタップカラ(神楽)を舞い、舞い終るや、その場に倒れ遂に死んだという。

やがて部下達は戦勝の英雄として死んで行った酋長のことを忘れず、この地を「タップカラライ」=「旅来」と呼ぶようになったという。

旅来沼の鯉

 昔、十勝のコタンに侵入してきた日高コタンの若者が、戦に破れ傷ついて、3日3晩も雨にうたれ、露に濡れて倒れているのを十勝コタンの娘が発見し、コタンの者達の眼を逃れて、この傷ついた敵軍の若者を山小屋の中で介抱した。
 やがて傷のなおった若者は日高コタンに帰ることになった。
 しかし若い2人の心には、この頃、敵味方の恩讐を越えた情熱が燃えていた。
 コタンには他のコタンの者と結ばれてはいけない掟があった。
まして、長年の宿敵同志の十勝コタンの娘と日高コタンの若者が結婚するということは、全く絶望的なことであった。
 それでも2人は草深い山小屋で愛を誓い、若者は1年後の今日必ず娘をつれに戻ると言い残して別れたのであった。
 それから長く待遠しかった1年が来た。しかし若者は遂に娘の所に現われはしなかった。

 また1年が過ぎた。そしてまた1年が過ぎた。
 そしてある日、娘は若者を慕って日高コタンを尋ねるべくコタンを逃げ出したが、味方の見張につかまり連れ戻されてしまった。
 思いあまった娘は遂に付近の沼に身を投じたのであった。

 それから1年がまた過ぎ日高と十勝のコタンに平和が訪れた日、愛する娘が今は亡いことも知らず、酋長となった若者は十勝コタンに戻ってきたのだった。
 娘の死を知った若者は川風にさざ波の寄せる柳原に立ちつくし彼女の冥福を祈ると共に、心の中に夫婦のちぎりを固く誓うのだった。
 それからいつのまにか魚のすまなかったこの沼に、鯉が棲みはじめたというのである。
 注 この伝説は多分に和人によって脚色されたむきがある。

カンチューが行くぞオ!!

川の水が凍結することは別に不思議なことではない。しかしアイヌ民族にとってみるとそれは神秘な現象なのである。

まして利別川にはりつめた氷が早春の暖気にとけ、融雪による増水がこの氷を一気に流す勢は、まさに白い魔物が川をあばれ廻る姿に映ったものであろう。

利別川流域のアイヌは、この川の流氷を「カンチュー」と呼び、この時期にコタンのアイヌは「カチューが行くぞ逃れ」(カンチュー、サンナ、キラヤーン)と言っておそれたという。

乳兄弟

 昔、十勝が飢饉に見舞われた時、十勝の者達は石狩川筋の部落の食糧をかすめとろうと大雪山を越え、石狩川を下って行った。これに対して、石狩川上流の酋長は酒を出し十勝勢を接待し「十勝も石狩も、もとは大雪山という1人の母親の2つの乳房によって育てられた乳兄弟ではないか、どうか心おきなく飲んでくれ」と酋長にもてなされたので十勝勢は出がけの下心を恥じ、戦斗用の石をかくし戻って来たという。

(史料源蔵著「アイヌ昭和43年5月発行」)

命より大切な針

日高や十勝のコタンには針を大切にする余り、こんな笑話がある。

部落のはずれで危急を知らせるフホーという声がしたので、皆外へ飛び出しどうした針でもなくしたのかとどなったら子供が死んだといった。

桑原ツウレサンの談話

「十勝大川の氷がとけて流れており、今の豊頃村ウシュベツの川口にあつまる時、丁度ウタチシペ(大雨が降ってる)が茂岩で見られる。その季節に当る月」をモキウタといい、季節の月の名である。12の月の名の語尾にはチュプカムイの名をつけて呼ぶ。

(「十勝アイヌ十一故老の談話記録」より―原文のまゝ)

盲人・トルホッパ

 トカチ川の流域にハラトウというコタンが有った。
 そこは海岸より15、6里も上の所であったが、ここにトルホッパという酋長(惣乙名)がいた。
 ヲホッナイ(大津)にもちょいちょい姿を見せたというが、この男、白髪は胸に伸び、体格はこの上なく頑強で十勝一帯にもその豪勇振りは知れわたり、誰1人としてこの酋長の威令に背くものはないといわれていた。
 ウセモンという妻の外にカンナリ、オヤモンといい20才程の美しいメノコ2人をはべらせていた。
 この酋長は十勝一帯の川すじや、山、谷のことに関して知らぬことはなく、山並、沢の様子、川の水源等、とにかく鬼神の如く知りつくし、聞いて答えられぬことはなかったという。
 88才の冬死去したという。

(「近世蝦夷人物誌」より)

入植者の経緯

初期の入植と部落集団の成立

ニ宮地区の開発と報徳会

「ニ宮地区」と呼ばれている地区は、現在農耕地2,107ヘクタールの中に、143戸の世帯、830人の農家人口が、9つの部落集団を形成している。丘陵で区切られた掌状の盆地の総称である。今では他の地区と比べて特別に変った地域社会というわけではないが、入植と開発の過程、開拓農民の精神と経済の背景となったいくつかの独自性は、北海道開拓史上に特記されるものであったので、他の地区より詳述してみることとする

社団法人牛首別報徳会は、昭和36年4月8日「牛首別報徳会六十年史」を発刊したが、主としてこの全史から地区の歩みを抽出することにより、ニ宮開拓の独自性とともに、往時の総べての開拓農民の姿をしのぶこととする。

ニ宮尊親と興復杜

ニ宮尊親は、尊徳の子尊行の長男として、安政2年11月16日栃木県上都賀郡今市町で生れた。明治元年尊親が12才の時、父尊行が福島県(当時岩代国)中村藩に招かれ、それにしたがって同地にいったが、明治4年父の死にあい、17才で跡を継いだ。しかし同年廃藩置県の制度改革で失職することとなった。

明治10年2月に、祖父尊徳の高弟富田高慶が興復社を創立するとき、副社長として参加したが、この輿復社はニ宮尊徳の影響を受けた中村藩政のひとつで、弘安2年に始まった興国安民法に結社の動機がある。この法は藩の租税5カ年の平均の農業生産を資本とし、藩の施策で開かれた土地からのものも報徳米として財源にし、藩下の住民の安定をはかろうとするものであったが、廃藩置県によってこの制度の継続を国に申請し、さらにこれが採用にならない場合の第2案も用意して願い出たが、双方とも許可にならず、国は、「行ないたいのであれば、官費に依存せず下の方で考えて実施したらよいであろう。」とのことであっ た。しかし、平均外と称する分度外の米代金は国庫にはいり、また鍬下年期中の開墾地報徳米も、官納させられて、財源がなくなり、3カ年実施したのみで福島県に引継いだ。県では時の山吉県令が明治10年1月、富田高慶に「今や制度改革を迫られ、官庁はどの様に統廃合するか判らないので、たとえ良い施策であっても、そうたびたび変えられたのでは、本来の目的を失って、残ったものは粕ばかりという状態になるおそれがある。この様な事業を将来とも続けてゆくには、人材を得て結社による方が、官営より良いのではないか、結社で力不足なら官でも協力は惜しまない。」という旨を伝えたが、富田は「高い所から低い所え水を流す様な力を持つ国や県が行なってさえ困難であったことを、平地に水をあける様な民間の力では溜り水となって実績はあがり難いかも知れませんが、官庁が相当の協力援助をしてくれるのであれば民間結社相応の仕事もあるでしょう。県庁で既に決まったことでありますし、このままではこの施策も無くなってしまうので、少しでも民間で行なうことがあったら、すべてを失うよりはましでしょう。」との意味の回答をし、有志が集まって結社の出願を決め、「興復社」と称することとなった。

興復社は、福島県下で1,078ヘクタール余の開墾を手がけたが、維新後の混乱から、貸し金を棒引きにしようとする者も出て釆て資金の回収が出来ず、いたしかたなく明治20年からは新規の取扱いを中止した。さらに明治23年には社長の富田が病死した。副社長であったニ宮尊親は跡を継いで社長となったが、苦しい興復社の再建を迫られていた。

尊親は、「興復社は報徳の教に基き、善行を奨励し、汚風を矯正し、勤倹を勧め、奢侈を戒めて、家、村、国の衰貧を興すのが目的である。」と考えた。福島県が、新に土地を開く資金に乏しく、荒廃地であったものに資金を貸して聞かせ、貧困なものを救助して来たのもこれがためであった。そして、「今後は北海道に農民を移して土地を開き、ある年限がたてば、配当地を全部譲って、それぞれ独立した家をつくってゆくのも興復杜の目的に添うものであり、国に報ゆる道でもあろう。」と北海道移民の構想を練り始めたのである。

土地の探検

開拓事業の成否は、経営地の選定に支配されるところが大きいと考えた尊親は、移住地の探検のため、明治29年7月、探検隊を組織して北海道へ出発した。一行は社長のニ宮尊親をはじめ、社員の大槻吉直・小倉精宗・大槻太郎・札幌農学校出身の大槻由巳等である。

宮城県の岩沼から青森に到着、函館を経て室蘭に上陸したが、ここで2班に別れ、1班は由仁・栗山方面、他の1班は札幌に出て、北海道庁殖民部と打ち合わせた。調査班の報告で、石狩・空知方面は既に開拓が進んで適地がないことが判り、石狩を越えて上川にはいり、富良野平野を調査したが、鉄道布設の見通しが悪く、物資輸送の困難が懸念されたので、さらに日高に足を向けたが、ここでも適地を見つけることが出来なかった。悩んだ一行は十勝にはいることを決意し、襟裳岬をまわって十勝河口の大津に着き、大津移民世話所に滞在することとなった。ここで開拓地選定について世話所の人と話し合い、十勝川をさかのぼって幕別付近に上陸したが、思い悩んでいた一行に案内人は、既に開拓に従事していた晩成社依田勉三を紹介した。依田は慶応義塾在学中に、報徳とニ宮尊徳のことを聞いていたので、この来訪をよろこび、語り合って再会を約して別れた。一行は再び丸木舟で十勝川を下り、日没となって大津に上陸したが、宿でアイヌのトカンという青年に紹介され、彼から牛首別に肥よく(沃)な未開の原野のあることを聞き、トカンを案内人として、再び馬で牛首別原野へ逆戻りした。茂岩の駅逓で馬を預け、徒歩で牛首別川ぞいに奥地にはいって行った。

ここで彼等は、既に明治26年から下牛首別に入地していた富山県人の1人、中川勇作の家を訪ねあてた。中川勇作の家は現在の渡辺商店の所にあたり、当時は松本与譲(原良秀の東)・神垣徳之助(平田末治付近)・神垣嘉太郎(脇坂庄一付近)・港三平(水口商店付近)などがはいっていた。中川に逢った彼等は、神垣徳之助の家で休み、さらに進んで丸山を発見し、これに登った展望と、草木の繁茂状態から、肥よく(沃)の程度を推し測り、牛首別原野を興復社の事業地と定めたのである。

大津に戻って、移民世話所と打ち合わせをすまし、船で室蘭に直行して、ここから札幌に出向いて長官に逢い、1,500ヘクタールの土地払下げ手続きをして帰郷した。この帰郷報告によって移住が決定し、興復杜農場の事業開始となったのである。

移住

移住地が北海道十勝国の牛首別と決定したので、明治30年尊親は「北海道開拓移民趣意書」を作成し、農民によびかけた。

報徳訓

報徳訓

二宮尊親

二宮尊親

二宮尊徳

二宮尊徳



殖民地開設趣意

 今回は本社が北海道に拓殖の事業を企画したる趣旨と移住民を募集する手続とを概略陳述せんとする。然して其の前に一言せんと欲するものであり、本社沿革の1班なり、これ等のことは既に熟知せらるる諸君も多く、不必要の感起さるるべけれども、聊か之を述べざれば本社の系統明らかならず、企業の由来詳かならず。
 或は北海道事業のため俄に起したる結社の如く、或は好奇的、或は営利的に企業したるもののごとき世評も免るべからざるを恐る。さりながら今其の発端より述ぶることは甚だ煩に過ぐるを以て、往昔は姑く措き中村藩以来とす。中村藩の開業は、今を距るること実に60年前にあり、当時御仕法と唱えて大いに民間を撫育せられ、20有7年間盛に行われたり。維新の革命に及んで1旦止みたれども、新置の磐前藩は之を継承することとなり遂に管内一般に発業せらる。この時の方法は中村藩の如くならず、僅かに開墾の一方法に過ぎざるを以って、区域は拡張したるも事業は収縮の感あり、幾くなくして合県斯業又福島に転す。爾来磐前藩のあとをつぎ専ら開墾を奨励して、其の資を貸与し、荒地1,000町歩を開きたり。将来連綿として息まざる時は、聊か国益の一端ともなるべけれども、時勢の変遷、不納者、年に多きを加え一時事業を中止し、整理の一方にのみ従事せり、此に於てか、未納漸次に整頓、再び開業の気運に向えり、しかして外社会の現象如何と云えは土地は月に開け、人々は年に増し、国力増進の結果として、中産以下の農民に至っては、却って日に益々土地を得るの困難を来せり、何ぞや田畑を購て家庭の不足を補なわんとせは、非常の高価にして、到抵薄資者手を出す能わず。荒蕪をえらんで開墾せんとせば、最早良土なくして希望を達する能わず、空しくも苦境に沈吟するものあり、又2、3男を分戸せんとして、其の計画をなすも、同じく前の事情に依って目的を果す能わず、徒らに我身の不幸を嘆くものあればなり。是等の類は世間何地を問わず多少免れ難き通患にして此の地方も中1年に傾向を呈しつつあり、国連の進歩は賀すべきことなれども又此の状態はあわれむべきものと云うべし。然り而して眼を転じて、彼の北海道を観察すれは、軍事上に至りては、北門の鎖(金に侖の字)と云え、経済上に在りては我邦の府庫と云え、沃野千里雲烟看過に付すべからざるの境土たり。余、試みに1昨年渡航して聊か風物山川を探見したるに、拓殖上には全国の人、大となく小となく、相争い相集りて資を投じ業を起す。恰も野に相斗うの有様をなし、駸々と乎として進歩の状実に予想の外に出で、其の盛事に一驚したり。依って以為く此の有様にて進み行きなば千里の沃野も永く千里の沃野たらざるべし。業を起さんとするものは、今にして起さは又良地なきを苦しむも遠きにあらざるべし。家産優かならざるもの2、3男にして分戸せんとするものは宜敷く勇奮渡道すべきの秋なり。安心移住の地なりと信ぜり。然れども資乏しく力弱くして独力以って其の業に当らんとするは、又容易の事にあらざれは到底薄資者は他の援助を仰がざれば成業を期すべからず。本社若し此間に介立して、此の困民を移し此の廃地を開かば一は生活し難きものに、活路を与え、一は開国以来の廃地を開きて物産を殖するを得べし、然らば比の拳を以って我社業を継続し、我道を拡張するに足らんか。時恰かも社業改正の議あるを以って、社則を更正し茲に方針を定めて昨年北海の野に、社業を移すこととなれり。是れ北海道に拓殖事業を創設する所以にして、拓殖の為め俄に結社したるにあらず、叉好奇的営利的に初めたるものにあらざるなり。
 斯くの如く仕法は官行となり、民業となり、比の地に行われ彼地に及び転々して同じからず或は大に、或は小に盛衰消長均しからずと雖も公利を起し、国益を挙ぐるの目的又徳に報ゆるの精神に至っては、毫も変ることなく今日に至るものなり。しかのみならず報徳法発端以来自然の趨勢を回顧せば、駿遠相豆の諸州に行われて今日最も盛況を呈すと雖も廃邑を起し、衰国を挙ぐるの方法は野総常奥の間に行なわるもの最も多くして、我邦の開けたる順序と同じく束漸して未開の地に進行しあれば、今日我社業の北海道に行わるも亦、偶然にあらざるべし。
 企業の大意斯くの如く専ら窮民救助に出ると雖も移住者は一時の小作人にあらず将来自治独立の農民たるものなれば、漫りに募集するを欲せず、試みに看よ茄子の種子を蒔けば瓜は生ぜず、悪種を植えれば善果を得ず、殖民地は耕地の如く移住民は種子の如し悪種を植れば其の生育必ず佳良なるを得ず、是れ移住民資格なるものを定め以って、合格者より募集する所以なり、昨年第1期より、此の手続を以って、募集を了せり。今や第2期を募集す。有志の士は期限内に申込まるべし。

この趣意の中から興復社の意義、指導者としてのニ宮尊親の真意、そして移民募集までの経緯をくみとることが出来る。

移住民募集にあたり興復社は、明治29年10月に、「移住民規約」を定め、「移住民資格」「出願手続」「携帯金取扱方」「旅行心得」「土地配当手 続」「給与品渡方手続」も決めた。

この移住諸規程により、応募して移住が開始されたが、その第1期移住は、明治30年4月8日に行なわれた。入地したときの様子は、ニ宮小学校編の「ニ宮郷土史」は次のごとく掲げている。

 30年4月事務員は移住民男女数10名引率して渡航せしむ。当時原野には、単独移住の5名あるのみ、移住民はひとまずこれ等の小屋に同居し、社長事務員一同鍬をとり、おのを振って工事を助け、数10日にしてひとつの小屋をつくりあげたり。これ今日尚保存する記念小屋なり。当時器具という器具はなし、日用品の買入は7里を距る大津に往かざれば弁じ難く、数10日間入浴能わず時々日用品に欠乏し米飯に味噌を甞めてその日を送りしこと多かりき

このようにして入植した第1期の移住民は次の人々であった。

武野侃 岡和田勝衛 佐藤留七 原良助 竹田右馬之助
渡部由蔵 渡辺松助 木幡政昌 玉置福房 木幡吾助
木幡留次郎 田中佐吉 木幡正晴 木幡庄太郎 軍司光信
松本与譲 港三平 神垣万右衛門 神垣嘉太郎  

以上19戸であるが、このうち松本与譲・港三平・神垣万右衛門・神垣嘉太郎の4戸は第1期入植以前から入地していた先住者であるから、実際にこの時 福島県から渡航して来た移住者は15戸で、先住者の4戸も興復社が定めた1番組から5番組(後に13番組まで出来た)の組級に参加し、報徳会員にもなった 人々である。

二宮農場標柱 記念小屋 蔵庫
二宮農場標柱 記念小屋 蔵庫

その後明治34年第5期までの定期募集による集団移住と、後継移住、さらに半期移住、小作、分家その他の入地者も加わって、この地区の開拓が進んだ。当初5カ年間に於ける戸数、人口の増加の様子を見てもその急速な進展がうかがわれる。

この様にして、輿復社が計画した移民は、基本的には5カ年でほぼ目的を達し、それぞれ「番組」に所属し、配当地を受け自立農家を目指し、あるいは自家配当地の開墾に、あるいは「番組」の協同作業、農場あげての公共施設造成に汗を流すこととなったのである。

北海道ウシシュベツ輿復杜の設立と事業

第1期入植のあった明治30年4月に先だち、同年3月福島県下の興復社にならって、ニ宮尊親は、「北海道ウシシュべツ興復社」設立の申請をして許可指令を得たが、さらに土地の無償貸付などの出願手統もあって、同31年4月、これも含めた許可指令を得て興復社の事業としての開拓が本格的に開始された。

開墾の計画を達成するために、最も移住者を苦しめたのは、1,330ヘクタールを上回る貸付地の8割以上を占める湿地で、この一面に密集する谷地坊主(編者注、ヤチボーズ〜カヤツリグサ科のヒラギシスゲCarexAugu-stionowiczii-Meinshの根部の人頭状の地上堆の方言)で、野焼きしたのち、これを切って除き、その後でなければくわ(鍬)やプラウを入れることが出来なかった。

そのほかに宅地、農道や仮配当で自然に開いたものなどが、203町8反7畝4歩があり、合計明治41年末までに、843町8反7畝4歩が開拓された。この間12年を要したが、殆んどを人手と馬で行ったことを考えれば、偉大な成果であったといえよう。

谷地坊主

谷地坊主

興復社では、この農用地開墾のほかに、馬匹の増加に伴う協同放牧場設置の必要性から、明治35年3月に有償貸付として申請し、393万1,727坪を10年の年限で、38年4月許可された。以後4カ年で延長2万400間以上の木柵をめぐらし、300頭以上の馬を放牧されるに至った。

二宮尊親は、興復社農場内に成立した移住民による社会集団の団結と、農民の心構え、農業技術を向上するために毎月例会を開催せしめた。例会は、他の農民集団とはいささか異なった気風を持たせ、きわめて近年までそれが受けつがれて来ている。例会の様子を「牛首別報徳会六十年史」から引用すると

  尊親先生日く集会は「芋コチ」なりと、其の意土芋を洗うとき桶に入れて掻き回せば1個づつ洗はざるも皆清浄となると同じく、人も1人1人に教えざるも寄り合って、説話を聞き、又互に談話を交換せば、自然に智恵を進め、土手の清浄となるに等しと言うなるべし。然らば集会は精神修養の一義として、誠に軽んずべからざるものあり。
  又日く土地の開墾よりも心田の開墾は急務なりと、今や未開の原野にありて、土地の開墾は1日もゆるがせにすべからず、しかし汲々たりといえども、心田の開墾は猶其の急務たるを覚ゆ。
  然れども、其の方法に至りては如何にせば可なるや、容易に其の道を得ず、先づ以て移民平常に注意すると同時に、一面には瀕々芋コチ会を開きて、修養につとめんと計れり。然るに目前に横われる土地の開墾を措きて、頻々集会を催すことは勢い行われ難きを以って、月1回に止め、晴雨にかかわらず農繁を問わず持続し来れり、会合の場合は出席者の配列は、力農篤行者を上席となし、以下組ごとに席を設け、規律正しく着席し、社長始め事務員出席して専ら、報徳教育、農業談又は一般の道徳・経済・日常の心得等に付、其の場合に適したる事項につき講演し、終て協議にあたるを常とす。
  斯くのごとき趣旨にて、此の集会は開かれつつあるも、心田開墾は一つの成化事業にして、土地の開墾よりも至難なるは勿論にして不徳者の容易に能くすべきものにあらず、且つ僅か月1回の集会にすぎざれは、能く事理を解する者、鮮く趣味を覚えず、唯義務に出席するもの多きは又怪むに足らざるなり。然れども毎月怠らずよく出席するものは、其の志賞するに足るを以て、去る38年より毎月無欠席者にはその精勤を賞して、鎌2枚を与うることとなし、合せて他の奨励となせり。
  別に著るしく認むべき美事善行も見えざれども、悪事を犯すものなきに至れり。叉勤怠を検するに常に出席簿を調整し、其の勤怠を記入し毎年統計を作りたり

とある。

尊親の指導の在り方と農民の集会の様子が如実に現われている。興復社はまた、力農篤行者の表彰も行い農民の励みとした。表彰の方法は毎年1回の表彰式であるが、投票により1票につき25銭の割合で、票数に応じて賞金を与えるほか、報徳訓掛軸1幅鎌2枚ホー2丁を添え、1番から3番までを当選として表彰して来たが戸数が増加して5番までを入れた。

羅災救恤としても焼失の場合は1戸稲きび(黍)半俵(後に金1円に改む)を組合員から出し合い、組外から1戸20銭(後に15銭)を助成した。疾病や水害にも労力奉仕、報徳金延期、救助金を出すなどの扶助を行い、東北地方の凶作にも福島相馬郡に義えん(損)金を贈ったりした。